みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

その時代が来る

2023年10月20日 | アモス書

アモス書 9章

 日本から素敵なSNSメッセージが届きました。送り主が描いた作品が数点添えられています。そのどれもが光を感じさせるもの。「遠い国からの良い消息は、   疲れたたましいへの冷たい水」という箴言25章25節を覚えました。ありがとうございます。

 アモス書の終わりには、ようやくのことで回復のメッセージが届けられます。今回「みことばの光」にアモス書を執筆した方が、アモス書には厳しい神のさばきが続くのでどのように読者の方に届けるのかが難しいと話しておられました。

 確かに、9章前半ははこれまで以上に神のさばきの厳しさが伝わってきます。悪事を行う者は誰一人として神から逃れおおせることはできないということばが、人が隠れるであろう場所を挙げながら届けられます。「よみ」と「天」、「カルメル山」と「海の底」がここには出てきます。神を敵とするならば、これほど恐ろしいことはありません。

 ここを読んで詩篇139篇を思いました。ここには、神が私の側にいてくださるならば、これほど心強く安全なことはないと歌われています。

「たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても  そこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って 海の果てに住んでも そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」詩篇139篇8−10節

 8節以降には、イスラエルの回復の約束が届けられています。11節の「その日、わたしは 倒れているダビデの仮庵を起こす」ということばに目が留まります。この約束がイエス・キリストによって実現し始めていることは、使徒の働き15章16―18節にこのことばが、主イエスの兄弟ヤコブによって引用されていることで分かります。

 心塞がるような、ひどいことが次々に周りに起こる時だからこそ、キリストの福音によってのみ、私たちには希望があるということを、アモス書の終わりに覚えます。


終わりの日

2023年10月19日 | アモス書

アモス書 8章

 近くの地下鉄のリニューアル工事。線路も枕木も取り払われて、道床も深く掘られています。そこにシートを敷きその上にバラスト(砕石)を投入するのだと思います。興味深いです。想像以上に工事が進んでいるので驚いてもいます。

 アモス書は、文章の構造も緻密で何節にもわたる「交差配列法」が用いられています。8章の初めにも、いわゆる「ことば遊び」が見られ、聖書の欄外注には、2節の「夏」と「終わり」とが発音が似ているとあります。

 神が牧者アモスを用いて、繁栄に酔いしれる北王国イスラエルの崩壊を語っておられる本書、8章が神のさばきの宣告の終わりの部分に当たります。 

 ここでは、「終わる」「終わり」が鍵となることばでしょうか。神はイスラエルに「終わりが来た」「その終わり」と、さばきの日が近づくとこの国に終わりが来ると警告しています。

 一方でイスラエルの民は、「新月の祭りはいつ終わるのか」「安息日はいつ終わるのか」と尋ねています。彼らは神への感謝をささげ、神を覚える日が早く終わってほしいとうずうずしています。それは金もうけのためです。商売したいのです。

 もう一つ、「その日」ということばも目に留まります。神にとって「その日」はイスラエルの終わりの時。人々はあわてて神を求め、神のことばを求めますが、すでに主は語ることをやめてしまいました。

 神が語られる、読みたい時に聖書を読めることが、どんなにありがたいことなのかを、ここを読んで思います。


とりなす預言者

2023年10月18日 | アモス書

アモス書 7章

 近所の川にカモたちがいるのですが、ちょうど赤ちゃんが産まれたばかりでした。もっと近づいて写真を撮ろうとしましたが、親鳥が見張っているので遠慮しました。帰り道、親鳥の後について川を泳いで行く姿もぱちり。不鮮明ですがお分かりいただけるでしょうか。

 7章は主とアモスとの対話、また預言者アモスの預言をめぐって、北王国の当時の王ヤロブアム、そしてベテルの祭司アマツヤも登場します。

 ここでアモスは神から三つの幻を見せてもらいます。それらはどれもが、北王国イスラエルにこれから先何が待ち構えているのかを伝えています。最初の二つの幻を見せられた時、アモスはイスラエルの民のためにとりなします。このことから、預言者がどのようなところに置かれているのかを垣間見ることができます。彼は、神のことばを民に伝えるということにおいては神の側にいます。しかし、たとえ罪ゆえに受けなければならない神からのさばきによって、イスラエルにわざわいが起ころうとする時に、アモスは民のためにとりなすのです。

 しかし、三度目の幻を見たアモスは、とりなしません。民の現状を見れば見るほど神が見せられたことは起こると確信するに至ったのではないでしょうか。預言者の辛さが伝わってきます。

 さらにアモスには、預言をしてはならないとの圧力がかかります。国の将来に影響を与えるようなことばは慎むようにと、祭司アマツヤが言います。16節の「戯言(たわごと)」ということばが目に留まります。

 しかしアモスは屈しません。彼は北王国が罪ゆえに滅びることをもちろん望んでいません。だからといって、人々の耳障りの良いことばを語るいわゆる「御用預言者」に成り下がろうとはしませんでした。真の戯言とは主が語れと命じなかったことばのことなのです。

 まっすぐに語り、そしてとりなす者でありたいと願う者です。


わざわいだ

2023年10月17日 | アモス書

アモス書 6章

 昨日朝は、天窓に霜が降りていました。木の葉も色づくなどして公園も秋の装いです。

 「わざわいだ」から6章は始まります。「幸いなことよ」で始まる詩篇1篇が浮かんできました。神から「わざわいだ」と言われるイスラエルは、特に力と富とを手にしていた人々は、「わざわいだ」という神のことばをおそらく聞き流していたのではないでしょうか。

 「なぜわざわいなのか。自分たちには安息があるのではないか。自分たちには神々がいるではないか。自分たちには有能な指導者がいるではないか」と彼らは反発さえ感じていたのかもしれません。

 3節に「あなたがたは、わざわいの日を遠ざけているつもりで、暴虐の時代を近づけている」とあります。人は、特に自己満足に浸っているときには、自分の本当の立ち位置が見えません。イスラエルの上流階級は、象牙の寝台、贅を尽くしたご馳走、美しい琴の音、最上の酒と高価な香料などに囲まれているために、迫り来る危機を知ることができないでいます。

 すでに主は、「わたしを求めて生きよ」と預言者を通してイスラエルに勧告を与えておられました。しかし、贅沢と自己満足の中にあった彼らには、そのことばは届きません。どんなに神のことばが届けられても聞くことのないという、「みことばの飢饉」が彼らをむしばんでいたからです。

 「みことばをください」と日々願い求めることのできる「幸い」をここから覚えるのです。

写真*「アンネのバラ」KN様より


神が求めること

2023年10月16日 | アモス書

アモス書 5章16−27節

 日曜日、礼拝をした会堂は室温が低く、私は宣教する側ですのでそれほど寒さを感じなかったのですが、体を動かすことなく聞いている方にとっては我慢の時間だったようです。会堂での礼拝は来年の春までお休み。29日からは近くにある教会の事務棟のホールで礼拝を行うことになります。

 5章後半からは、預言者アモスの時代の北王国イスラエルにおける宗教生活がどのようなものかを見ることができます。

 彼らは主の日を切に待ち望んでいました。それは、過去の歴史において神が奇跡的な介入を何度もされたことを伝え聞いていたからだと考えられます。出エジプトにおいて、約束の地カナン侵攻において、神がイスラエルを支え勝利に導かれたということが伝説のようにして語り継がれてきたからです。主の日が来れば…という期待を彼らは持っていました。しかしここでアモスは、「主の日は闇」だと断言します。

 なぜでしょう。アモスが語る「主の日」とはイスラエルの側が主のさばきを受ける日だからです。神に選ばれたというプライドはあったとしても、それにふさわしく考え生きるという姿勢がなかったのです。

 また彼らは、ささげものを神に献げていました。しかし神は、彼らのささげ物を喜ばれません。受け入れることはないのです。「かぎたくない」「受け入れない」「目を留めない」「聞きたくない」などという否定的な動詞が連なります。神がイスラエルの民に期待しておられるのは、「公義を水のように、義を、絶えずながれる谷川のように、流れさせ」ることでした。

 選ばれたというプライドだけで、それにかなって歩もうという姿勢の欠如は、このような結末に至るという警告をここから得ることができます。それはじつは、幸いなことなのです。


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