詩篇 6篇
昨日は、午前10時過ぎまで3月2日だとすっかり思い込んでいました。1日(ついたち)だと分かると、何かとても得したような気分になりました。それとともに、ついに来てしまったか……とも一瞬思いました。
ダビデは主の怒りを身に感じています。大きな罪を犯したからでしょうか。そして、かねてから彼を追い落とそうと狙っている「敵』はここぞとばかり、ダビデを攻め立てています。しかし、そのような中でダビデは神の憤りと懲らしめを受け止めます。このことをごまかして、罪人に再生はないからです。
ダビデの希望は、神が怒っているからもう祈ることなどできないと考えなかった、ということにあります。祈っている時も、主はまだ自分のことを怒っておられるとダビデは考えていました。3節の「主よ あなたはいつまで―」ということばに目が留まります。
主の怒りをを覚える者がそれでも主に祈るのだとしたら、それは2節にあるように「あなたのあわれみ」、4節にあるように「あなたの恵みのゆえ」のみです。ここに、罪を犯した者の希望があります。
日曜日の礼拝でともに読んだ、詩篇103篇8―10節を思いました。「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず 私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない。」