マルコの福音書 15章33−47節
聖金曜日の昨日はスーパーもお休み。川沿いの道に、たくさんの人の歩く姿が見られます。その中に私たちもいました。
1月から読み進めてきたマルコの福音書、教会暦に合わせて今年のイースターが最終章を読むように組まれています。イエスの十字架への道をゆっくりとたどることができました。この箇所は、イエスの十字架での死、埋葬の場面です。
ここには、「大声」ということばが34節、そして37節にあります。マルコは37節についてイエスが大声で何を言ったのかを記しません。ヨハネの福音書ではそれは「完了した」という叫びだったと明らかにしています。そして、完了したとの叫びとともにイエスが息を引き取られたその時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。何が完了したのかを象徴する出来事です。イエスの十字架の死は、神と人とを隔てている壁を裂いたのです。
埋葬の場面でのアリマタヤのヨセフの姿に目が留まります。彼は「勇気を出して」ピラトにイエスの体の下げ渡しを願い出ました。マタイは彼について「アリマタヤ出身で金持ち」で「イエスの弟子になっていた」と書いています。ルカは「議員の一人で、善良で正しい人」さらに「議員たちの計画や行動には同意していなかった」と描き、ヨハネは「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」と記しています。
彼はイエスが死んだ後で、自分がイエスの弟子であることを明らかにしました。時すでに遅し……でしょうか。そうではないと私は思います。イエスの体を、まだ使われていなかった自分の墓に納めるという務めをしたのですから…。もちろん彼も、イエスが復活するなどということは考えてもいなかったことでしょう。
使徒信条の「死にて葬られ……」ということばを思います。