みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ほんの少しだけ

2019年08月31日 | サムエル記第二

サムエル記第二 19章24−43節

 友人から転居届の葉書をいただきました。住所から確認すると紅葉の美しい場所のようです。その方の郷里にもちょっと近づいたようです。これまでお仕事に邁進してこられ、これからはご夫妻での生活を楽しまれることでしょう。

 8月も今日が最後の日。来週の当地の最高気温は22度程度と予報されています。暑さも今日がこの夏最後のようですね。

 アブサロムによる謀反以来、ダビデはエルサレムを出てヨルダン川の東にいました。そして今や謀反は鎮圧され、ダビデはヨルダン川を再び渡ってエルサレムに戻ろうとしているのです。この箇所には、王としてエルサレムに戻るダビデを迎える親友ヨナタンの子どものメフィボシェテ、川の東側にいる時にだビデを養った高齢のバルジライ、そしてダビデをわが方へと引き寄せようとするユダ部族と他のイスラエルの人々とが出てきます。

 メフィボシェテは、自分に仕えるツィバにだまされてダビデと一緒にエルサレムを出る機会を逸してしまったとダビデに訴えています。けれども彼は、自分がダビデ王のあわれみによって生かされてきたのだからどのようになっても構わないとまで言います。じつはダビデは、ツィバのことばを信じてメフィボシェテの持つものをツィバに与えようと約束をしてしまったのです。16章1−4節でご確認ください。ですからダビデは、目の前で哀願するメフィボシェテに負い目があるのです。「あなたとツィバで地所を分けるのだ」とのダビデのことばは、なんとも歯切れの悪いものとして響きます。ダビデの苦しみが伝わってくるような一言です。

 バルジライの態度に教えられます。ダビデは自分が困難さの中にいた時に養ってくれたバルジライをエルサレムに伴い、彼のしたことに報いたいとの願いを持っていました。けれども彼は、高齢を理由にダビデの勧めを固辞します。特に、36節の「このしもべは、王様とともにヨルダン川をほんの少しだけ進んで参りましょう」ということばに教えられます。ダビデがこれほど強くバルジライに勧めるのは、辛い中にいた彼にバルジライがどれほど大きなことをしてくれたかを想像させます。けれども彼は報酬を得ようとしません。

「ほんの少しだけ」ということばが残ります。こうありたいと願います。


勝利を嘆く兵

2019年08月30日 | サムエル記第二

サムエル記第二 19章1−23節

 きのう午後、知り合い方のアトリエを訪ねました。作品を観てこちらが勝手に類推したことについて、制作者のことばを伺えるという、大変ゆたかな時を過ごすことができました。そのあとの美味しいケーキと紅茶の時間も…。

 ここを読み、2節の「その日の勝利は、すべての兵たちの嘆きとなった」ということばが目に留まりました。ダビデ側の兵は、謀反の首謀者アブサロムを打ち取り、謀反を鎮圧しました。ところが、王はわが子アブサロムの死を悲しみ泣き続けているのです。兵たちはダビデ王の悲しみを思って勝利を喜ぶどころか嘆いています。歓喜で迎えられるはずの勝利者たちが「まるで戦場から逃げて恥じる兵がこっそり帰るように」して帰って来たのです。

 王であるダビデの心にあるのはわが子アブサロムのことだけ。兵士はダビデ王の悲しみを理解し、王を気遣って静かにしているのです。立場が逆転しているのです。

 この時、王はどのようであるべきかとダビデ側の軍団長ヨアブがダビデに直言します。非難のようにも響きます。ヨアブは理想的ともいえる王の臣下ですが、冷徹さのようなものがここにも現れます。しかし、彼の言うのはもっともなこと。ダビデはわが子の死をいつまでも悲しむ父親であってはならないのです。

 ヨアブの厳しいことばに、「今日」が繰り返されているのが目につきます。「今」「今夜」ということばもあります。一刻の猶予もなくダビデはなさなければなりません。主はヨアブによって悲しみに沈むダビデを、動かそうとなさっているのです。当たり障りのない、あるいは自分を持ち上げてくれるようなことばを届けてくれる人ではなく、気に障るようなことばを語る人のことばの中に大切な神からのメッセージが込められていることがある、と気づかされます。


二人の伝令

2019年08月29日 | サムエル記第二

サムエル記第二 18章19−33節

 帰路、23番線ホームに停っている列車のドアがいつまで経っても開きません。発車5分前になっても…。すると、「きょうの車両は18番線に停っている車両になりました」とのアナウンス。私たち乗客は、長い道のりを18番線ホームまで歩きました。周りで待っていた人からは文句の一つも出ずに、「またかぁ、やれやれ」という表情でした。楽しい経験、でした。

 ダビデは戦いの結果を待っていました。そして、この時ダビデの元には二人の使いが報告のために急いでいました。一人はアヒマアツ。彼は兄弟のヨナタントともに、大切な局面でダビデのために情報を伝達する務めを担っていました。アヒマアツは戦いの結果を自分が知らせたいとヨアブに願いますが、却下されます。そしてクシュ人が伝令として遣わされます。けれども、アヒマアツのたっての願いが通ってアヒマアツもダビデの元に急ぐことになり、結局アヒマアツ、クシュ人の順で報告されることになります。

 ダビデの関心は、自分たちが勝利したか敗北しなかったかということにも関心を持っていましたが、二人の伝令に問うたのは、いずれも「若者アブサロムは無事か」だったことを考えるならば、もっとも大きな関心はアブサロムが無事かどうかということでした。そして、クシュ人の伝令からアブサロムの死を知らされたダビデは、あたり構わず泣きながらわが子の死を悲しむのです。

 「私がおまえに代わって死ねばよかった」という嘆きから思うのは、いわゆる「バテ・シェバ事件」(11章)のことです。あの時、ダビデはあれほどの大きな罪を犯したにもかかわらず、簡単に赦されたようにもみえます。けれども、彼は自分が犯した罪の結果を、長い間かかって刈り取るような経験をするのです。もっと早くアブサロムに手を差し伸べていたならとの思いも悲しみの中で思ったことでしょう。ここまで来ないと自分の気持ちを表せないというのは、ダビデに限ったことではありません。


謀反の終焉

2019年08月28日 | サムエル記第二

サムエル記第二 18章1−18節

 ミュンヘン郊外のダッハウという町にある強制収容所跡を見学しました。罪人である人間が同じ人間をここまで痛めつけるのだということを思いつつ、神に懺悔しながらたどりました。それほど歩数がなかったにもかかわらず、なぜかとても疲れました。多くの人々が訪れていました。訪ねなければならない場所の一つなのです。

 ダビデの子アブサロムによる謀反は、首謀者の死によって終わりました。この箇所では、謀反を犯したとはいえ、わが子であるアブサロムを気づかう父ダビデの痛々しい姿が伝わってきます。そして、ダビデの思いがいたいほどわかるダビデの兵士たちの姿も。その中で、将軍ヨアブの冷徹さが目を引きます。何と冷たい、という思いにも駆られますが、国をひっくり返そうとした者をこのようにしなければ…と判断しての行動なのです。そうはわかっていながらも、やはりヨアブの行動にはついていけないとの思いに駆られます。

ダビデは父親として、ここまでアブサロムを追いつめたのは自分の側にも大きな責任があると受け止めていたように思います。ですから、王を転覆してクーデターを起こしたとんでもない奴とは見ることができなかった、と考えるのです。 過ぎ去った時間を巻き戻すことはできません。「あの時にああすれば良かった」「こうしなければ良かった」と反省することはたびたびです。

 神の前に「お赦しください」と言える道がイエス・キリストによって備えられていることのありがたさをここでも思います。


二つの助言

2019年08月27日 | サムエル記第二

サムエル記第二 17章

 月曜日午前は久しぶりにたくさんの小さなお友だちと一緒に過ごしました。じっと見て、私のことを安心できると思ったお友だちは、私の周りでいろいろなことをして見せてくれました。小さなお友だちは、抱っこするのを許してくれました。

 謀反を企てたアブサロムは、父であるダビデ王にとどめを刺す機会を得ました。これから先、どのようにしたら良いのかについて、アブサロムは、アヒトフェルに助言を求めたのです。前章23節には、「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった」とありますので、彼の助言を求めたのは賢いことでした。アヒトフェルは、アブサロムではなくて自分がダビデを討伐にすぐに出かけるのがよいと進言しました。

 ところがアブサロムは、フシャイにも助言を求めます。フシャイはアブサロムを「王様万歳。王様万歳」と持ち上げた人物です。これがよほどアブサロムの心に響いたのか、あるいは王としての度量の大きさを誇示するためか、もう一人による助言を求めたのではないかと考えるのです。フシャイはアヒトフェルの助言とは違い、十分な準備をしてアブサロム自身が出陣するようにと進言します。この助言もアブサロムの心をくすぐったのではないでしょうか。「あなたご自身が戦いに出られることです」ということばはこの時の、アブサロムには大変心地よいものではなかったかと考えます。

 アブサロムはアヒトフェルではなくフシャイの助言を採用してしまうのです。それは今述べた事情や理由をも含めて神がそのようにことを動かされたということゆえだと、14節に明らかにされています。ここに、15章31節にある「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」とのダビデの祈りを、主がお聴きくださったのだということがわかるのです。

 それとともに、主イエス・キリストが私たちにとっての「不思議な助言者」だということにも思いが至ります。


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