ヨハネの福音書 8章1ー11節
よく知られたこの話は、元々のヨハネの福音書にはなかったものだと受け取られています。だからといって、このような出来事がなかったとは言えません。
ここを読んで思うのは、人は何と陰険なものなのだろうかということです。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」というエレミヤ書17章9節のことばを思い浮かべました。
イエスを何とか失墜させようとする宗教指導者たちは、姦淫の現場で捕らえた女性をイエスのところに連れて来ました。彼らはこの女性を道具としてみているのです。姦淫の現場での「現行犯」なら、どうして一方の当事者である男性も連れて来なかったのかという疑問が湧いてきます。また、そんな場所に彼らがいたということについても説明がつきません。
ともあれ、「処刑しなさい」と答えても「あわれんでやりなさい」と答えても、イエスは非難され、捕らえられるかもしれません。しかし、イエスはあわてることなく、うずくまって地面に何かを書いていました。何を書いていたのかはヨハネは記しません。そこでいろいろなことが想像されたそうです。「彼らそれぞれの罪」と書いていたと考える人がいました。
そして訴える者たちは、イエスの答えを聞いて、年長者から初めてひとりひとりその場を立ち去ったのです。
残されたのは女性とイエス。イエスは女性に向き合い、彼女が前に向かって進むようにとことばをおかけになりました。「わたしもあなたを罪に定めない」とは、イエスだけが語ることのできることば。イエスは人を罪から救うためにおいでになったのです。私をも、イエスは向き合って生かしてくださいました。