みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

同労者たち

2018年01月29日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 4章

 礼拝からの帰りは先週とほぼ同じ時間でしたが、日が少しずつ延びてきているのがわかります。日本は寒波が次々に押し寄せていますが、当地ではそれほど寒くない冬を過ごしています。

 コロサイ人への手紙は終章。「みことばの光」では1−6節を取り上げて書かれていますので、ここでは7節以降に目を留めてみたいと思います。

 この部分には多くの人の名前が出ています。まず、パウロのところからこの手紙を届けるためにコロサイに向かう二人を紹介します。ティキコのことをパウロは、「愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべ」と呼んでいます。最高の賛辞と言えるでしょう。パウロがどれほどティキコを頼りにしていたのかがわかります。パウロというと、何でも一人で成し遂げた超人のように受け取られがちですが、ともに主に仕え、教会に仕えるティキコのような人々がいての働きだということに気づきます。

 オネシモは、コロサイに住んでいたと思われるピレモンの奴隷で、ピレモンから逃げ出しローマの獄中でパウロに出会って、キリストを信じました。今、彼はティキコと共にそのコロサイに、ピレモンのもとに行こうとしているのです。ですから、16節にある「ラオディキアから回ってくる手紙」が「ピレモンの手紙」だと考える人もいます。かつてはみんなに迷惑をかけていた者が、今は「仲間」として戻って行こうとしています。

 またここには、パウロとともにある6人の名前も出ています。アリスタルコ、バルナバのいとこマルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、医者ルカ、デマスです。

 すべてを取り上げることはできませんが、たとえばマルコは伝道旅行の途中で帰ってしまい、次の伝道旅行に連れて行くか行かないかでバルナバと言い争いになってしまったような人物です。使徒の働き15章35−41でご確認ください。パウロはマルコを「迎え入れるように」と言っていますので、この時は信用回復の途上だったかもしれません。

 自分ならばいっしょにいる人を誰かにどのように紹介するだろうか、また、自分をいっしょにいる誰かはどのように紹介するだろうかと考えてみました。

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上にあるものを思い、求める

2018年01月27日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 3章1−11節

 月一度の子ども集会で、「聖書カルタ」に挑戦。子どもたちが一枚でも多く…と真剣なのを見て微笑ましく思いました。そのあとで、もう一つのゲームをしようということになりましたが、私たちは散々な結果に…。色を識別して即座に判断しなければならないカードゲームなのですが、子どもたちの速いこと速いこと。ゲームの箱には「3歳から99歳まで」と書いてあります。該当者ですので、練習してこの次は!

 この手紙も、3章から後は信仰者の生活実践編と言えるような内容になっています。福音に生きる、福音に歩むとはどのようなことかを具体的に伝えているのです。そしてきょうの箇所は、生活実践編の基本姿勢とも言うべきこと。

 コロサイの人々に、キリストとともによみがえらされたのだから、すでに死んでいるのだから、上にあるものを求めるように、上にあるものを思うようにと勧めています。よみがえらされた、すでに死んでいるとは、キリストを信じる者に起こった出来事です。その事実を踏まえて、何を求め何を求めるようにとパウロは促すのです。

 自分が誰なのか、どのような立場の者なのかを知るならば、自ずと何を求め何を思うのかに変化が生じます。5節にあるような過去の自分が追い求めていたものを、もはや求め思う者ではなくなったのだというのです。

 パウロはさらに、古い人を脱ぎ、新しい人を着たということばを用いることで、上を求め、上を思うことがキリストを信じた者にとってどれほど理に適っているのかと書いています。

 今自分がこだわっているのはどのようなことなのか、気づかないうちに自分の新しい存在と矛盾するようなものを求めているのではないだろうかと、探られます。

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肉を満足されるもの

2018年01月26日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 2章16−23節

 昨晩は、40年近くのおつき合いのある知人がわが家を訪ねてくれました。仕事のために日本から着き、疲れているはずなのに再会を喜んでくださいました。年齢も私よりも少し上の方で、起業し長い間会社を育て守ってこられた方です。それぞれが相手がいてくれたので今の自分がある、との話を持っており、時間を忘れるほど話に花が咲きました。

 ここでパウロは、コロサイの教会を混乱に陥れていた間違った教えの本質に触れています。彼らの特徴は、あれこれと規制を守り守らせること、ことさらに自己卑下すること、御使い礼拝(人間の好き勝手な礼拝)をすることなどにあります。

 一見これらのことは、宗教的で立派であるかのように見えます。けれどもパウロは、このような人々は実は謙遜とか敬虔とかいうのではなくて、かえって肉の思いによっていたずらに思い上がっているのだと指摘しています。規則を守るのも自己卑下するもの、実は自分のため。そのようにしている自分を見て思い上がるのです。

 大切なのは何をする、何ができるではなくて、誰に結びついているのかということだと教えられます。19節の「かしらにしっかり結びつく」ということばを心にとめました。

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キリストが満ちている

2018年01月25日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 2章1−15節

 住まいの地下にある物置にあった「粗大ゴミ」を片づけてもらいました。市の清掃サービスのWebページで持って行ってほしいものをリストにして登録すると、取りに来る日時が知らされます。これを書いている時には、家の前の通行の邪魔にならない場所に登録してあるものを出した状態です。取りに来てくれるでしょうか。新しい体験をするごとにドキドキしています。

 パウロは苦闘しています。それは、コロサイと近くのラオディキアの人たちがキリストを知るようになるための苦闘です。ところで、昨年10月31日に出た「聖書新改訳2017」では、これまでの新改訳聖書と比べて、特に人名が地名が変わっていることに気づきます。ラオディキアもその一つ。以前の聖書ではラオデキヤとなっていました。ちなみに、新共同訳聖書は「ラオディキア」と訳します。

 この教会は、忍び込んできた誤った教えに惑わされていました。パウロはそれを「あの空しいだましごとの哲学」と書いて注意を呼びかけています。「哲学」とありますので、おそらくそれは人々の知的な求めを満足させるかのように緻密に組み立てられた考えだったのではないでしょうか。一方で福音とは、私たちの罪を贖うために十字架にかかり、復活してくださったイエス・キリストを信じる人は救われるというものです。それを信じれば救われるとは、あまりにも単純すぎ愚かでさえあると、過ちを教え広めている者は、コロサイ、ラオディキアの人々の心に揺さぶりをかけたのです。

 そんなことで救われるのか、何を信じているのだ、などという声は信じる私たちに届きます。それは、自分も罪からの解放、いのちのために何かしなければならないという思いを上手にすくい取っている揺さぶりです。

 パウロは、そのような教え、人々の不安に対して、「キリスト」ということばを続けざまに用いて答えます。それは、キリストおひとりで十分であり、それに何も付け加えることはないということです。

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あなたがたも

2018年01月24日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 1章21ー29節

 一週間後に出かけるイスラエルツアーの準備をしました。作成したガイドを用いて訪ねる地をなぞり、結びつきのある聖句を確かめることで、すでに旅した気持ちになります。

 この箇所には、福音を伝えるために苦闘しているのを知ってほしいとのパウロの願いが表れています。「あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」とはコロサイの人々への当てつけではありませんし、「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」とはキリストの十字架に至るまでの苦しみが不十分だと言っているのではありません。

 このことをきょうの「みことばの光」は、「宣教の労苦においてキリストと一つとされていることを言っている」と書いています。それは、教会に託された宣教のわざを、キリストも一緒に担っていてくださるということです。昇天前にイエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われました。それは、何と言うか静的な約束ではなくて、一緒に担ってくださるということではないか、と気づかされます。

 21節のはじめの「あなたがたも」ということばが心に留まります。「…も」ということは、パウロと同じようにということです。パウロ自身「かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中に」ありました。敵対する者に福音が届けられて、その福音を証しし、宣教するようになったというのです。この手紙を書きながらパウロは、イエスに敵対すべきだといきり立っていた自分への神のあわれみを覚えたことでしょう。

 「労苦しながら奮闘する」動機が、ここにあります。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki