みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

きよめるのは主のわざ

2012年10月31日 | エゼキエル書
エゼキエル書36章22-38節


 朝のショットです。宝石のような実でした。Photo
 昨日は、長年日本で宣教師として奉仕された方を訪ねました。その方は、写真入りの祈りのノートを見せてくださって、次々に消息を訪ねておられました。「○○さんはどうしていますか」「……さんは病気だと聞いていたのですが、」と矢継ぎ早に尋ねる姿に、神への奉仕が引退してもなお力強く継続しているのだと知りました。
 ありがたいことです。

 36章後半では、前半に続いてイスラエルの回復の預言が語られています。
 特に、「みことばの光」の「黙想」で進められているように、25-27節を自分に神がお語りになっているものとしてゆっくり読むと、自分の今あるはすべて神のお恵みによるものであり、何一つ自分の功績ではなかったのだということを覚えるのです。
 「わたしは…連れ出して」「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかける…」「わたしは…あなたがたをきよめる」「…新しい心を与え、…新しい霊を与える」「…石の心を取り除き、…肉の心を与える」「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、…歩ませ、守り行わせる」「…すべての汚れから救い、穀物を…増やし」「…廃墟を立て直す」「人をふやそう」「…人の群れで満たそう」
 
 「きよめるは主のわざなり」


 


仰せられる

2012年10月30日 | エゼキエル書
エゼキエル書36章1-21節

 あるまとまりの箇所に、同じことば、動詞をたくさん見つけようとするのも、聖書を読む楽しみの一つですね。この箇所には、「神である主はこう仰せられる」ということばが目立ちます。
 預言者であるエゼキエルは神が仰せられることばをまっすぐに民に届けなければなりませんし、民はそれをよく聞かなければならないということが強調されているのです。
 「神である主が仰せられる」ということばを、どのように受け止めるのが大きなことになっているのです。

 もしかしたら私たちは、神である主が仰せられることをあたりまえのこととして、感動がどこかに行ってしまっているのではないだろうのか? と考えました。「神が仰せられる」とは、人生の一大事なのです。しかも、それは私にも語られています。

 もう一つは、「みことばの光」でも触れていますが、イスラエルの回復のために神が全存在をかけておられるいうことにも気づかされます。主の聖なる名が汚されることがないように、彼らの回復に全存在をかけておられる…。
 いや、それは、今を生きる私たちのためにも、神が全存在をかけておられるということに励まされるのです。




そこに主がおられた

2012年10月29日 | エゼキエル書
エゼキエル書35章


 雨も上がって日射しが心地よい朝を迎えました。日曜日はどのようにお過ごしになりましたか。
 通っている教会では、午後に聖歌隊の練習がありました。人数が少なく、各パート一人あるいは二人というものですが、長く続いています。私はバスを受け持っていますが、間違えるとすぐにわかってしまいます。

 そういえば、小学校の頃合唱部に入っていました。福島の田舎の学校でしたが、音楽の先生がすばらしく、コンクールで賞を取ったことも何度かありました。ある練習の日、音が合わないと先生が言いました。そこで、私は「口パク」を試みましたところ、「今度はいいね」と一言。音が合わない原因は、自分にあったのだとがっくり。…そんなことを、聖歌隊の練習があると思い出しています。忘れないものなのですね。

 35章は、セイル(エドム)へのさばきの宣告。
 エドムはイスラエルとは「親戚国」にあたります。しかし、イスラエルにはたいへん厳しい態度を取りました。イスラエルに敵意を抱き、イスラエル人が災難に会う時には剣を渡したとあります。また、イスラエルはわれわれのものだから占領しようと、相手の弱さに乗じてつけいる隙をねらっていました。
 主は、そのようにご自分の民に敵意を持ち続けるエドムにさばきを下されるのです。

 この箇所から心にとどめたことばは、「そこに主がおられた」です。
 これは、神に逆らおうとする者にとっては厳しい響きがありますが、神の民にとっては心強いことばです。「そこに主がおられ」るので、辛くても進んでいこうと思える、「そこに主がおられ」るので危ないことに手を染める誘惑から逃れられる…、信仰者はこの事実に支えられているのです。
 


わたしが養う

2012年10月27日 | エゼキエル書
エゼキエル書34章1-16節


 時々、教会においでになる方から「神父さん」「牧師さん」と声をかけられます。プロテスタント教会では「牧師」、カトリックでは「神父」と呼んでいるようですと答えますが、「牧師」とはその務めをよく表すことばだと思っています。

 この箇所には、イスラエルの牧者たちは自分を肥やすことに夢中で、羊たちの世話することなく養おうとしないとの叱責と神ご自身が牧者として羊を飼うということとが語られています。牧者の務めとは、この箇所から動詞を拾ってみますと浮かび上がってきます。
 「養う」、「強める」、「いやす」、「包む」、「連れ戻す」、「捜す」、「世話をする」、「救い出す」、「いこわせる」、「力づける」。
 反対に、牧者としてしてはならないことについても、動詞を拾って確認しましょう。
 「自分を肥やす」、「支配する」、「散らす」、「えじきにする」。そして、牧者のあるべき務めを表す動詞の反対の事柄です。

 神が自ら牧者として、散らされた羊たちを集めて、イスラエルの山々の牧場で飼うという約束は、紀元前538年にバビロンのあとに興ったペルシヤのクロス王が、イスラエルの民を捕囚地から帰還させるよう命じたということに実現をみます。しかしそれは、やがておいでになるイエス・キリストを指し示します。
 「みことばの光」の「黙想」を用いて、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とのヨハネの福音書10章11節を、改めて味わい、まことの牧者なるお方について思い巡らしたいと思います。

  
 



口では恋をする者であるが…

2012年10月26日 | エゼキエル書
エゼキエル書33章17-33節


 先ほど、川越市にある高齢者施設の礼拝から帰って来ました。施設の庭の桜の葉が少しずつ色づき、ひらひらと落ちていました。秋を感じさせてくれる紅葉です。
 
 エルサレム陥落の知らせとともに、神のことばがご自分の民に再び語られるという約束の通りになったと、「みことばの光」にはありました。
 彼らは預言者によって神が何をお語りになるのかを期待して集まってきました。
 しかし、神は彼らの心の内にあるものを見抜いておられたのです。心に留まったのは「彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている」ということば。
 自分たちの都合の良いことが語られるだろうと、期待して集まってきたということが見抜かれていたのです。
 
 「みことばの光」の「考えよう」にあるように、どんな姿勢で神のことばを聞いているのかを問われます。都合の良いことや聞こえの良いことばが自分の心に届くようにと、ほんとうは願っているのではないのだろうかと、問われているように思えました。
 ほんとうに大切なことばは、耳をそむけたくなることの中に含まれているのかもしれません。


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