みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

先に進むために

2019年04月30日 | マタイの福音書

マタイの福音書 5章43−48節

 主イエスは、律法の中で一番大切な戒めは何かとの質問に答えて、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして,あなたの神、主を愛しなさい」が重要な第一の戒めで、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも,重要だとお答えになりました。そして、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっている」とおっしゃっています(マタイ22章37−39節)。

 十戒の一つひとつは、第一の戒めと第二の戒めに要約することができます。しかし、山上の説教のこの部分でイエスは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とまで踏み込んで教えておられます。自分を愛してくれる人を愛することは難しいことではありません。仲間内との間で挨拶を交わすことも基本のマナーでしょう。

 しかしイエスは、私たちが「自然に」できないことをここで置いておられます。いや、21節からの6つの例のどれもが、「自然に」できることではなかったのです。これがご自分について来ようとする者に示された「あなたがたの義」(20節)でした。これらの例の前に、真剣に受け止めて前に進もうとすればするだけ、立ちすくんでしまいます。

 イエスはできない要求をしておられるのでしょうか。イエスについて行こうとする者にはイエスがおられます。先に進んで実践なさったお方です。このお方を信じて,自分にできないことを「できるように」と祈るときに、目の前に立ちはだかるもの先に進む自分を発見するのです。


「はい」は「はい」…

2019年04月29日 | マタイの福音書

マタイの福音書 5章33−42節

 5-7章は、山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれます。ここでイエスが教えておられる一つひとつのことは、なるほどそうだ、そうできならすばらしい、だけど無理!…というような答えが返ってくるようです。壁に吊した格言集のようなものに収めておくならば、そんな生き方ができたらすばらしいね,ぐらいで落ち着いてしまうのですが、「そのように生きよ、歩め」と言われたら,思わず後ずさりしてしまいそうです。

 土曜日にも書きましたが、20節の「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」というイエスのことばにとどまりながら、イエスのことばを考えてみます。

 33−37節は、「誓ってはならない」との教えです。このことばのもとはレビ記19章12節から来ています。「あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」神の御名を持ち出して偽って誓うなどということは決してあってはならないことですので、この戒めにはうなづきます。

 これに対して、イエスは「決して誓ってはならない」と言われます。それでは結婚式の際の「誓約」はどうなるのかなどという突っ込みが入りそうです。証言をするときの宣誓はどうなのか、高校野球の開会式での選手宣誓は……と。この後に「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさいと主イエスは言われます。誓ったことは誠実に果たすべきなのです。一方で最初からできっこないという思いで誓うことがあってはならないのです。どこまでも誠実であり続けよ、それが「あなたがたの義」なのだから、というのです。

 誠実でない者のために主イエスが誠実を尽くされた、そこに私たちの誠実な歩みの元がある。ですから、このお方から離れて誠実な歩みはない、のです。


あなたがたの義

2019年04月27日 | マタイの福音書

マタイの福音書 5章17−20節

 近くの広場には何本かの林檎の木があります。月曜日に通ったら林檎の花が満開、というのは火曜日に書きました。けれども木曜日には、そのほとんどが散っていました。水曜日夕方の「春の嵐」のためだったのです。もう少し咲いていたほしかったのですが…。森の緑がだいぶ色濃くなってきました。

 主イエスの公生涯の中では、パリサイ人や律法学者がしばしばイエスと対立します。彼らはイエスのことを律法を壊そうとしているとして、敵意を募らせていくのです。山上の説教を聞く人々の中にも、少なからぬ者たちがそのように思っていたことでしょう。ところがイエスは、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た,と思ってはなりません」と言われます。そればかりか、「廃棄するためではなく成就するために来たのです」と言っておられるのです。さらに「…すべてが実現します」とさえ語り、ご自分についてこようとする人々に、「それを行い、行うように教える」とまでおっしゃるのです。ですから、これを聞いた人々の中から、ざわめきが湧いたのではないでしょうか。

 心にとどめたのは、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」ということば。律法学者やパリサイ人の義にまさっているとはどのようなことかについては、続く6つの例で明らかにしていかれるのですが、「あなたがたの義」とはイエスについて行く者たちの生活の中で証しされていくものです。

 このようなことばを読んだり聞いたりすると、信仰者の歩みが窮屈になってしまったように感じてしまいます。私は弱い、その弱さの中に神の恵みが働くなどという話には心から同感できるのに、「あなたがたの義が…」となると自分はとても…と縮こまるか、二つの基準を持ち出して自分を納得させるようなことになります。

 主の愛に触れ味わうことがなければ、私に代わってご自分のいのちを投げ出して神の義を実現してくださったお方とともに歩むことがなければ、イエスが言われていることは「絵に描いた餅」のように、脇に置かれてしまいます。


隠れてはいられない

2019年04月26日 | マタイの福音書

マタイの福音書 5章11−16節

 「みことばの光」では、マタイの福音書のこの辺りは10節にも満たない文章を読んでいくことになっています。立ち止って、一つのことばをあれこれと思いめぐらすにはよい長さなのかもしれません。

 「八福の教え」の、特に10節にある「義のために迫害されている者は幸いです」とのことばを受けて、ご自身もイエスについて行く者も、迫害されたり悪口を浴びせられたりすることがあると、主イエスは続けておられます。

 そして、イエスに従う弟子たちを「地の塩」、そして「世の光」にたとえられました。ひどい目に遭わせられる,だからそうならないように「世」に紛れ込んで目立たないようにしなさいというのではありません。世にあって塩の役目をする、世の光なのだと教えておられるのです。

 それは、格好良く何事にも成功して輝くということではなくて、きょうの「みことばの光」によるのならば、罪や汚れ、弱さも明らかに出して歩む光の子どもなのだというのです。人は悪事や恥ずかしいことを隠そうとします。自分の弱さを繕(つくろ)おうとします。そのようなことではありません。

 主イエスににある神の愛をどれだけ受け止めているか、世との違いよりも世と同じことに平安を感じていないか。はちきれるほどのイエスとの結びつき、イエスから賜わる喜び、希望、愛。それらは自分の内側に閉じ込めておくことができなくなるなら、自分とイエスとのつながりを隠しておくことなどできない…。かたちばかりの宗教生活ではなくて、イエスとの生きたつながりをこそ求め続けるもの。


幸いなこと

2019年04月25日 | マタイの福音書

マタイの福音書 5章1−10節

 白アスパラガスの季節。今年初めていただきました。バターソースをかけて…! 今は自炊をしていますが、悩みは作りすぎることでしょうか。自炊の先輩にそのあたりのことを教えてもらいたいと思っています。

 きょうの箇所は、あまりにもよく知られている「山上の説教」のはじまりの部分。ガリラヤ湖を望む丘の上に立つ「山上の垂訓教会」の八角形の会堂には、この8つの幸いがラテン語で刻まれています。これらのことばは、「日めくり名言集」のようなものに記されて、壁に掛けられているのを眺めているうちは、「確かにそうだ」とか「良いことばだねぇ」などと言っていられるのですが、主イエスはそのような目的でお語りになったのではありません。

 ご自分について来ようとしている者に、このように歩めと語っておられるのです。そのようにして「8つの幸いについての教え」を受け取ろうとするときに、改めて自分がどのような「幸い感」を持っているのかと,心が探られるのです。これらのことばを額(がく)の中の格言として閉じ込めてしまうのではなくて、この教えに生きるのです。そうしようとすると、どれほど自分がここで明らかにされている幸いからずれているのかということに気づきます。

 ここでイエスがおっしゃっていない「幸せ」が、ひっきりなしに耳に、そして目に飛び込んできます。力で押さえつけて自分たちの都合のよい平和を実現する…スリランカでの惨劇をもたらした考え方とはまったく違う平和がここで説かれていると、読みました。


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