みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神にあって私たちは…

2019年03月30日 | 詩篇

詩篇 60篇

 このブログは日曜日が休みなので、3月はこれが最後ということになります。日本では年度末ですね。どのようにお過ごしでしょうか。

 昨日は聖書博物館(聖書の家)を訪ねました。見学者は私たちを含めて3名。それほど大きな建物ではありませんが、最上階が旧約聖書の世界、1階が新約聖書の世界、そして地階はクリスマスと聖書翻訳についてという構成でした。子どもたちの見学者も多いのか、いろいろな工夫が凝らされて2時間があっという間に経ちました。

 60篇の標題からは、ダビデたちが北方で戦っていた時、イスラエルは死海南部でエドムによって苦戦していたという背景を知ることができます。この詩篇の主題は敗北から立ち上がる、ということでしょう。

 1−4節では敗北の苦しみが現れています。起こったのは、敵と戦って負けたというということです。しかしダビデは神が自分たちを拒み、破り、怒ったと受け止めるのです。神は自分たちに味方するとして戦いに臨んでみたら、敗れてしまった、神が私たちをお怒りになっているのだと嘆き、回復を求めて祈るのです。

 神が自分たちを敗戦に追いやったならば、もう神には頼まないとなるはずなのに、ダビデはそれでも神に願います。5−8節では、神の約束、ことばを覚えているダビデがその約束を盾にして自分たちを助けてほしいと祈るのです。「どんなときにも神に信頼せよ」とは、これから読む詩篇62篇8節のことばです。

 敗北で意気消沈しておしまい、ということではなくて、敗北の中でさえ、いや、敗北の中でこそ、「神よ」「主よ」と願う信仰を、主イエスによって賜わっているのだということに気づかせてくれます。

 幸いな週末と日曜日をお迎えください。


神が砦だから

2019年03月29日 | 詩篇

詩篇 59篇

 隣町での聖書を読む会からの帰り道、ハンバーガー屋さんでお昼をいただきました。ボリュームたっぷりのハンバーガーとフライドポテトでお腹はいっぱい。世界中にある、あのチェーン店にはない、味わいのあるハンバーガーをいただきました。そのために、夕食は豆腐の味噌汁と林檎…。

 本篇がどのような背景で歌われたのかは、初めの文章からわかります。ダビデのいのちを狙うサウル王からの使いが彼の家を見張っているのです。その中でダビデが神に祈り願ったのがここに記されています。

 この詩で繰り返されているのは「彼らは 夕べに帰って来ては 犬のようにほえ 町をうろつき回ります」ということば。自分がダビデのようにいのちを狙う物に見張られているのだとしたら、こんな恐ろしいことはありません。一晩中眠れずに身体にも不調を来すでしょう。

 そのような中にあっても、神を「私の神」、「私の力」、「私の恵みの神」、「私の砦」と呼べるところにいることがどれほど幸いだだろうかということを覚えます。そして、「私の神」と「私の砦」と自分は口にして祈っているだろうかと問われるとともに、そのように呼びかけてよいのだとも教えられます。

*写真は林檎の新芽


さばく神が地におられる

2019年03月28日 | 詩篇

詩篇 58篇

 これまでずっと取り組んできた大きな課題に、先が見えてきました。しかも、期限切れ直前に…。一つひとつのプロセスを振り返ると、神がいろいろな場面で人に思いを与え、導いてくださったことが見えてきます。

 詩篇58篇のはじまりは、他の詩篇とは趣(おもむき)を異にしています。他の詩篇は、神への賛美、感謝、または願いから始まることが多いのですが、ここでは悪を行なう者たちへのダビデの厳しいことばから始まります。

 彼らは力があるのです。権力が、武力が、富の力が、あるいは知恵が豊かにあるのでしょうか。そして、自分たちの力に任せて、自分たちの義を振りかざします。正義は力にあると豪語するのです。けれどもダビデは、「おまえたちは本当に義を語り、…公正にさばくことができるのか」と呼びかけます。

 忠告に耳を傾けることをしない彼らは、「あなたは間違っているというけれども、私はそうは思いませんよ」と言い張る人の姿と重なります。それぞれが自分勝手な義を振りかざすのです。

 ダビデは神に祈ります。彼らをさばいてくださるようにと願うのです。神などいない、いや、いたとしても神がこの地のことに、そこに住むわれわれの小さなことに心を配ることなどあるはずがないとして、好き勝手をする人々に、神はさばきを下されるのです。

 本篇の最後のことば「まことに、さばく神が地におられる」を何度も唱えます。そのとおりですと…。


いつも雲が…

2019年03月27日 | 出エジプト記

出エジプト記 40章16−38節

 火曜日午後の「ドイツ語おしゃべりの会」。昨日はインドからの青年が参加されました。青年を誘ったのは地元の男性で、とても親切で温かな人。昨日のおしゃべりテーマは「故郷」。英語で言えば「ホームシック」ということばも覚えました。「ホームシックにならないの?」と尋ねられた私たち「生徒」は、みんなが「なりません!」それを聞いて、とても嬉しそうな表情をしておられました。

 出エジプト記の通読も、とうとう終わりを迎えました。もちろんいつでも読むことができますが、「みことばの光」では5年後まで読みません。数ヶ月前の編集の時のことをいろいろ思い起こしながら、出エジプト記をあとにします。ここには、モーセが幕屋を設営し、その中に一つひとつの用具類を主が定められた場所に置いていったということがまず記されています。

 「みことばの光」に書いてありますが、ここで繰り返されるのは、「主がモーセに命じられたとおり」ということば。ここまでの幕屋製作の過程でも、このことばが繰り返されました。主がモーセに命じたとおりに民が作り上げた幕屋と、そこで用いる物、そして祭司・大祭司の装束。それらをモーセは、主が命じられたとおりの場所に置いていきました。「こうしてモーセはその仕事を終えた」のです。

 その時、雲が会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちたのは、完成した仕事を主がお認めになり、お喜びになったことを示します。そして主は、お約束通りに幕屋に臨在し、荒野を旅する彼らを導いてくださることが、彼らの上にあり続ける雲によって明らかになりました。

 このようにしてイスラエルの民の旅路を導かれるお方は、私の信仰の旅路にも伴い、約束の天の御国へと導いてくださるという確かな希望を思うと、喜びが湧いてきます。「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」ピリピ人への手紙1章6節


聖別する

2019年03月26日 | 出エジプト記

出エジプト記 40章1−15節

 晴れたと思ったら急に黒雲が空を覆い雨が降るという定まらない天候の月曜日。いつもなら歩いて行く所を自動車で往復しました。歩けば30分ほどかかる距離を車だと10分もしないうちに着いてしまうので確かに便利なのですが、サーッと動くゆえに、歩いているからこその発見の楽しみをあきらめることにもなります。

 聖書も、一つの書をさっと読み終える読み方もありますし、ゆっくりと確かめながら歩くような読み方もあります。「みことばの光」は5年間で聖書全体をすべて読み通すことができるようにスケジュールが組まれています。ずいぶん時間がかかるものだとも思いますが、「各駅停車」だからこその発見もまた楽しみです。

 1月から始まった今回の出エジプト記の通読も終章になりました。以前も書きましたが、最後の一日などというと、急に名残惜しくなるという不思議な思いが湧いてきます。この章の前半には、神がモーセに命じ、モーセが民に伝えた幕屋とその中で用いられる道具類、そしてそこで神に仕える祭司の装束が完成し、第一の月の一日にそれらが組み立てられ、置かれるべき場所に据えられたということが記されています。

 この箇所で繰り返されることばは「聖別」です。作られた物の一つ一つを、そしてアロンと子どもたちを聖別してから、幕屋でなすべきことが始まるのです。「聖別」ということばは、神の御用のために他のものから別けられるという意味があります。本書の後半で命じられ、そしてそのとおりに作られた物は、どの一つを取ってももっぱら神のために用いるためのものであり、他に流用してはならないのです。

 キリストを信じる者は、まことの大祭司イエス・キリストのもとで神に仕える祭司です。「もっぱら神のために…」として用いられているのだろうかと、「聖別」ということばは問いかけます。


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