みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わたしが語り、わたしが行う

2022年09月30日 | エゼキエル書

エゼキエル書 17章

 気がついたら、通りの街路樹が上のほうから色づいてきました。9月最後の日、どのような一か月を過ごしましたか。

 謎解きに始まる17章。遊びなら感心したり驚いたりするだけですが、神がここで出された謎解きは、一国のこれからについてのものですから、重いものです。神は預言者エゼキエルによって、イスラエルの人々にこの謎を解いてみよと言われるのです。

 3節に登場する大鷲はバビロンの王ネブカドネツァル、取り去られ摘み取られ運ばれる「杉のこずえ」「若枝の先」は「商人の町」バビロンに運ばれるユダ王国の王や首長たちのこと(預言者エゼキエルはいっしょにバビロンに連れて来られました)、大鷲が肥えた土地に植えたぶどうの種はネブカドネツァルがユダの王としたゼデキヤを指しています。

 ゼデキヤはバビロン王がユダの王としたのですから、ネブカドネツァルの意を受けてユダを治めるはずでした。エゼキエルと同じ頃にエルサレムで神のことばを伝えていた預言者エレミヤは、ゼデキヤにバビロンの王に仕えることがユダが生きる道だと語りました。しかしゼデキヤは、もう一羽の大鷲のほうに根を伸ばすのです。「もう一羽の大鷲」とはエジプトのこと。この時ゼデキヤは、エジプトが自分たちをバビロンの圧制から救い出してくれるとの期待を抱いたのです。しかし、エジプトはゼデキヤたちを助けに来ませんでした。

 この章の終わりの「主であるわたしが語り、わたしが行う」ということばに目が留まります。神のことばだけが成るのです。神が植えられるので、枝を伸ばして実を結び、そして見事な杉の木となるのです。この章の最後の段落にあるのは、やがておいでになるメシア、イエスによって届けられる豊かな実りです。枯れ木に出させられた芽とは、私たちを指しているのではないでしょうか。ありがたいです。


契約を新たにする相手

2022年09月29日 | エゼキエル書

エゼキエル書 16章44−63節

 隣町の食品店の店主さんは、信仰と同じにする方。今年のクリスマスに、通っている教会でクリスマスオラトリオが歌われると話しておられました。もうクリスマスの話が出る頃なのだと思いました。そう言えば、スーパーにはクリスマスのお菓子が並び始めました。

 16章を三回に分けて読んできました。エルサレムが神によって守られると疑わない人々に、神は預言者によって崩壊を、そしてそれは神のさばきのゆえの崩壊だと告げておられます。

 きょうの段落の初めに、エルサレムの出自が書かれます。母はヒッタイト人、父はアモリ人、姉はサマリア、そして妹はソドムだと神は言われます。血のつながりではなくて、生き方のつながり、共通点が挙げられているのです。

 私たちはは特別、神は私を選ばれただから…、との自負もほんのわずかの間。選びの民とは名ばかりで、エルサレムは堕落しました。しかもそれは、父や母、姉や妹にまさるひどさだったと続きます。

 そのひどさは、道徳的なふるまい、邪悪な行動だということよりもむしろ、エルサレムが選ばれた者への限りない神の祝福を受けながら、それを踏みにじったことの大きさを伝えようとしているのだと考えられます。多く与えられたものは多く求められる、のです。

 しかし、この章の厳しいさばきの先に、神は回復の約束をしておられます。契約を新たにすると言われるのです。びっくりするようなこと!世間ならば、こんなにもひどい裏切り、悪事を重ねた相手を回復する、再び用いるということは考えられません。

 神のあわれみの大きさ・深さはどのようなものなのだろうかと、息も止まりそうというのは大げさかもしれませんが、いややはり、想像をはるかに超えます。そして、ここにも主イエスのお姿が…。


危険なかかわり

2022年09月28日 | エゼキエル書

エゼキエル書 16章23−43節

 次の日曜日の「収穫感謝日独合同礼拝」では、礼拝後に書道と折り紙を紹介することになっています。昨日書道のための「お手本」を作成しました。私は「口だけ」でしたが、無事に「信」「望」「愛」の三文字のお手本が完成! 楽しみです。

 ご自分の民への神の厳しい宣告が続きます。生まれ落ちても誰にも顧みられることのない幼子イスラエルを、神は育てられたのです。しかし、彼女(ここではイスラエルが女性にたとえられています)は、愛し育ててくれた神から心を背けて、さまざまな偶像に惹かれていくのです。

 この箇所には、エジプトに始まり、ペリシテ人、アッシリア人、そしてカルデア(バビロン)のイスラエルにとって周辺の民族、国々の名が並びます。そのどれとも、イスラエルはかかわりを持ちました。

 遊女は報酬を得るのですが、この「遊女イスラエル」は相手に貢ぐのです。これは、イスラエルの神への背きは積極的なもの、言い換えると、自分から求めてかかわりを持ったことを表しているのです。しかし、そのかかわりが彼らを上から遠く離すことへとつながっていくのです。

 ここを読んで、私たちが誰かとつながって毎日生きているのだということを改めて思いました。しかし、そのつながりには信仰者を神から離すことになるものもあるのです。

 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」と言われた、イエス・キリストのことばを思いました(ヨハネの福音書15章4節)。


忘恩

2022年09月27日 | エゼキエル書

エゼキエル書 16章1−22節

 昨日朝から工事による断水があるとの知らせを見て、鍋やポットに水を溜めておいたのですが、いつの間にか工事は終わっていたようで、断水があったとは思えないほどでした。ペットボトルに蓄えておいた水道水を飲みましたが、美味しかったです。

 この箇所からは、神がエルサレムにどれほど熱い思いを持っておられたかが伝わってきます。

 ここにある神のお姿は、まるで産み落とされて誰にも顧みられない女児を優しく受け入れる育ての親のようです。「生きよ」と繰り返したとの6節のことばには、いのちがか細い産み落とされたみどりごに、生きてほしいと願う育ての親の切なる願いが込められています。

 やがて子は育ち、年頃になります。そこでも、彼女を美しく装わせたのは育ての親でした。ところが彼女はこれほどまでして自分を育ててくれた親の愛を忘れて、まるで自分一人で大きくなったかのように振る舞います。

 そればかりではなく、育ててくれた親の思いを踏みにじり、通りすがりの男と通い合うという愚かな行為に走るのです。

 神の恵み、あわれみによって救っていただいたキリスト者が、教会が肝心要(かなめ)のことを忘れて、自分が、自分たちの力や数を誇ることの愚かさと、ここでのエルサレムの姿とは重なるようです。


主であることを知るとき

2022年09月26日 | エゼキエル書

エゼキエル書 15章

 妻が素敵な贈り物をいただきました。早速使っているのですが、さてどのように生活が変化するでしょうか。

 エゼキエル書15章には、ぶどうの木のたとえが記されています。イエス・キリストが話されたぶどうの木のたとえはヨハネの福音書15章ですので、覚えやすいかもしれません。聖書にはぶどうの木がよく登場します。パレスチナではなじみのある果木だからです。果木は花もさることながら、実が期待できるのが何よりの魅力です。

 この章の初めには、ぶどうの木が他の木に比べてどれほど優れているのかという、神からの語りかけがあります。ぶどうの木を見たことがある人は、それがとても建物の部材とならないことが分かります。強度もありませんし、杉の木やヒノキのように形状がすらっとしているわけでもありません。せいぜい装飾に用いられる程度なのでしょう。ですから、もしもぶどうの木が実をつけることがなかったとしたら、せいぜい薪にされるだけなのです。

 ここでは、ぶどうの木がエルサレムの住民になぞらえられています。自分たちは神に選ばれたぶどうの木であるとの誇りが、彼らにはありました。けれども彼らは、実ることのないぶどうの木のようなのです。実りのないぶどうの木が火に投げ込まれるように、エルサレムも火に投げ込まれるという厳粛なメッセージがここにあります。

 7節に「わたしは彼らに敵対して顔を向ける」とあります。神に選ばれたぶどうの木だと誇りにしていた彼らが、気がついてみたら神を敵に回していたというのは、神に選ばれたことにあぐらをかき、ふさわしく歩もうとしなかった者への警告です。そして、その時に彼らは大切なことに気づくのです。それは悲しい、しかし大切な気づきです。


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