アモス書 9章
日本から素敵なSNSメッセージが届きました。送り主が描いた作品が数点添えられています。そのどれもが光を感じさせるもの。「遠い国からの良い消息は、 疲れたたましいへの冷たい水」という箴言25章25節を覚えました。ありがとうございます。
アモス書の終わりには、ようやくのことで回復のメッセージが届けられます。今回「みことばの光」にアモス書を執筆した方が、アモス書には厳しい神のさばきが続くのでどのように読者の方に届けるのかが難しいと話しておられました。
確かに、9章前半ははこれまで以上に神のさばきの厳しさが伝わってきます。悪事を行う者は誰一人として神から逃れおおせることはできないということばが、人が隠れるであろう場所を挙げながら届けられます。「よみ」と「天」、「カルメル山」と「海の底」がここには出てきます。神を敵とするならば、これほど恐ろしいことはありません。
ここを読んで詩篇139篇を思いました。ここには、神が私の側にいてくださるならば、これほど心強く安全なことはないと歌われています。
「たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って 海の果てに住んでも そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」詩篇139篇8−10節
8節以降には、イスラエルの回復の約束が届けられています。11節の「その日、わたしは 倒れているダビデの仮庵を起こす」ということばに目が留まります。この約束がイエス・キリストによって実現し始めていることは、使徒の働き15章16―18節にこのことばが、主イエスの兄弟ヤコブによって引用されていることで分かります。
心塞がるような、ひどいことが次々に周りに起こる時だからこそ、キリストの福音によってのみ、私たちには希望があるということを、アモス書の終わりに覚えます。