みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

向き合って生かす

2017年07月31日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 8章1ー11節

 よく知られたこの話は、元々のヨハネの福音書にはなかったものだと受け取られています。だからといって、このような出来事がなかったとは言えません。

 ここを読んで思うのは、人は何と陰険なものなのだろうかということです。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」というエレミヤ書17章9節のことばを思い浮かべました。

 イエスを何とか失墜させようとする宗教指導者たちは、姦淫の現場で捕らえた女性をイエスのところに連れて来ました。彼らはこの女性を道具としてみているのです。姦淫の現場での「現行犯」なら、どうして一方の当事者である男性も連れて来なかったのかという疑問が湧いてきます。また、そんな場所に彼らがいたということについても説明がつきません。

 ともあれ、「処刑しなさい」と答えても「あわれんでやりなさい」と答えても、イエスは非難され、捕らえられるかもしれません。しかし、イエスはあわてることなく、うずくまって地面に何かを書いていました。何を書いていたのかはヨハネは記しません。そこでいろいろなことが想像されたそうです。「彼らそれぞれの罪」と書いていたと考える人がいました。

 そして訴える者たちは、イエスの答えを聞いて、年長者から初めてひとりひとりその場を立ち去ったのです。

 残されたのは女性とイエス。イエスは女性に向き合い、彼女が前に向かって進むようにとことばをおかけになりました。「わたしもあなたを罪に定めない」とは、イエスだけが語ることのできることば。イエスは人を罪から救うためにおいでになったのです。私をも、イエスは向き合って生かしてくださいました。


捕らえようとしたが

2017年07月29日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 7章25−36節

 いっしょに聖書を読んでいる方のお宅の帰り道、アジアの食材を売っているお店に立ち寄りました。お米や冷凍餃子などを買い求めて店を出ようとすると、お店の方がお煎餅を一袋、「食べて」とくださいました。お煎餅を買おうかなと思いつつ踏みとどまったところだったのでびっくり。神さまはこんな小さな者の思いをもご存じなのです(お煎餅を食べたそうな顔をしていたわけではないのですが…)。

 ここにはイエスとはだれかについて、人々がどう見ているのかが出ています。ここに登場するのは、「エルサレムのある人たち」、イエスを捕らえようとした「人々」、「群衆」、「祭司長、パリサイ人」、その手先となる「役人」、「ユダヤ人たち」と呼ばれる人です。それぞれの立場によって、ある人はイエスがガリラヤの出だということが妨げになり、ある人々はイエスが神を父と呼び、父と等しいと言ったことを問題にして亡き者にしようと画策し、ある人々はイエスのなさったしるしを見て信じるのですが、キリストとしてではありません。イエスを巡っても人々の見方が混乱している様子が見て取れます。

 そしてここにも「イエスの時が、まだ来ていなかった」ということばが出ています。捕らえようとしたが、捕まえることができなかったのです。それは、イエスは父がお定めになった時に向かって進み続けていたからです。それを妨げる外的な要因は、どんなに周到に準備がなされたとしても「イエスの時」の前には無力です。イエスは、成り行きで、次第に人々からの圧力が強くなったので、ついに捕まえられて十字架につけられたのではないのです。

 考えてみますと、私たちは自分では時を自分の思うように動かすことができません。「時の流れに身をまかせ…」というフレーズで知られる歌謡曲がありましたが、だれもが、時の流れには抗(あらが)えないのです。「私の時は、(神の)御手の中にあります。」と詩篇31篇にあることばが心に浮かびます。


うわべによってではなく…

2017年07月28日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 7章14−24節

 「祭りも中頃になったとき」と14節にあります。仮庵の祭りの初めの興奮が落ち着いた頃ということでしょうか。十字架の時はまだ来ていなかったにもかかわらず、イエスは宮で教え始められました。

 人々はイエスの教えを聞いて驚きます。正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのだろうかといぶかるのです。このような反応はエルサレムに始まったことではなく、ガリラヤ地方でも見られました。郷里ナザレで、イエスは安息日に会堂に入りお語りになりました。聞いた人々は「この人は、ヨセフの子ではないか」と言ったのです。⇒ルカの福音書4章22節

 メシヤ、救い主だとして認めてもらうのだとしたら、正規に学び、周囲から「やはり他の人とは違う」と言われるような、つまり、つまずきとならないようにすることもできたのに、なぜ父なる神は御子をそのようになさらなかったのでしょうか。「正規に学んだことがないのに…」ということばに答えて、イエスはこの教えは「神から出たもの」だとお答えになります。

 どこで学んだか、どこに住んでいるのか、どのような社会的な立場にあるのかによって、相手の対応が違うのを経験したことがあるかもしれません。だれにも学ばず、エルサレムに生まれず住まず、ヨセフの子であるイエスは、「うわべ」では人々の注目を浴びにくい立場におられたと言えます。つまずく要素をいくつもお持ちだったのです。

 この福音書の初めの部分に、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(1章12、13節)

 神によって生まれるのは、ナザレ人イエスをメシヤと信じる者。


わたしの時

2017年07月27日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 7章1−13節

 きのうは通行止めで迂回をして…と書きましたが、何年か前にレンタカーとカーナビを借りた時のことを思い出しました。次の町に行くのに、他の自動車が幹線道路を通るのに、私たちの自動車は細い山道を上って行きます。同乗者と「このカーナビは性能が悪い」などと言い合っていました。

 そんなことを繰り返すものですから、ホテルで改めて設定の項目を見てみましたら、ルート検索の初期設定が「最短時間を優先」ではなくて「最短距離を優先」になっていたのです。しかも、借りてすぐに私がそのように設定したようなのです。カーナビではなくて、私が悪かったのです。時を急ぎ、かえって時がかかるという忘れられない経験でした。

 過越の祭りは春に行われますが、仮庵の祭りは秋の祭り。ユダヤの人々はこれらの折にエルサレムに上っていました。仮庵の祭りが近づいているこの時、兄弟たちはイエスに、ガリラヤからユダヤに上るよう促しています。エルサレムで奇蹟をしてみせるならば、イエスの弟子たちの信仰を強め、さらに多くが弟子に加えられるから、ということだったのでしょうか。

 しかしイエスは、「わたしの時はまだ来ていません」と答えます。ヨハネの福音書でイエスが語る「わたしの時」はキーワードの一つです。それは十字架に架かられる時を指しています。イエスによると、仮庵の祭りは「わたしの時」ではないのです。「時」と訳されていることばには、「予め定められた時」という意味があるそうです。

 イエスはご自分の側でその時(十字架に架かる時)を定め、そのことを基に、「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃっています。それは人々がいくら彼を持ち上げようとも、逆にいくら彼を殺そうしても決して覆せないことなのです。

*木欒子(もくげんじ )の花


離れる人、ともに歩く人

2017年07月26日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 6章60ー71節

 スイスからの帰路、有名な保養地にお住いの方を訪ねました。途中、スマートフォンのナビが「あと1時間15分で到着」と目安を示していましたので、予め何時ごろに着くのかを電話で知らせました。

 ところが、それからが大変。アウトバーンを降りて黒い森を通り抜けて目的地を目指そうとしましたが、工事中のために行く手を阻まれてしまいました。「それでは…」と、もう一度経路を確認して出発。ところが、選び直したルートも工事中。やむなく迂回すると、今度は農道のような道を通るような羽目に。そんなことが4回ほど立て続けに起こります。結局、予定到着時刻よりも一時間半も遅れてしまいました。やはり無料のアプリはこんなところが弱いのかもしれません。

 忍耐して待っていてくださって、ほんとうにありがとうございました!

 イエスによる「五千人の給食」というしるしは、イエスについて行こうとする弟子が増えましたが、結局はイエスから離れて行ったというのがきょうの箇所です。離れて行ってしまった人々は、イエスが話しておられることの意味がわかりません。それで、「これはひどいことばだ」とつぶやくのです。彼らは、目の前でパンや魚をおびただしい数に増やすことができるイエスの弟子となることで、生活の基盤は満たされるというような考えでいたのかもしれません。ですから、そんな彼らにはイエスが話しておられることの意味がわかりません。わからないどころか、「ひどいことばだ」とさえ言うのです。

 きょうの箇所にも、イエスがすべでを知るお方、神であることを福音書の作者ヨハネは証言しています。「にわか弟子たち」の心にあることを知るイエスは、十二人の弟子たちの中の1人が裏切るのも知っておられました。けれども、ここでイエスはご自分を裏切る者は「…だ!」と名前を明らかにしてはおられません。「みことばの光」が書くように、彼に悔い改めの機会を用意しておられたのかもしれません。

 イエスがすべてを知っておられるというのが自分にとってどのような意味を持つのかと、問うてみるはどうでしょうか。


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