みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

祈り、祈られて

2023年10月10日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 4章

 月曜日はさまざまな方々といっしょに過ごす良い時間を持ちました。高齢者施設のお昼ご飯をいただく機会を得ましたが、とても美味しく、豊かなランチタイムとなりました。

 コロサイ人への手紙の終章。2節以降が終わりの挨拶の部分です。 

 パウロは、「たゆみなく祈りなさい」と命じるだけでなく、「私たちのためにも祈ってください」と頼んでいます。彼はとりなしを必要としていたのです。

 またここからは、パウロがこの時どのような状況にあったかを知ることができます。彼は牢につながれていました。しかし自分がまるで獄中にいないかのようにして、キリストの奥義を語るべき語り方で明らかにするようにと願っています。パウロにとって、牢につながれていようがそうでなかろうが、キリストを伝えるということについては何ら変わりがないのです。

 状況が良くない、今がその時ではないという言い訳を、福音を託された者がする場合があります。 福音を届けるのに「悪い時」などないのだと、知らされます。

 ここには、たくさんの人々の名前が挙げられます。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、さらにルカ、デマス、そしてコロサイ側ではニンパという女性です。この中には、かつて「失敗」した人もいます。

 オネシモはピレモンの手紙に登場する逃亡奴隷のことでしょう。パウロはオネシモについて、「 以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています」とピレモンに書いています。オネシモは、パウロが獄中にいる時に福音を聞いて信仰に導かれました。オネシモも投獄されていたのでしょう。

 マルコは、パウロとバルナバとによる一回目の伝道旅行の折り、途中から離脱してしまい、信用を失ってしまいました。しかし、ここでパウロは、マルコをコロサイに送ろうとしています。彼は失敗から立ち上がりました。

 一方でデマスについてパウロは、テモテに送った彼の遺言とも言える手紙の中で、「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました」と書いています。

 このような姿を考えると、パウロが一貫してコロサイの人々に勧め続けた「キリストにあって歩む」ということが、どんな人にも、どんな環境にある場合にも肝要であることを覚えます。「上にある者を求めなさい」と……。


神に選ばれた者

2023年10月09日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 3章12−17節

 週末から火曜日にかけて南の方に来ています。でも、南といっても暖かい場所ではありません。日曜日の朝、窓を開けると寒さを覚えました。

 「新しい人を着たのです」とはどのようなことなのかについて、パウロは3章後半で話を進めます。 ここには、新しい人が着るものをリストアップしています。まるで、ある人がドレスアップするように描きます。さまざまな服をまとめる帯としての愛、その人は心において、ことばにおいて、そして行動において、すでに死んでしまった過去の自分とは全く違うのです。さらに、新しい人の思い、ことば、行動はその人の人間関係へと具体的に広がっていくのです。

 土曜日の夜一人の青年の話を聞きました。真剣に自分を見つめ、キリストを愛そうとする姿に感動を覚えました。確かな成長の跡を見る思いでした。そして、21節のことばを思いました。

 その前にパウロは、「新しい人」とは「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」だと明記します。自分が何かということが分からなければ、人は不安になりますし、前に進む力が出てきません。しかし、ここには私は誰なのかが明らかにされているのです。「神に選ばれた」ということだけを静かに思う時に、感謝が込み上げてきます。「選ばれる」というのはその人の努力や業績が認められての結果である場合が多いのです。

 神はどのような人をお選びになるのでしょうか。パウロはコリント人への手紙第一1章27―28節で次のように書いています。「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。 1Cor. 1:28  有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」 

 「誇る者は主を誇れ」ということばも、心に浮かんできます。「神に選ばれた者」ということばを思い巡らす一日でありたいと考えました。


影にしがみつく

2023年10月07日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 2章16ー23節

 久しぶりに洗車をしたら、右前に緑色の塗料の跡を発見。緑色の自動車がこすってそのまま行ってしまったようです。一言伝えてくれればよいのに、と残念な気持ちになりました。

 この箇所で目に留まったのは、繋がりを表す動詞です。「拠り頼み」「結びつく」「支えられ」「つなぎ合わされ」「離れる」「縛られる」などでしょうか。これらのことばから、私たちが何と、だれと繋がるのかはとても重要なことだということが教えられます。まっすぐに言えば、キリストに結びつくのかそれ以外のいろいろなものとつながるのかということであり、キリスト以外のものにつながることの空しさ、無力さが伝えられる一方で、かしらであるキリストにしっかり結ばれることの力強さが対照的です。

 20節に「キリストとともに死んで」ということばをおぼえます。この世に対して死んだのだから、この世に生きているように、頼りのない者につながるのは理に適ってはいないというのがパウロの伝えたいこと。私たちの回りにある、多くの人々が追い求めて止まないものは、すべてがやがて消え行くもの。しかし、教会もそのようなものをいつの間にか一緒になって追い求めているなどということはあるのです。

 「この世に生きていない」というのは、決して幽霊のようになったということではありません。キリストとともに死に、キリストとともに生かされた者は、なおもこの世を歩むのですが、しがみつく相手が全く違うのだということを考えさせられます。

*トルコ西部 アルティノルクにて


キリストにあって

2023年10月06日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 2章1−15節

 4日の内容について、「みことばの光」読者の方からの感想を発行元の聖書同盟を通じて頂戴しました。一部を紹介します。「今朝のみことばの光、号泣いたしました。天国を待ち望んで生きる!天に召されるその日まで、この地上で主の使命を果たす。励まされました。」

 ラオディキアとコロサイは、およそ20キロぐらい離れています。現在ラオディキアの発掘は進んでいるのですが、コロサイは手付かずです。

 1節のことばに目が留まります。パウロはラオディキアもコロサイも一度も訪ねてはいません。しかしパウロは、これらの教会のために「どんなに苦闘しているか、知ってほしい」と書いています。一度も訪ねたことのない地にある教会のために、彼は祈り続けるという苦闘を続けています。訪ねたことがある、会ったことがある人々でないのに、なぜパウロは、苦闘することができるのだろうかと考えています。

 5節に「私は肉体において離れていても、霊においてはあなたがたとともにい」ると書いています。パウロにとって遠くにいるから関心を持ちにくい、また具体的に祈ることができないということはありません。まだ一度も会ったことのない人のために祈り続ける…。

 私が学んだ神学校には「祈りの母」と呼ばれるとりなしの祈りがありました。アメリカの何人かのクリスチャンが日本の神学校で学ぶ、おそらく生涯一度も会うことがないであろう私のために、神にとりなしをし続けてくださったのです。

 そのようにできる鍵は、この部分で何度も用いられている「キリスト」にありました。キリストが一度もあったことのない者たちの共通の主(しゅ)だからなのです。6節で「キリストにあって歩みなさい」とパウロは勧めています。天に召されるその日まで……。


御前に立たせるため

2023年10月05日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 1章21−29節

 近くの公園を出て、スーパーに入ろうとすると向こうからお知り合いが……。しばらくぶりの再会です。そして、目的は同じでスーパーでの買い物。「ここはわが家の冷蔵庫」と言われるほど、お家が近くでした。

 御子による創造、御子による贖いを綴ったパウロは、ここで御子がご自分の死によって完成されたみわざによって、つまり福音によってコロサイの教会が誕生したこと、そしてそこに集う一人一人に与えられた確かな希望を確認しています。

 パウロは、自分をその福音に、キリストに仕える者だと証ししています。この箇所で目に留まるのは、「立たせる」ということば。22節ではコロサイの教会を「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるため」と書き、28節では「すべての人を、キリストにあって成熟したものとして立たせるため」と書いています。

 福音は、到底神の御前に立つことなどできない者を立つことができるようにする力があります。この世にあってどのように成功するのかということではなく、神に造られた人間の目的がここにあります。

 28節には、話すことについて三つの動詞が用いられています。キリストを宣べ伝え、……諭し、……教えます。そこには忍耐、労苦が伴います。だからこそ、生まれた者が成長し、成熟した者として御前に立てるのです。また28節には、「すべての人を」ということばが三度用いられます。クリスチャンすべてが御前に立つために労苦しつつ奮闘する、これが福音を託された者の姿です。

*エペソ(エフェソ)の劇場


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