みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

イエスの沈黙

2022年04月15日 | 受難と復活

マルコの福音書 15章1−20節

 木曜日夜は、礼拝その他でお借りしている教会で「洗足日の聖餐式礼拝」があり、参加させていただきました。初めての参加でしたが、いつも礼拝をしている場所にテーブルが並び、一人一人のために食卓が調えられていました。

 キリストが十字架でなくなられたのをおぼえる今日は、マルコの福音書からキリストの十字架への道をたどります。この箇所は、大祭司の家での審問の結果罪をでっち上げられたイエスが、翌朝ローマ総督ピラトのところに連れて行かれることから始まります。

 ここを読んでいつも心に留まるのは、周囲の喧騒、醜い画策の中にあってイエスが必要なことば以外は全く語らないということです。ことばによって人々の心を鋭く探り、また癒やしや慰めを与えたイエスが、ここではほとんど何も語りません。でっち上げの罪をかぶせられたのなら、ことばの限りを尽くして自分の無罪を訴えるはずですが、イエスはそのようなことはしません。

 ピラトはイエスが自分の無罪を雄弁に主張することを期待していたのでしょうか。それならば次の方策を打てるのにと考えていたのかもしれません。しかし、イエスにかかわる人々のそれぞれの立場ゆえの思惑にもかかわらず、いや、そのような思惑も神は用いて、イエスは十字架への道をたどって行かれるのです。

この箇所でイエスがとられた態度はすべて、私の罪が神によって赦されるためだったのだと知るならば、一つ一つの姿勢やことばゆえに、「ありがとうございます」と主イエスに祈らざるをえません。

 火曜日の聖書の会での祈りの時、一人の方が涙声でイエスの十字架を感謝して祈っておられました。イエスの十字架への感謝、感動を忘れてはならないと促された時でした。


明らかにする時

2021年04月03日 | 受難と復活

マタイの福音書 27章57−66節

 受難日の金曜日、当地に来て初めてのこととして「聖書と賛美の礼拝」を行いました。いつもの年ですと、クリスマスやイースターには長い休みがあるので、遠くに出かけて休暇を楽しむ人々が多いのですが、今年はそれができません。「できないから礼拝を…」ということではもちろんありませんが、互いが近くにいても、なかなか行き来ができない中にあり、オンラインであってもいっしょに集まることができるのは、大切です。主の十字架への道を聖書を読み、讃美歌を歌いつつ深く覚える時となりました。

 この箇所は、イエスのからだが十字架から降ろされてから、何人かに起こった出来事が記されています。はじめに登場するのはアリマタヤ出身のヨセフ。彼はひそかにイエスの弟子となりましたが、おそらく自分の立場上それを隠していました。私は牧師ですので、クリスチャンであることを隠すことは当然できません。けれども、仕事の上であるいは社会的な立場ゆえに、口を閉ざしている人もいるのかもしれません。

 しかし、きょうの「みことばの光」の終りにあるように、そのような人が自分とイエスとの間を明らかにしなければならない時が来ます。なぜなら、キリストにある者はだれもが、キリストの証人として置かれているということを、アリマタヤ出身のヨセフ、そしていっしょにイエスのからだの埋葬に携わった、ニコデモの姿から考えるます。

 幸いなイースターをお迎えになりますように!


主のまなざしの先に自分はいるか…

2021年04月02日 | 受難と復活

マタイの福音書 27章45−56節

 きょうはイエス・キリストが十字架上で贖いの死を遂げられたことをおぼえる受難日です。当地は休日。

 「みことばの光」はきょうから日曜日まで、マタイの福音書でイエスの受難と復活を読みます。イエスが十字架の上で語ったことばは、聖書には七つ収められています。マタイは、そのうちの1つ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を記します。

 十字架上のイエスに向けて、人々はさまざまなことばを浴びせかけます。共通するのは「自分を救え」とのことばです。人を救ったのだから救え、神のお気に入りだから救ってもらえ、です。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」を意味する、エリ、エリ…との神への叫びは、イエスへの人々の嘲りへの答えのようにも響きます。

 ここでイエスが言われたこと、なされたことは、回りにいる人々の想像を超えていました。誰もが自分を救うために必死になって考え、行動する、しかしイエスはそうではありませんでした。嘲る人々へのあわれみといつくしみ、十字架の上でのイエスはそれを失うことなく、保ち続けた、それが「エリ、エリ、レマサバクタニ」ということばに明らかにされています。

 ジェームス・ティソットの絵画の中に、「われらの主は十宇架の上から何を見たか」という作品があります。ほとんどが十字架につけられたイエスを描く中で、この作品はイエスの目が何を見ているのかを描いています。そのイエスのまなざしの先に、私もいらせていただいたのだと感謝に堪えません。

*画像 ジェームス・ティソット「われらの主は十字架の上から何を見たか」(ブルックリン美術館)


最も誇らしい者

2020年04月11日 | 受難と復活

コリント人への手紙第一 15章12−19節

もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」コリント人への手紙第一 15章19節

 金曜日午後の近くの公園は、イースター休みとあって人でいっぱい。でも、公園が広いので「人混み」というほどまでではありませんでした。先日連邦首相が、「イースターには出かけないように」とメッセージを出しましたので、普段なら実家に帰ったり、旅行に出かけたりしていたのができずに、近くの公園に…、ということなのでしょう。カヌー遊びをしている人もいて、気持ちよさそうでした。

 ここには、原語で七つの「もし」が連なっています。そのどれもが復活についての「もし」です。最初は、「もしキリストの復活をあなたがたが宣べ伝えているのなら、どうして死者の復活はないと言うのか」と問うています。

 教えとしてキリストの復活を信じ、教えとしてキリストの復活を伝える、しかし、死者の復活はないと言っているとは、ほんとうのところは、キリストの復活を架空のことのように考えているのではないかとの鋭い問いかけです。

 そして、キリストが実際にはよみがえらないのだとしたら、宣教は空しく、自分たちの信仰も中味のないものとなると話を進めるのです。そして最後には、そうだとしたら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者だと言います。

 けれども私たちは、復活された、そして生きておられるキリストに望みを置いているのだから、すべての人の中で最も誇らしい者であることをパウロは伝えたいのだと、ここから思いました。


聖書に書いてあるとおりに

2020年04月10日 | 受難と復活

コリント人への手紙第一 15章1−11節

キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」コリント人への手紙第一 15章3節

 いつものように、公園内をかなり遠回りをしてスーパーに買物をしに行くと、教会の友と再会。その後もう一つのお店に行くと、その前で別の友とも再会。それぞれお元気そうでした。このような時、いろいろなツールで繋がっているとはいえ、やはり実際に会うのは嬉しいですね。

 きょうはキリストが十字架にかかり葬られた日、そして今度の日曜日はイースターです。当地でのイースター時期はおよそ二週間の休み。いつもなら両親を訪ねたり、旅行に出かけたりと移動の時期なのですが、今年はそれが禁じられています。メルケル首相は、イースターには出かけないようにと呼びかけていました。

 「みことばの光」は、きょうから日曜日までコリント人への手紙第一15章を読みます。受難日のきょう、キリストが聖書に書いてあるとおりに私たちの罪のために死なれたことをここから覚えたいと思います。

 1−2節でパウロは「福音」ということばを4度用いています。「福音」というのは良い知らせのこと。パウロは福音をあなたがた(コリントの人々)に伝えたこと、教会は福音によって立っていると確認しています。しかし、この教会ではそれが揺らいでいたのです。教会が福音ではなく他のものによって立っているかのようにゆがんでしまうということを、コリントは経験していました。

 私たちの側には何の力も希望もないからこそ、キリストの十字架と復活が私たちにとって福音なのです。今回の大きな危機は、教会が本来立つべき福音という土台にしっかりと立つようにとのきっかけになるようにと祈っています。


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