みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神は隠れ家

2022年03月05日 | 申命記

申命記 33章

 この時期、不安や恐れを抱えながら日々を過ごしている人は少なくないと思います。昨日は原発が攻撃されました。

 川を渡らずに、この地でいのちを終えようとしているモーセは、ここでイスラエルの子どもたちに祝福のことばを与えています。これまでの数章で彼は、約束の地に入った彼らが神である種に背くという警告のことばを届けてきました。しかしここでは一転して、彼らを祝福します。

 神は彼らがこの先何をするのかをご存じであり、神のことばを託されたモーセもそれを知っています。彼らの行く末を懸念しつつ、モーセは祝福して彼らを送り出します。そこには神のみおしえを聞いてそれを守り行うようにとの、熱い思いが伝わってくることばです。私はこの章を声を出して読みました。神の祝福を取り次ぐモーセの思いが響いてきました。

 27節の「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある」ということばに目が留まります。新共同訳聖書は「いにしえの神は難を避ける場所 とこしえの御腕がそれを支える」と、聖書協会共同訳聖書は「いにしえの神は隠れ家 とこしえの腕が下から支えてくださる」と訳します。

 理不尽な攻撃におびえてシェルターに避難しているウクライナの人々を、主が彼らの隠れ家として、ご自身の永遠の腕で守ってくださいとの思いが湧いてきます。


このことばはいのち

2022年03月04日 | 申命記

申命記 32章36−52節

 モーセによる歌のことばの終わりの部分には、神がどのような方かがはっきりと歌われます。ご自分に背いた民を懲らしめる道具として、神は神々を拝むこの地に住む民、または国々を用います。しかし、彼らはやがて跡形もなく消えてしまいます。それは、神がご自分の民イスラエルへの哀れみを示されたからです。

 39−42節には「わたし」ということばが並びます。ご自分がどのような方なのかをイスラエルの民に明らかにされるのです。ここでモーセが民の前で唱えた歌のことばをこの時に聞いた者たちは、さて、子どもたちに、またその子どもたちに伝えたのだろうかと想像すると、その後の歴史はそうではなかったと思わざるをえません。

 けれども子孫たちが神の懲らしめによって辛い目に遭い、散らされる中でこのことばが見つけ出されて彼らを神に立ち返らせるようなことがあったのではないかとも思うのです。

 神から授かった歌のことばを唱え終えたモーセは、民に迫ります。自分たちの心にとどめよ、子どもたちに守り行わせよ…と。なぜなら、このことばは彼らのいのちだからです。ここを読んで、イエスを証言するヨハネの福音書1章を思います。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。……この方にいのちがあった。」ヨハネの福音書1章1、4節

 そして「あなたはいのちを選びなさい」という30章19節のことばを…。


復讐と報復は…

2022年03月03日 | 申命記

申命記 32章19−35節

 モーセによる歌のことばの中段です。

 主が突き放す、主がなすに任せることが、イスラエルにとってどれほど悲惨な結果をもたらすかが25節までで唱えられています。神に選ばれた者があるべき生き方から逸れたならばどのようなことになるかがここから分かります。みな厳しいことばです。

 しかし、ここにある一つ一つは、イスラエルだけに当てはまるのではないと思います。私はここを読んで、「神は…引き渡された」と繰り返されるというローマ人への手紙1章が浮かびました。

 26節以降では、ご自分の民イスラエルへの神のあわれみを確認することができます。神は彼らを突き放されます。しかし、彼らを一掃はされません。なぜなら、神はイスラエルを周辺の民族、大国によって攻撃するということによって突き放されるからです。もしも神が彼らを突き放したならば、敵は自分たちの力でイスラエルに勝利したとおごり高ぶります。

 35節の「復讐と報復はわたしのもの」ということばに目が留まります。イスラエルの民を痛めつける国々、そして自分たちの力でそれをおこなった彼らい神は黙ってはおられない、必ず復讐するという意味です。イスラエルは見捨てられるのではない、懲らしめられるのだということがこのことからも分かります。

 あってはならない侵略を現実にすると、このことばがますます心に迫ります。悪と戦わなければならないのはこの世界に生きる者の姿勢。そのときに忘れてはならないのは、神がすべてを必ず正しくさばかれるということです。


昔の日々を思い出せ

2022年03月02日 | 申命記

申命記 32章1−18節

 31章30節に、「モーセはイスラエルの集会全体に聞こえるように……歌のことばを終わりまで唱えた」とあります。120歳のモーセがどのような口調で唱えたのでしょうか。この歌は、主とご自分の民イスラエルの関係が主題です。

 まず、主がどのような方かが唱えられています。モーセは、自分のおしえは雨のよう、露のよう、小雨のよう、そして夕立のようだとたとえています。これは、モーセのおしえが絶え間なく語られてきたことです。そして、このおしえの起源がモーセではなく主であることは明らかです。彼は自分のことではなくて、主の御名を告げ知らせます。

 5節以降では、一転厳しいことばが語られます。「よこしまで曲がった世代は」という呼びかけは、モーセの歌を聞いている民を指すことばです。5節には「自分の汚れで主との交わりを損なう」と歌われます。この歌は、それを聞く彼らがやがて渡って行くカナンの地で何が起こるのかについての預言です。

 7節の「昔の日々を思い出し…」ということばに目が留まります。忘恩の民とならないために、罪を犯さないために、「あなたの父に問え」と言われます。

 当地から2000キロ足らずの地で、戦争が行われています。この戦争では、核爆弾の使用をちらつかせると脅す独裁者が一方の当事者です。先日、少年時代に長崎に落とされた原爆の光を目撃したという方が、この時の体験をことばにして語り伝えたいと話しておられました。大切なことでです。ぜひそのことが実現するようにと願っています。二度と繰り返してはならないと、語り続ける必要を今こそ覚えます。

 「彼らはあなたに話す。」


伝え続ける

2022年03月01日 | 申命記

申命記 31章

 日曜日礼拝の後、集まった人たちがウクライナのことをおぼえて祈りました。小さな祈りを神が聞いてみわざを進めてくださると信じています。

 申命記31―34章では、まもなく世を去ろうとしているモーセの姿が描かれています。本章を読んで思い浮かべたのは「伝える」ということば。

 モーセはここでまず、イスラエルの民全体に主が先立って行かれるのでヨルダン川を渡り、モーセの命令のとおりにその地を占領せよと伝えます。次に後継者ヨシュアに伝えます。主だ先だって進むのだから恐れてはならず、強くあれ雄々しくあれと言うのです。さらに祭司たちと長老たちには、民が忘れないように七年の終わりごとにみおしえのことばを彼らに読んで聞かせよと伝えます。

 ここで目に留まるのは、祭司たちと長老たちが誰に読んで聞かせるのかということです。12節に「男も女も子どもも、そして寄留者」とあります。そしてさらに13節では、「これを知らない、彼らの子どもたちもこれを聞き」とあります。広い範囲、いやすべての人に神のみおしえを読んで聞かせるのです。そしてそれは、聞いて学び、神を恐れ、みおしえのすべてを守り行うためでした。

 子どもたちがここに含まれています。「子どもたちは分からないから…」ではありません。子どもたちに、そしてこれを知らない彼らの子どもたちもと、伝えるべきこと、いや、伝えなければならないことは継承されて行かなければならないのです。神を恐れる生活とは、ある瞬間、ある期間、ある世界で終わってしまうものではないというのです。

 これらのことばが、まもなくこの世のせいを終えようとしているモーセによって語られたということに、重さを感じます。


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