みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

より良いこと

2023年11月30日 | 箴言

箴言 15章16−33節

 水曜日の夕方から、南にある町のクリスマス・マルクトを訪ねました。それほど人でごった返していずに、温かな雰囲気でした。Langos(ランゴス)を食べました。ピザを小さくしたような揚げパンで、私たちはチーズをトッピングしてもらいました。

 15章後半を読んで、「機会」「タイミング」ということばを思いました。18節後半に「怒りを遅くする」、19節前半に「怠け者の道は茨の生け垣のよう」。22節前半に「よく相談する」、そして23節後半に「時宜にかなったことば」とあります。怠惰であったり、せっかちだったり、感情をすぐに爆発したりすることで、物事や人との関係を台無しにすることはよくあることです。

 しかし、計画を立てればよいというものでもありません。26節前半に「悪人の計画は主に忌み嫌われる」とあります。その人の心の拠りどころがどこにあるかが結果を分けてしまうのです。

 富を追い求めることが良いという価値観の中で、16、17節は大切なことに気づかせてくれます。ある英訳聖書には「愛の中でパンの耳を分けるほうが、憎しみの中でスペアリブを分けることよりもよい」とありました。神学校で学んでいた頃、先輩がパンの耳を30キロの粉袋いっぱいに持ち帰りました。パン屋さんが150円で売ってくれたのだそうです。早速ストーブの上でパンの耳をいただきました。その美味しかったこと!、忘れられない味でした。


一晩寝かせて…

2023年11月29日 | 箴言

箴言 15章1−15節

 月曜日の雪はいわゆる「重い雪」。それでも、朝の公園は銀世界でした。

 箴言はことばについての格言が見られますが、15章の前半でも繰り返されています。そしてここでも、聞く耳を持つことと良いことばを語ることは、切っても切れない関係にあると言われます。すなわち、「愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にするものは賢くなる」と5節にあり、その賢さはことばに表われるのです。

 4節に目が留まります。「穏やかな舌はいのちの木。   舌のねじれは霊の破れ。」相手を生かすことばと滅ぼすことばとを、人間は口にするのです。先日、節約の工夫についてのビデオを観ました。ある方が節約の方法を次のように話していたのに注目しました。すなわち、インターネットで何かを購入するとき、ほしい商品を「買い物カゴに」入れたら一晩寝かせ、次の日になっても必要だと思ったら購入手続に進むのだそうです。

 ことばを発することにおいても「寝かせる」というのは有用だと思います。勢いに任せてメールやメッセージを出してしまったことで、失敗してしまうというのは多くの人に共通の経験かもしれません。夜に書いた手紙は朝の光に照らして読み直すのがよいと言われます。確かに必要な工夫かもしれません。

 13、15節を心に留めます。15節に「心に楽しみのある人には毎日が祝宴」とあります。以前の訳では「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」とありました。「宴会」とはもう日常ではあまり使われなくなったので訳が変わったのかもしれませんが、個人的には「宴会」ということば、好きです。もっとも、「宴会」とはあまり縁がない仕事をしているのですが……。


幸いな人

2023年11月28日 | 箴言

箴言 14章20−35節

 月曜日、雨が昼過ぎから雪に変わりました。初雪です。水分の多い重い雪ですが、あっという間に別世界の景色になります。

 20章後半では、「王」「君主」「国」という言葉が目に留まります。知恵をもって国を治めることが王である者に求められ、その結果が「民が多いこと」「国を高め」「賢明なしもべ」などということばに明らかにされます。賢明なしもべは知恵ある王のもとで育つのではないだろうか、と考えるのですが…。

 20節はどのような意味なのでしょうか。この世の現実を描く格言かと思うのですが、21節と合わせて読むとよいかもしれません。確かに、貧しい者は隣人に憎まれる、憎まれるまでなくても馬鹿にされるという現実はあります。特に、現代のような富を追及し続ける社会の中で、貧しいというのは失敗者だというひどいレッテルが貼られかねません。

 しかし、隣人を貧しいからということで蔑む者は罪人、神に逆らう者なのです。「やもめ、みなしご、    寄留者、貧しい者を虐げるな。  互いに対して、心の中で    悪を企むな」という、ゼカリヤ書7章10節の言葉を思います。

 そして、21節2行目の「貧しい者をあわれむ人は幸いだ」という言葉からは、私たちの主イエスのお姿が映し出されます。「深くあわれんで」という言葉は、福音書の中で何度もイエスが示された思いとして用いられています。それはすべての隣人(となりびと)に示されるキリスト者の基本的な姿勢なのです。


知り抜いている神

2023年11月27日 | 箴言

箴言 14章1−19節

 クリスマスに発表する子どもたちの朗読劇の初めての合同練習がありました。朗読する子どもたちも、演奏する子どもたちも緊張しつつ一生懸命取り組んでいました。12月17日の「本番」がとても楽しみです。

 日曜日の礼拝で、箴言は「遅読」するべきとのことばを引用しましたが、確かに、サーッと急ぎ足で読んでしまうなら気づかない味わいを、2行一組の格言たちは提供しています。

 10節に「心はその人自身の辛さを知っている。その喜びにはほかの者はあずかれない」とあります。「その人」と「ほかの者」、「辛さ」と「喜び」が、そして「知っている」と「あずかれない」とが対比されています。

 最初の行から思い浮かべるのは孤独です。どんなに近い関係にあっても、誰かの辛さをすべて分かっているということはありません。いや、もしかしたらその人自身も辛さのわけが分からないのかもしれません。2行目からは喜びが伝わってくるのですが、そこにも孤独が影を映します。しかし、ここでの孤独は決して悪いものではないと、私は思います。なぜなら人は、そのような中で神を求めるからです。

 金曜日にオンラインで聖書を読みました。そこで開いたのは詩篇139篇の初めの部分。そこでは神が私のすべてを知っていると繰り返されています。「主よ あなたは私を探り 知っておられます」は思いつきからの慰めの言葉ではありません。事実なのです。しかも神は、「御手を私の上に置かれた」のです。それは保護を、完全な守りを表しています。

 自分で自分の辛さの理由が分からなくても、神はすべて分かっている……。神を恐れる者の望みがここにあると思うのです。


軽んじられても…

2023年11月25日 | 箴言

箴言 12章

 月一度の聖書の会。お昼も楽しみです。普段お昼は抜いているのですが、この日は別。少しずつ取り分けているつもりですが、すぐにお皿がいっぱいになります。みんなで食べるのがさらによい味付けになっているようです。

 2行で一まとまりの箴言がここでも続きます。その多くは1行目と2行目とが反対の意味を伝えていて、どちらの道を歩むべきなのかをはっきりと読者に届けようとしているのが分かります。

 ここでも、「口」「唇」「ことば」などが繰り返されています。口から出ることばはその人をいのちに、あるいは滅びに導くほど大切なものだということが心に刻みつけられます。

 9節について、日本語訳聖書の翻訳の推移に興味を持ちました。

「身分が低くても、しもべを持つ者は、 高ぶっていて食に事欠く者にまさる。」(新改訳 2017)、「身分の低い人で職を持っている者は、 高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。 」(新改訳第三版)、「軽蔑されていても僕を持っている方が 尊敬されていてパンを欠くよりよい。」(新共同訳)、「軽んじられても自ら働く者は 重んじられていながらパンを欠くことにまさる。」(聖書協会共同訳)

 違いは、それぞれの翻訳が用いた「底本」(翻訳の際によりどころにした原本)によるものですが、「身分が低くても、しもべを持つ者」という訳は確かにわかりにくいのですが、世間的な立場ではなくてその人がどのような働きをしているかが大切だ、ということを教える箴言だと理解できます。外見や世間体を大切にするあまり、ほんとうに必要なものを欠いてしまうというのはありえます。


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