みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

愛する者たちよ

2020年03月25日 | ユダの手紙

ユダの手紙 17−25節

 当地では新型コロナウイルス対策として、厳しい制限策が実施されています。通りには人が少なく、バスや電車もがらがらです。道を歩いて向こうから人が来ると、互いに避け合います。決して民族差別ではなくて2メートル以上の間隔を空けるようにとの規制からのことです。スーパーのレジも、前の客との間隔を2メートル空けて並びます。小さなお店では店内には客一人だけが入ることができ、他の人は外で待ちます。

 このような中に身を置きますと、これは大切な何かを学ぶ機会を神が与えておられるのだということをおぼえます。

 ユダの手紙の後半を読みます。ユダはこの手紙を「終りの時には」ということを意識して書いています。この手紙は恐らく、ローマ帝国による迫害によって教会が苦難の中にある頃、内部的には偽の教師たちによって教会の信仰が揺らぎ、神よりも自分の欲望を追い求める者が増えてくるような事情のなかで書かれたものです。

 このような危機にある中で大切なこととしてユダは、いくつかの動詞を用いています。まず17節の「思い起こしなさい」です。初めの教えを思い起こすのです。「築き上げなさい」「祈りなさい」という20節のことば、さらに21節には「待ち望みなさい」、そして人との結びつきのことばとして「あわれみなさい」「救いなさい」とのことばがあります。そしてこれらの動詞をつなぐものが、「愛する者たちよ」「神の愛のうちに」ではないかと思います。

 そのどれもが、キリスト者の信仰の歩みに欠けてはならないことです。ウィルスのことでは刻一刻とたくさんの情報が飛び込んできます。それらを正しく受け取ることとともに、今信仰者に神は何を求めておられるのかを、これらのことばから確かめることができるのではないでしょうか。 

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愛され、守られている

2020年03月24日 | ユダの手紙

ユダの手紙 1−16節

 晴れ渡った青空の月曜日、空気は真冬のように冷え込んでいましたが、近くの公園を歩きました。次第に行動が規制されつつありますが、公園に行くのは禁じられていませんので、可能な限り外に出ることにしています。読んでおられる皆さまはいかがでしょうか。

 きょうと明日とでユダの手紙を読みます。この手紙を書いたのは、主イエスの弟のユダ。彼は自分を「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダ」と紹介して手紙を書き出します。ヤコブはヤコブの手紙を書きました。

 主イエスの兄弟たちのことで思い起こす福音書のエピソードは、マルコ6章1−6節などに記されています。郷里の人々はイエスについて、「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか」と言ってつまずいたとあります。

 ヨハネ7章5節には「兄弟たちもイエスを信じていなかった」ということばもあります。そのようなユダやヤコブたちが、そろって手紙の初めに「イエス・キリストのしもべ」と言っていることに、神の恵みを覚えます。イエスを歴史上の偉人、宗教家としていた私たちも、自分をこのように見るようになったのは全くもって、神の恵みのほかありません。

 1節の「父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている」ということばから慰めをいただきました。改めてこのような時に、愛され、守られているのだというメッセージを受けられることで、縮こまりがちな自分の背中がすっと伸びるように思います。

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愛する人々よ

2015年03月26日 | ユダの手紙

ユダの手紙 17−25節

 きのう午後は、市内外の障がい者支援施設と団体が協力して運営している福祉の店の改装の打ち合わせで、ものつくり大学におじゃましました。大学の先生がたが協力してくださって、学生の卒業研究の一環として店舗リニューアルを手がけてくださることになったのです。模型を手に、一生懸命プレゼンをする学生さんたちの姿に頼もしさを覚え、お願いしてよかった、と思いました。でき上がりが楽しみです。

 ユダの手紙には、「愛する人々よ」という呼びかけのことばが3回登場します。そのうちの2回(17節と20節)には、「しかし」と訳されることばを伴っています。偽教師たちの真相を暴き、彼らの行く末の悲惨さを描いたあと、「けれどもあなたがたはそうではない」と強調しているのです。流されずに踏みとどまるようにと、ユダは愛する人々に呼びかけます。

 20ー23節には、多くの命令形動詞によって、流されずに踏みとどまる具体的な行動が促されます。自分自身について言えば、信仰を堅持すること、いつでもどんな時でも聖霊の助けによって神に祈ること、神が自分を愛しておられることをどのような時にも疑わないことです。さらに、自分を聖く保つようにという勧めに加えて、真理と間違いの間に疑いを抱いている人々や、誤りに陥っている人とのかかわりについても勧めています。

 あの人は間違っているとして心の中で切り捨てたり、いい人だからといって情に流されて罪を処断できずにいたりとの課題が、教会にはあります。難しい…とさじを投げたくなるときもありますが、「愛する人々よ」と、声をかけてくださる主のことばに聞いていきたいと思います。

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イエス・キリストのしもべ

2015年03月25日 | ユダの手紙

ユダの手紙 1−16節

 「街の洋食屋さん」という看板を掲げているお店の前を行き来していて、いつかは行ってみたいと思っていたレストラン(食堂といったほうがいいかな…)の出前「カツ丼」をごちそうになりました。「とてもおいしい「カツ丼」でした。カツライス」も出前されましたが、洋食屋さんのそれ。一枚のお皿の中心は豚カツ。回りには主役を引き立てるかのように、キャベツの千切りとポテトサラダ、そしてトマト。別のお皿にきらきらと光るご飯が…。今度はお店に入って、「カツライス」を食べることにしましょう。 ごちそうさまでした!

 「みことばの光」3月号では、いろいろな聖書箇所を読みます。きょうとあすは「ユダの手紙」。ひそかに忍び込んで来た偽教師たちから教会を守ろうと、この手紙は書かれました。人を惑わして結局イエス・キリストの救いを否定するように誘う、教師たちの実態をユダは激しい調子で訴えています。とくに12、13節では、いかにももっともらしい教えが実は、薄っぺらで実体のないものだということを、これでもかこれでもかと書き連ねています。

 心に留めたのはユダの自己紹介のことば。彼は自分を「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟」だと紹介して手紙をはじめます。ヤコブもユダもかつてはイエスの弟として、イエスを救い主だと信じないで気が狂っていると思っていたのですが、主イエスの復活を境にして、彼らの人生には大きな変化が訪れました。自分がイエス・キリストのしもべだと公言します。ほかの人たちはこのユダを「主の兄弟」と呼びましたが(Ⅰコリント9章5節)、ユダ自身は、「イエス・キリストのしもべ」「ヤコブの兄弟」と呼んでいるのです。ここにユダの謙遜を見ます。

 人間関係の中で、ここは下に出てとか、ここではばしっと決めて大きく見せなければ、というような操作に明け暮れるのではなくて、自分は「イエス・キリストのしもべ」なのだという立ち位置を決めることの大切さを改めて覚えます。

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