みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いつまで

2015年03月31日 | 詩篇

詩篇 79篇

 きのうの朝七分咲きだと書いた当地の桜。一日の暖かさの中で満開となってしまいました。近くの公園に桜を見に行った妻と娘と孫たち。二組のお友だちと会ったと話してくれました。あるお家にはおじゃまして、孫はカルピスをいただき、お代わりまでしたのだそうです。ごちそうさまでした!

 朝刊には埼玉県の教員異動の特集ページがついていました。日本ではきょうが官公庁また、多くの企業が年度末なのですね。

 詩篇79篇は「神の都が破壊され、殺戮と暴行に民が苦悩する悲劇を前にしたアサフが、神のあわれみを求めて祈る、とりなしの祈り」だと「みことばの光」にあります。5節には「いつまで」ということばが繰り返されます。苦しみがまだまだ続く中での作者の苦悩が伝わってくるような願いです。

 もちろん作者は、この苦悩の原因が自分たちの側にあることを承知しています。そうであったとしても、早くこの苦しみを解いてくださいと、主の御名の栄光のために、必死に願い求めているのです。

 「いつまで」と祈りながらも、そのうちにもうだめだとあきらめてしまうことが度々ある自分だということに気づきます。しかし、神は必死の祈りに耳を傾け、ご自分が「今だ!」とお決めになった時に応えてくださると信じて進もうと、ここ数日の様々な出来事の中で、改めて思うのでした。


しかし、それなのに、そのとき

2015年03月30日 | 詩篇

詩篇 78篇52―72節

 当地の桜は7分咲き。朝歩きの途中の川沿いのワンショットです。毎年思うことですが桜は固まって咲いているので美しいのですね。

 きのうは私が務めさせていただいた教会の牧師としての最後の日曜日。礼拝後に歓送会を開いてくださいました。おいしいものがずらり。すべてを食べることはできませんでしたが、お気持ちを充分にいただかせていただきました。ごちそうさまでした。食べ物ばかりでなくて、温かなひとときを過ごしました。さあ、次の一歩! です。

 詩篇78篇の三つ目の区切りを読みます。「みことばの光」にあるように、ここには出エジプトから約束の地に至るまでの歩みが歌われています。「しかし神は」(52節)、「それなのに、彼らは」(56節)、「そのとき主は」(65節)というつなぎのことば(接続詞)に目を留めました。

 きのうは自分たちの歩みを回顧することの多い一日でしたが、この詩篇のつなぎのことばがそのまま当てはまるような歩みだったと振り返りました。私たちの不真実にもかかわらず、主は常に真実であられたと…。私たちの歩みは、「しかし神は」という愛ゆえの反転語によって支えられているのです。

 今週は受難週です。


後の時代に

2015年03月28日 | 詩篇

詩篇 78篇1−22節

 歴史というと、何年に何があって…ということだけをひたすら覚えさせられるような印象が中学生や高校生の頃にはありましたが、教科書のさらっと記す一言の中に人の息遣いが感じられるようになったら、興味が湧いてくることでしょう。

 きょうの「みことばの光」に、「自分の国の歴史に対する理解と姿勢において、日本人とイスラエル人には大きな開きがある」とあります。自分たちで自分たちの歴史を記そうとしたら、都合の悪いことはあいまいにし、都合よいところでは誇張してなどという書きかたをするのでしょう。日本と近隣諸国の教科書の記しかたについて考えが合わないのも、そのようなことに起因しているのだと思います。

 聖書は歴史の書だとも言えます。旧約聖書は主にイスラエルの歴史、そして新約聖書後半は教会の歴史が記されています。そしてそれは、神がお選びになったイスラエルの民や主イエスによって誕生した教会を美化することなく、むしろ知られたくないような負の歴史も直視します。

 この詩篇に記されているのも、主がご自分の民になさった奇しいわざ、にもかかわらず民が神を信じることなく契約を破ってしまったということです。だから彼らは、自分たちの父祖たちが神に信頼せずに契約を破り、奇しい主のみわざを忘れたと語り告げるのです。自分たちも含めて後の人々が「神に信頼し、神のみわざを忘れず、…仰せを守る」ために。


静かに考えよう

2015年03月27日 | 詩篇

詩篇 77篇

 気がついてみたら、自宅玄関脇の小さなスペースの木からピンクの花が。妻がこっそりと植え楽しみにしていた桃の花だったのです。昨年教会の整備をした折りに、桃、アーモンド、くるみ、コブシ、枇杷などの木をすべて抜いてしまったので殺風景になってしまいました。それなので、桃の花は妻の秘かな楽しみだったようです。残念なことに枝がお隣に伸びてしまっているので、けさ枝を切り落としました。教会で飾るとのことです。

 歳をとると回想が増えてくると言われますが、明日で最終回を迎える「朝ドラ」もここ数日は回想シーンが多いように感じます。「ああ昔はよかった。でも今は…」という回想なら、後ろ向きの印象がします。

 この詩篇は、過去を回想することによって今の苦難に立ち向かう勇気を得るということを歌っています。立ち止まってみたのは10節の「そのとき私は言った。『私の弱いのは いと高き方の右の手が変わったことによる』」ということば。1−9節が詩篇作者アサフの苦難の叫びであるとしたら、11節以降は神への賛美と感謝であふれます。そして、嘆きから賛美への転換点にあたるのが10節のようなのです。

 10節を、ある英語訳聖書は次のように表しています。「そのとき私は言った。それは私自身の弱さである。しかし私は長い間のいと高き方の右の手を思い起こす。」(ASV) 苦難の中で、作者は神の右の手が守ってくれた年々を思い起こしています。すると、作者に力が沸き、神をほめたたえ感謝する心を抱くようになったというのです。

 日本では多くが年度末の今、神のみわざを思い起こし、静かに考えることはこれからを歩む上でも大切な時間なのだと知ります。


愛する人々よ

2015年03月26日 | ユダの手紙

ユダの手紙 17−25節

 きのう午後は、市内外の障がい者支援施設と団体が協力して運営している福祉の店の改装の打ち合わせで、ものつくり大学におじゃましました。大学の先生がたが協力してくださって、学生の卒業研究の一環として店舗リニューアルを手がけてくださることになったのです。模型を手に、一生懸命プレゼンをする学生さんたちの姿に頼もしさを覚え、お願いしてよかった、と思いました。でき上がりが楽しみです。

 ユダの手紙には、「愛する人々よ」という呼びかけのことばが3回登場します。そのうちの2回(17節と20節)には、「しかし」と訳されることばを伴っています。偽教師たちの真相を暴き、彼らの行く末の悲惨さを描いたあと、「けれどもあなたがたはそうではない」と強調しているのです。流されずに踏みとどまるようにと、ユダは愛する人々に呼びかけます。

 20ー23節には、多くの命令形動詞によって、流されずに踏みとどまる具体的な行動が促されます。自分自身について言えば、信仰を堅持すること、いつでもどんな時でも聖霊の助けによって神に祈ること、神が自分を愛しておられることをどのような時にも疑わないことです。さらに、自分を聖く保つようにという勧めに加えて、真理と間違いの間に疑いを抱いている人々や、誤りに陥っている人とのかかわりについても勧めています。

 あの人は間違っているとして心の中で切り捨てたり、いい人だからといって情に流されて罪を処断できずにいたりとの課題が、教会にはあります。難しい…とさじを投げたくなるときもありますが、「愛する人々よ」と、声をかけてくださる主のことばに聞いていきたいと思います。


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