みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

通わない口づけ

2014年07月31日 | サムエル記第二

サムエル記第二 14章18-33節


 各キャビンごとに段ボールで家を作りました。14軒のお家が完成しました。なかなか! です。Img_2136

 写真はあるグループの表札です。キャンプのテーマを表現しました。

 ヨアブが差し向けた女との対話によって、ダビデはアブシャロムの帰国を許しました。ところが、ダビデはアブシャロムに会おうとせずに謹慎を命じます。赦していないのです。かといって、ダビデがアブシャロムに強い憤りを表していたということも伝わってきません。なすべきことをしないまま、3年が経ち、さらに2年が過ぎてしまったというように思われます。

 一方、兄弟を殺害するという罪を犯したアブシャロムは、きょうの「みことばの光」が書くように、悔い改めなければなりませんでした。それなのに、帰国を許しながら王はなぜ会おうとしないのかという点にこだわり続けます。
 
 ようやくのことで実現した「面会」も、責めることも悔い改めることもありませんでした。ダビデがかたちばかりの口づけをしたという様子を想像すると「何をしている!」という思いに駆られます。

 空気を読んだり気遣いをして互いの間を何となく維持していくのではなくて、罪を犯し「あなたがその男です」と責められたならば、「私は罪を犯した」と悔い改める、悔い改めたならば主にある兄弟姉妹として赦し受け入れる、という姿が、主の教会に見られるようにと祈ります。


言いなさい

2014年07月30日 | サムエル記第二
サムエル記第二 14章1-17節


 小学生キャンプ三日目の朝を迎えました。Img_2120
 木陰ではちょっと肌寒さを覚え、陽射しの暖かさを求めるような空気です。鳶(とんび)が悠々と広い空を飛んでいます。

 膠着状態を動かさないと…と画策したのは、将軍ヨアブ。「みことばの光」が書くように、動機は明確ではありませんが、少なくともダビデがアブシャロムをそのままにしていてはイスラエルの王としてよくない、しいてはヨアブ自身の栄達にとってもよくないという思いから出たことなのかもしれません。

 知恵に優れことば巧みなテコアの女とダビデ王との対話は、バテ・シェバとのことで主がナタンをダビデのもとに遣わされたときのことを思い起こさせます。一つのたとえによってダビデの心を動かしたら次は、「あなたがその男です」と畳みかけるのです。
 
 心に留めたいのは、「言いなさい」とのダビデのことば。
 やがて、この女が来たのはヨアブの指図によるものだと知るのですが、それ以上にダビデは、女との対話に大きな主の導きをおぼえていたのではないかと考えます。大きなことも小さなことも、人とのつながりの中でどうにも動かないという課題を一つや二つは抱えています。動かない理由が自分のかたくなさにあるか、相手の問題であるかは様々でしょう。そのような時の人との出会いや環境が、事を動かすきっかけになるかもしれません。

 聞く耳を持ちたいです。
 


引きずって時を過ごす

2014年07月29日 | サムエル記第二
サムエル記第二 13章20-39節


 松原湖(長野県)で朝を迎えました。昨日昼頃に着きましたが、涼しくて半袖では寒さを覚えるほど。4日間、小学生のみんなといっしょに過ごしています。

 妹を辱(はずかし)められたアブシャロムは、アムノンへの憎しみを募らせて満2年後に殺害を決行します。そして、母方の祖父のもとに逃れて三年間とどまります。「満二年」「三年の間そこにいた」という、時を表すことばが心に留まりました。

 異母兄弟ゆえの複雑な心情を考えるならば、ダビデはすぐにでもアムノンとアブシャロムとの間を何とかしなければならなかったのに…と、どうしても考えてしまいます。王はアムノンがタマルを辱めたことを激しく怒りますが、タマルやアブシャロムにどのように心を配ったのかについて、聖書は沈黙しています。ことがことだけに、ダビデにとっては自分がかつて犯した罪ゆえに躊躇する心が働いたのかもしれません。

 また、アブシャロムが逃げている三年の間、「ダビデはアブシャロムに会いに出ることはやめた」とあります。アムノンのために悔やんでいたからです。

 思い起こすのは、バテ・シェバとの間の最初の子どもが死んだときのダビデの態度。あの時は「子どもは死んでしまった」と前に向かって進みました。ところが今回は、死んだ長子への悲しみをずっと引きずっています。
 アブシャロムもダビデも、そして殺されたアムノンも、主の前に出て主のこころを伺うときだったにもかかわらず、悲しみや怒り、憎しみ、そして悔いを引きずって時を過ごしていたのです。
    


ひどい憎しみ

2014年07月28日 | サムエル記第二
サムエル記第二 13章1-19節


 日曜日の午後、激しい雨が降りました。
 あれほど暑くてうだるほどだった空気がヒンヤリ。過ごしやすい午後でした。

 ダビデの長子アムノンは、三男アブシャロムの妹タマルに恋をします。募る恋心に油を注ぐような悪知恵に乗ったアムノンは、タマルを力尽くで奪ってしまうのです。
 タマルの「イスラエルでは、こんなことはしません」とのことばに、当時のイスラエルの人々の倫理を垣間見ます。

 願いを成し遂げて満足かと思ったら、アムノンは「ひどい憎しみにかられて、彼女を嫌」います。考えさせられる一言です。タマルの側に問題があるのではなくて、悪辣な手段を用いて欲望を叶えて自分自身を嫌悪しての「ひどい憎しみ」だったのではないのでしょうか。
 
 何かが欲しいと思ったら、それを得るために努力します。正しい努力によらないで不正を働いて欲望を充足することもあります。実はアムノンは、こんなやり方でタマルを自分のものにしたくなかったのでは…と考えるのです。せっかくの恋の相手を悪者の口車にのって傷つけ悲しませている自分が赦せないのです。それがさらにタマルを傷つけることにまでなるのです。

 自分に釣り合わないものを手に入れようとすると無理をします。誰かを傷つけたり、踏みにじったりしててに入れても、欲しいものを手に入れた充足感にはほど遠いという体験は、誰もがしているのかもしれません。
     


神のことばを語る、聞く

2014年07月26日 | サムエル記第二
サムエル記第二 12章1-15節前半


 昨晩、あるお宅を訪ねました。川のそばにあるそこは、我が家よりも二三度気温が低く感じました。何よりも水の音が涼しさをおぼえます。大雨の時のザーッという音には不安をおぼえるのですが、この違いはどこからくるのでしょうか。

 ダビデが自分の罪を悔い改めるこの箇所は、淡々と出来事が推移していく印象がします。
 ナタンが「あなたがその男です」とまっすぐに言うと、ダビデは「私は主に対して罪を犯した」とあっさり認めます。まっすぐに語り、素直に聞いて従うのです。
 この単純さはどこから来るのだろうと考えます。

 バテ・シェバを我がものにし、ナタンを殺して以来、ダビデの心には激しい葛藤、苦しみがありました。ナタンの訪問は、実はダビデを解放し救うために神が備えられた機会だったのです。ダビデはこの時を待っていたとも考えられます。

 さらに、ナタンは神のことばを語り、ダビデは神のことばを聞いたのです。そこには、相手は傷つくのではないかだから言い方をソフトに…などと言うことは介在しません。ナタンは神が語れとお命じになったことをダビデに伝え、ダビデはナタンのことばを神のことばとして聞きました。

 教会で語られ聞かれるのは神のことばなのだろうか、と問われます。
   


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