みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

何を見るか

2016年03月24日 | アモス書

アモス書 9章

 アモス書の終章から考えたのは、見るということ。

 アモスは祭壇の傍らに立っておられる主を見ました。主はアモスに神殿の敷居が震えるようにとお命じになります。神のさばきが始まるのです。一方、さばきの中で人々は主の目を避けてコソコソ隠れます。主の臨在をしっかり見るアモスと主の目を避ける人々の姿が対照的です。そして神の目は、罪を犯したイスラエルに向けられているとも8節にあります。

 厳しいさばきの宣告に続き、この章には回復も約束されています。国が再興され、豊かな自然が訪れ、作物は豊かな実りをもたらします。そして、二度と主はそこに住む者を引き抜くことをなさらないというのです。ここにあるのはまず、キリストがおいでになってもたらされる救いについての預言であり、やがてキリストが再びおいでになることによって実現する回復であり繁栄です。

 一昨日のテロについての報道を見聞きする中で、主がこれをどのようにご覧になっているのだろうかと考えました。私は何を、そして誰を見なければならないのかということについても思いました。みことばのききんがくることを憂えて、みことばを待ち望む時が来るのではないかとの期待も抱くのです。

 

 

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追い求めているもの

2016年03月23日 | アモス書

アモス書 8章

 きのうのブリュッセルでのテロで、多数の死傷者ができました。巻き添えになった方のご家族や友を主が慰め、守ってくださるようにと祈ります。

 繁栄に酔う北王国イスラエルには、神を覚え、あがめる新月の祭りや安息日が終わるのを待ち構えているかのようにして、モノを売りたがっている者たちがいたことが5節のことばは伝えます。このような人にとっては、神を覚え礼拝する祭礼も、自分たちの利益より下位に置かれているのです。しかもその商売はあくどくて、人をだまして儲けようとする魂胆があります。

 ところが、ごまかしまでして儲けた富も、神が引き起こす天変地異によってむなしいものとなってしまいます。そして彼らにとってさらに悲惨なのは、「主のみことばを聞くことのききん」です。パンも水も欠くことがなく、贅沢に暮らす彼らにとって、神のことばを聞くということは二の次三の次のことでした。けれども、これこそ神の民が求めなければならない、求めることによって自分たちが保たれるものだったのです。

 みことばを聞くことを、どれだけ優先し、上位に置いているのかということを問われます。

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緊迫の中で

2016年03月22日 | アモス書

アモス書 7章

 月曜日、家の前にある畑を整備していました。4月からこの畑を借りることになっていますので、そのための整備でしょうか。何を植えるのか、今からあれこれと考えています。

 アモスはいわゆる職業的な預言者ではなくて、「牧者であり、いちじく桑の木の栽培をして」いました。神は南王国ユダの農夫だったアモスを北王国イスラエルへのさばきのことばを伝えるためにお選びになったのです。

 祭司アマツヤは、アモスが謀反を企てているとヤロブアム王に語り、アモス自身にはここで預言をしないで自分の生まれ育った所に帰れと、半ば脅(おど)すように話しました。ところがアモスは、落ち着いてアマツヤに答えるのです。この落ち着きはどこから来るのでしょう。自分に確信がなければ、ちょっと揺さぶられると心が揺らぎます。ところがアモスは、脅されても冷静で、主のさばきのメッセージを、そしてアマツヤ自身の行く末を「あなたは汚れた地で死ぬ」と直言します。

 神に従う者の落ち着きについて、いろいろ考えました。

 失敗するとごまかそうとする誘惑が働きます。ごまかすことができたと思うと、別のところにほころびが生じます。そんなふうにして、落ち着きを失います。大切なのは、そんな時に「ごめんなさい」が言えるかどうか。悪いことをしたら「ごめんなさい」と言えるのは、神に従う者の姿。そこから真の再出発ができるのだと思うのです。

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神は誓う

2016年03月21日 | アモス書

アモス書 6章

 

 土曜日の夕方、「福島県ゆかりの会」に参加してきました。集まったのは私も含めて福島出身者4人と、奥様とお子さん。ちょっぴりなまりの混じった会話を当地でできるとは思っていませんでした。いただいた英文の福島県のアピール文書からは、だいじょうぶ、応援してくださいとのメッセージが伝わってきます。元のように戻るのがよいのかどうかなど、文書を読みながらいろいろと考えました。

 本章には、ぜいたくな生活に明け暮れるイスラエルの富裕層の様子が伝わってきます。しかし、その豊かさは主を自分たちの心から締め出すことへとつながり、緩んだ心は緊迫感などありません。そのような彼らの様子を主はつぶさにご覧になっておられます。

 「神である主は、ご自分にかけて誓われる」という8節のことばを心に留めました。神は何をお誓いになるのでしょうか。彼らを罪ゆえに、一つの民に攻め入らせて遙かかなたに引いて行ってしまうことを、です。人の誓いには、当てにならないものも多いのですが、主がお誓いになったことは必ずそのとおりになるのですから、「ご自分にかけて誓われる」とは恐ろしいことばです。

 それとともに、罪人である私たちを救おうとお誓いになった神は、ひとり子イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、十字架にかけてくださったのだということをも、思うのです。

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哀しいわけ

2016年03月19日 | アモス書

アモス書5章1−17節

 

 「♫春が来た…」と口ずさみたくなるようなきのうの一日でした。午後からはドイツ語のレッスン、そして夕方には日本から来ている主にある友と食事をしました。デザートにはレストランお手製のティライミス。おいしかった、でもお腹がいっぱい! です。

 「みことばの光」には、「この箇所は哀歌に始まり哀歌で終わる」とあります。贅沢をして切石の家々を建て、極上のぶどう酒を作っても、決して喜べない、いやそこには哀しみが募るのです。なぜなのかの理由がここに明らかにされているように思えました。

 手に入れられるものは手にしました。しかし何かが足りないのです。そこで、もっと多くを手に入れれば足りないものが埋まるだろうと考えたり、ほかのものも手に入れれば心が満たされたりするだろうと思ったりするのです。けれども、哀しさは自分が何を手に入れ、何を手に入れなかったかに基づくものではなくて、誰を求め、求めないかによるのだということがここから伝わってきます。持つべきものを持たなければ、何を持ってもどれだけ持ってもむなしいし、哀しいのです。

 「主を求めて生きよ」また「善を求めよ」という呼びかけにこそ、哀しみにさようならを言う鍵があるのだということを、覚えることのできる箇所です。

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2011-2018© Hiroshi Yabuki