みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

生きている者の神

2015年09月30日 | 創世記

ルカの福音書20章27−47節

 9月はきょうで終わり。当地は夏から一気に秋の中頃から終わり頃の気候に走り続けた印象です。朝夕は暖房が必要な日もあります。秋というと味覚。スーパーの野菜売り場には赤や黄色のかぼちゃに混じって濃い緑色の見慣れたかぼちゃが売られています。銘柄は何と“Hokkaido”。丸ごと一個をこれまで三回買い求めましたが、二回は大当たり。ホクホクのかぼちゃの甘辛煮を食べました。一回は外れでしょうか。でも、スープにしたらとても美味しくいただけましたので、三回とも当たり、です。

 手を変え品を変え、イエスを罠に陥れようとする者たちが質問を投げかけます。今度はサドカイ派。「みことばの光」が書くように、彼らは祭司に多く、政治的にはローマと結びつきがあり、世俗的であり、豊かでした。「今が大事」という考え方で生きています。ですから、復活など信じません。その彼らが練りに練ってイエスに投げかけたのが、結婚についての極端な質問。彼らはその質問を投げかけることで復活がいかにおかしな事態を引き起こすのかを明らかにする質問を考え、得意満面でイエスにぶつけたのでしょう。

 主は決してはぐらかすことなく、彼らの質問を受けとめて、復活についてお教えになったのです。どうだ! と質問をした彼らはぐうの音も出ません。

 「神に対しては、みなが生きている」との主のことばに目が留まります。死が終わりではないということ、肉体の死を経験しても神を失うことがないのだということを教えてもらいました。

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イエスは…見抜いて

2015年09月29日 | ルカの福音書

ルカの福音書20章20—26節

 秋晴れのきのう、月に一度の電話伝道録音のために、およそ50キロ北にある福音放送局に行きました。5回分を録音しましたが、一回でオーケー。だいじょうぶなのかと、かえって心配になりました。参考までに次のHPにアクセスしますと、週日はPBA(太平洋放送協会)制作のラジオ放送「世の光」を、日曜日には私の話をお聞きになれますので、ぜひお試しください。また、お友だちにお声がけください。  http://www.erf.de/japanisch/1273  

 電話でもお聞きいただけます。ドイツ国内からは 06441−208−1626です。

 「カイザルのものはカイザルに…、神のものは神に…」とはよく知られた主イエスのおことばですが、きょうの箇所にありますように、このことばを主イエスはどこか改まった場所でお語りになったのではありません。イエスを亡き者にしようと機会をうかがっていた人々が送り込んだ「義人を装った間者」の罠に対する答えなのです。

 新改訳聖書は「義人を装った間者」と訳していますが、新共同訳聖書は「正しい人を装う回し者」と訳します。「回し者」とは時代劇ドラマなどに出てきそうなことばですね。さらにある英訳聖書は、「まじめな探求者のふりをするスパイ」と訳しています。

 俳優は、本物の医者以上に医者らしく演じ、本物の料理人以上に料理人を演じ、本物の牧師以上に牧師を演じることができると言われます。イエスのところに送られたスパイたちは、義人を見事に演じているのです。ですから、彼らが仕組んだ質問には巧みな罠が仕組まれていました。

 「イエスはそのたくらみを見抜いて」と聖書にあります。彼らのたくらみを見抜き、そんな欺瞞に満ちた質問には答える義務はないとはねのけたのではなくて、この世の権力と神の権威について事ある毎に引き出される真理のことばをお答えになりました。

 このお方によって、私のような者が義人もどきではなくて、義人だとされた(全くふさわしくないのに)ことに、驚きと感謝を覚えます。

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ひっくり返す一言

2015年09月28日 | ルカの福音書

ルカの福音書 20章1−19節

  

 片栗粉は、こちらではKartoffelstärke(ジャガイモ澱粉)、あるいはKartoffelmehl(ジャガイモ粉)として売っています。なるほど、今の片栗粉はジャガイモから作りますので、ドイツ語のほうがわかりやすいかもしれません。なぜジャガイモ澱粉を「片栗粉」と呼ぶのか…「かつては日本北東部の原野などに自生するユリ科のカタクリの根茎から製造したもの」なのだから、だそうです。なぜこのようなことを書いたのかと言いますと、購入した片栗粉で美味しい酢豚が仕上がったからでした。

 エルサレムの神殿での主イエスと祭司長、律法学者、長老たちとのやりとり。「何の権威によって」との詰問に、主は逆に質問をして攻守をひっくり返してしまわれました。主イエスと当時のエルサレムの指導者たちとを比較するのには無理がありますが、人にびくびくすることなく歩み語るイエスと、周りからどのように見られるかを気にしながら生きている彼らとの間の違いが際立っています。

 「何の権威によって…」などと問われたら、ドキドキして「えーと、あのぅ…」などと言ってしまうだろうな自分は、としばし考えました。しかし主はそうではありません。自体を全く変えてしまう一言をお用いになったのです。この一点だけを考えてみても、このお方が只者ではないことに気づきます。もしこのお方が政治的な王を目指されたのであったら、エルサレムはどうなったかと想像してしまいますが、そうであったら、自分の今はない! ということに気づかされます。

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ろばの子に乗る王

2015年09月26日 | ルカの福音書

ルカの福音書 19章28—40節

  当地は二つのことで世界の注目を浴びています。難民受け入れと大手自動車メーカーのごまかしです。後者については、報じられていることを基にして考えると、世界のトップを競う巨大会社が随分と悪らつなことをしていたのだと呆れるほど。「クリーンディーゼル」ということばが白々しく響きます。多くの信頼をを失った事件だと思います。

 まことの王がエルサレムに向かって上り続けておられました。もちろん自動車に乗ってではなく、当時の凱旋王が用いる馬に乗ってでなく、ろばの子、しかも借りてきたろばの子に乗って入城されるのです。馬ならば格好良く見えますが、ろばの子に乗って…ということになると、どうなのでしょう。少々こっけいな様子を想像してしまいます。

 ろばの子に乗ったイエスを見る人々の態度がこの箇所に見られます。弟子たちの群れは、イエスが主の御名によっておいでになった王だとして、大声で神を賛美しています。一方でパリサイ人のなかには行進をやめさせようとイエスに弟子たちを叱るように求める者もありました。

 しかし、これから何日も経たぬうち、このお方は十字架につけられるのです。大声で賛美した人々のなかには、ゴルゴタの丘で「十字架につけろ!」と叫ぶようになる人もいたのかもしれません。このイエスは私にとってどのような意味で王なのだろうか、といつもいつも問い続けていくことは大切なこと、そう思います。

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期待通りの王?

2015年09月25日 | ルカの福音書

ルカの福音書 19章11−27節

 ザアカイが救われたエリコは海抜マイナス250メートル、イエスがこれから向かわれるエルサレムは海抜800メートルです。主イエスの一行は、エリコから一気に標高差1250メートルを昇るのです。あと僅かでエルサレムというところまで来ているので、周囲の人々の心は高鳴り、ざわめきます。彼らは「神の国がすぐにでも現れるように思っていた」いたからです。つまり、イエスは王になるためにエルサレムに上るのだと、期待していたのです。

 そのような中で主イエスが話したたとえは、「みことばの光」が書くように、彼らの期待に沿った王になるのではないということを伝えるとともに、弟子たちにはゆだねられたものを忠実に用いるように教えるという意図がありました。

 人が聖書を読むきっかけ、教会に行くきっかけは様々です。そのほとんどは「自分のため」という動機でしょう。つまり、自分の悩みや問題を解決できたら、自分がしあわせになれたら、良い人になれたら…と期待します。そのためにイエスさまが何かをしてくださるに違いない、いや、何かをしてくださらなければ困るとさえ考えるかもしれません。

 しかし、イエスを王として迎えるということは、「自分のために」ということから「王のために」ということへの大きな転換が起こるのです。すぐ前に記されているザアカイはその転換をわずかの間に体験しました。しかし、「私にとってイエスさまはこういう方でないと困る!」などということにとらわれているのは、「王になってほしくない」と言っているかのようなのだと思います。

 イエスを自分の期待通りに動かそうとするのか、それとも自分がイエスを主として従おうとするのか、違いは大きいのです。

*写真はきのうの夕景。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki