マルコの福音書 15章1−20節
木曜日夜は、礼拝その他でお借りしている教会で「洗足日の聖餐式礼拝」があり、参加させていただきました。初めての参加でしたが、いつも礼拝をしている場所にテーブルが並び、一人一人のために食卓が調えられていました。
キリストが十字架でなくなられたのをおぼえる今日は、マルコの福音書からキリストの十字架への道をたどります。この箇所は、大祭司の家での審問の結果罪をでっち上げられたイエスが、翌朝ローマ総督ピラトのところに連れて行かれることから始まります。
ここを読んでいつも心に留まるのは、周囲の喧騒、醜い画策の中にあってイエスが必要なことば以外は全く語らないということです。ことばによって人々の心を鋭く探り、また癒やしや慰めを与えたイエスが、ここではほとんど何も語りません。でっち上げの罪をかぶせられたのなら、ことばの限りを尽くして自分の無罪を訴えるはずですが、イエスはそのようなことはしません。
ピラトはイエスが自分の無罪を雄弁に主張することを期待していたのでしょうか。それならば次の方策を打てるのにと考えていたのかもしれません。しかし、イエスにかかわる人々のそれぞれの立場ゆえの思惑にもかかわらず、いや、そのような思惑も神は用いて、イエスは十字架への道をたどって行かれるのです。
この箇所でイエスがとられた態度はすべて、私の罪が神によって赦されるためだったのだと知るならば、一つ一つの姿勢やことばゆえに、「ありがとうございます」と主イエスに祈らざるをえません。
火曜日の聖書の会での祈りの時、一人の方が涙声でイエスの十字架を感謝して祈っておられました。イエスの十字架への感謝、感動を忘れてはならないと促された時でした。