エゼキエル書 17章
気がついたら、通りの街路樹が上のほうから色づいてきました。9月最後の日、どのような一か月を過ごしましたか。
謎解きに始まる17章。遊びなら感心したり驚いたりするだけですが、神がここで出された謎解きは、一国のこれからについてのものですから、重いものです。神は預言者エゼキエルによって、イスラエルの人々にこの謎を解いてみよと言われるのです。
3節に登場する大鷲はバビロンの王ネブカドネツァル、取り去られ摘み取られ運ばれる「杉のこずえ」「若枝の先」は「商人の町」バビロンに運ばれるユダ王国の王や首長たちのこと(預言者エゼキエルはいっしょにバビロンに連れて来られました)、大鷲が肥えた土地に植えたぶどうの種はネブカドネツァルがユダの王としたゼデキヤを指しています。
ゼデキヤはバビロン王がユダの王としたのですから、ネブカドネツァルの意を受けてユダを治めるはずでした。エゼキエルと同じ頃にエルサレムで神のことばを伝えていた預言者エレミヤは、ゼデキヤにバビロンの王に仕えることがユダが生きる道だと語りました。しかしゼデキヤは、もう一羽の大鷲のほうに根を伸ばすのです。「もう一羽の大鷲」とはエジプトのこと。この時ゼデキヤは、エジプトが自分たちをバビロンの圧制から救い出してくれるとの期待を抱いたのです。しかし、エジプトはゼデキヤたちを助けに来ませんでした。
この章の終わりの「主であるわたしが語り、わたしが行う」ということばに目が留まります。神のことばだけが成るのです。神が植えられるので、枝を伸ばして実を結び、そして見事な杉の木となるのです。この章の最後の段落にあるのは、やがておいでになるメシア、イエスによって届けられる豊かな実りです。枯れ木に出させられた芽とは、私たちを指しているのではないでしょうか。ありがたいです。