みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

イエスによって与えられる信仰

2016年04月30日 | 使徒の働き

使徒の働き 3章11−16節

 久しぶりに自動車を洗車。といっても、洗車機に洗ってもらったのですが…。昨年7月に購入して洗車をしたのはまだ3回目ですから、相当なものですね。でも、冬の間は洗車をしてもすぐに汚れるので…となかなか踏み切れませんでした。

 生まれつき足の不自由な人がいやされ、飛び跳ねて神をたたえている様子に、人々が驚いて集まって来ました。ペテロは集まった人たちにこの出来事の意味を語り、聞いている人々が何をしなければならないかを明快に語りました。第一に語ったのは、あなたがたが殺し、神がよみがえらせたイエスがこの人に信仰を与え、いやしてくださったのであって、ペテロたちがすばらしいからではないということでした。そして次に語ったのは、このお方を殺した罪を悔い改めて神に立ち返るようにということでした。ペテロは自分たちにではなくて、イエスに彼らの心を向けさせようとしていたのです。

 心に留めたのは、「イエスに与えられた信仰が…」という16節のことば。誰に与えられたのかということについては、足の不自由な人に…とも、ペテロに…とも、とれます。前者だとしたら、何かもらえるものと思っていたこの人に、主イエスはペテロのの「…ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」とのことばを信じる信仰を賜わったということです。それは、立ち上がったこの人が、すぐに神を賛美しながら宮に入って行ったということでわかります。

 信仰が主イエスによって与えられるという一言で、肩の力が抜けるようです。


ナザレのイエス・キリストの名によって

2016年04月29日 | 使徒の働き

使徒の働き 3章1−10節

 何年かぶりで、「あの」ハンバーガーショップに入りました。日本では最近人気が落ちているようですが、こちらでは三つのレジの前にそれぞれ長い列ができていました。一列で並んで空いたレジに順番に入るという並び方ではなかったので、時間がかかる列に並んだら……外れ。仕方がないので静かに待ちます。注文も無事にでき、美味しくいただきました。ことばが通じた喜びが、一層美味しくしていたのかもしれません。

 ヘロデが立てたエルサレムの神殿の、異邦人の庭から婦人の庭への入口が「美しの門」だと呼ばれていたのではないかと考えられています。その門の所で、生まれてからこのかた一度も歩いたことのない人が、人生で初めて歩いたのに、おどり上がって立ち、歩いたりはねたりしたというのです。

 ペテロたちに焦点を当ててみますと、主イエスがなさったような奇蹟をイエスの名によって行うことができたということであり、イエスがなさったみわざが、復活の証人たちによって続けられているということを示す出来事なのです。「ナザレのイエス・キリストの名によって」ということばが、この出来事の鍵のことばになるでしょうか。

 それとともに、ペテロは「私を見なさい」とも言っています。復活の証人がどのようにしてつとめを行うのかについて、大切なことを教えているように思います。「私を見ないでイエスさまを見なさい」とはいろいろな機会に聞くことばですが、本当にそうなのでしょうか。

 ペテロは大きなしくじりをした弟子です。しかし、彼は「私なんて見ないで…」とは言いません。自分に自信があったからではなくて、自分のようなものを「復活の証人」として用いてくださることをありがたいことだと思っているので、「私を見なさい」と言い得たのではないかと考えるのです。


教会のかたち

2016年04月28日 | 使徒の働き

使徒の働き 2章37−47節

 きのうは、イスラエルにお住まいの方が訪ねてくださいました。お住まいの所にも、聖書に登場する遺跡があるとのこと。ともに神の恵みを分かち合う、豊かな時を過ごすことができました。

 ペテロの説教は聞いていた人々の心を探り、彼の勧めに応じてその日3000人ほどの人が弟子に加えられました。新約聖書の教会の誕生です。

 続く43−47節には、誕生した教会の様子が描かれています。何をしていたのでしょうか。宮に集まり、パンを裂き、食事をし、神を賛美していたとあります。宮に集まるとは、今なら礼拝をいっしょにするということだと言えます。パンを裂くとは主の聖餐にあずかって復活した主イエスの十字架のみわざをおぼえ続けていたということでしょう。そして、互いの交わりを重んじ、神を賛美していたのです。彼らは、「心を一つにし」「喜びと真心をもって」これらのことをしていました。

 教会とは何をするところでしょうか。組織なので、確かにいろいろな役割が必要ですし、計画を立てたり分担を決めたりするというのも大切なことです。けれども、いろいろなことに取り組む中で、いつの間にか、ここに記されている教会のかたちをどこかに置いてきてしまっているなどということもあるかもしれません。

 あれも必要これもしなければと心が急かされるようなとき、この箇所は教会に必要なことが何かを、示しているように思います。


人の仕業、神のみわざ

2016年04月27日 | 使徒の働き

使徒の働き 2章22−36節

 きのうの朝、自動車のタイヤを冬用から交換してもらいました。近所の自動車修理工場でタイヤを預かってくれているので、助かります。けれども、空気は冷たく、きのうの最高気温は9度。この記事を書いている頃の体感気温は2度でした。

 ペテロの説教が続きます。

 こともあろうに、人々は神がお遣わしになったキリストを殺してしまいました。ペテロは、「あなたがたは…殺しました」、「あなたがたが十字架につけたのです」と繰り返しています。イエスの十字架の死は、神のご計画と予知によるものですが、直接には人がイエスを十字架につけ、殺しました。一方で、神はこのイエスをよみがえらせたということばも繰り返されています。

 考えたのは、人の仕業と神のみわざということです。「あなたがたは…殺しました」ということばを聞いて、2000年前のエルサレムにいた指導者たち、十字架につけろという人々を思い起こすことでしょうが、ペテロのことばは、自分にも向けられているのだということに気づきます。礼拝でともに唱える「使徒信条」の中に、「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」とあります。この人はイエスを十字架につけよと判断しました。しかしこのように唱える時、自分の名前を思い起こすのだということばを目にしたことがあります。「あなたのために十字架に…」ということばとともに、「あなたがイエスを十字架につけた」のです。

 一方神のみわざは、死んだイエスを復活させられたことに表れました。ありえないことを神が歴史の中でなしてくださり、それを証言する大勢の証人を用意しておられるということを知り、その意味をかみしめることが希望なのだというように思えます。


老人は夢を見る

2016年04月26日 | 使徒の働き

使徒の働き 2章14−21節

 朝は晴れ間が見えましたが、たちまち雲に覆われて空気が冷たく、冬に逆戻りしたきのうの天候でした。冬物は片付けようとしていたところでしたが、また引っ張り出すことに…。お住まいの所はいかがですか。

 五旬節(ペンテコステ)の朝9時に起こった出来事は、そこに集まった人々を驚かせ、様々な憶測を呼びました。その時に、ペテロが他の十一人の使徒たちといっしょに立ち、この出来事の意味を旧約聖書ヨエル書2章にある預言が成就したのだと、人々に語りました。

 朝の9時というのは、ユダヤの人々にとって祈りの時間。「酔っ払っている…」とあざける人に、そんなことをするはずがないとまず否定します。それから旧約聖書(ペテロが引用したのは旧約聖書のギリシヤ語訳)を引用しました。

 ここを読んでいつも考えるのは、ペテロが確信をもって、この出来事の意味をはっきり伝えているということです。引用されている中に「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」ということばがあります。ペテロもその一人として聖霊に満たされたので、聖書を正しく用いて人々に復活したイエスの福音を伝えています。

 老人の一人として力づけられるのは、やはり「老人は夢を見る」という一言です。これは、17節と18節の「預言する」ということばに挟まれていますので、「夢見心地になる」ようなことではなくて、神のことばを語るということと結びついているのだと考えます。「もう…歳だから何もなくなった」というのではなくて、いよいよ神のことばを聴いて分かち合う喜びが与えられているというのだと考えましたら、喜びが湧いてきます。


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