みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の命令によって

2017年03月06日 | 申命記

申命記 34章

 2015年から「みことばの光」を発行している聖書同盟の「60周年記念誌」の版下がようやく完成し、きょう印刷会社に送ります。非売品ですが、資料的な価値も大きな冊子になりました。日本の聖書同盟は世界の「スクリプチュア・ユニオン」の働きの1つですが、ドイツでは Bibellesebund として働きが進められています。いくつかの聖書日課が出ていますが、興味深いのは女性のための聖書日課が出ているところです。

 申命記はモーセの死によって終わります。モーセは、ネボ山、ピスガの頂に登り、神が約束された地を眺めます。聖書は、主がモーセにお見せになったと書きます。主は顔と顔とを合せてモーセをお選びになったように、モーセほどの預言者は再び現れなかったとも書きます。

 それでいながら、モーセは見ることができたのですが、カナンに入ることはできませんでした。特別に神がお選びになったのならば、せめてヨルダン川を渡らせたら…とも思うのですが、モーセは約束の地を眺めてから主の命令によって死ぬのです。

 人の選びと使命について考えました。力や才能を持つ人は、自分であれもこれも…と考え、手を伸ばすかもしれません。しかし、どのような人にも神がお定めになった終わりがあるのだと知らされます。そして、主の命令によって死ぬのです。人間の貪欲や高慢にくさびを打つような出来事が、ここに記されていると思うのです。

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復讐と報いは

2017年03月03日 | 申命記

申命記 32章19−35節

 きのう伺った聖書を読む会で…。手作りのおはぎでした。ごちそうさまでした!

 きょうは「モーセの歌」中段。肥え太り、神の恩を忘れて神ならぬものに走るご自分の民を、神は怒り、退けるというのです。その厳しさは徹底しています。しかし、神は彼らを滅ぼされません。彼らの敵が「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない」ということが理由の1つだというのです。

 ご自分の民であろうと、その敵であろうと、人間はどこまでも神の前に高ぶる者なのだということを、改めて知らされます。「われわれの手で勝ったのだ」というのは、今でも、事を成し遂げた人の心に湧く思いだと思います。誰の助けも借りずに、自分で、自分たちで成し遂げたのだと心を高ぶらせるのです。盤石のように見える政治家も、高ぶりが忍び込むとき、意外なところからほころびが始まるのは、歴史が私たちに教えることです。

 勝者はおごり、敗者はしおれるのがスポーツの世界だけでなく、政治や経済における人間の姿だと思います。けれども、人をあることのために立て、またそこ座から引き下ろすのは神だということを、35節の「復讐と報いとは、わたしのもの」ということばが伝えています。

 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。…『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」というパウロのことばを思いました。⇒ローマ人への手紙12章19節

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恩を仇で…

2017年03月02日 | 申命記

申命記 32章1−18節

 人はいろいろなときに歌を歌い、作ります。「カラオケ」ということばは、今や世界で通用します。嬉しいときや辛いときに自然に口から歌が出てくるという人もいるかもしれません。そして、クリスチャンは歌う人、神を賛美する人です。

 32章1−43節は「モーセの歌」と呼ばれています。そして、きょうの箇所では神が真実なお方であることと、それに引き換えご自分の民が主なる神からの恩を仇で返すような不真実な者であることを歌っています。

 10−14節を、声を出して繰り返し読みました。神がどれほど彼らを愛し、導き、最良のものをもって養ってくださったのかを思うとともに、このお方は私にもこのような真実をもって導いておられることに感謝があふれます。15−18節には、ご自分の民が神を捨てたこと、そして神ではないものに心を寄せる様子が歌われています。「自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった」ということばに目が留まります。

 もうすぐ、3.11がやって来ます。あの時から6年が経とうとしています。原発事故後の対応はまだまだであり、むしろこれからが正念場というところでしょう。けれども、「過ぎ去ったことだから前に、前に」「嫌なことは忘れて…」というような調子で世の中が動いているように思います。

 モーセの前に立つ人々の後代の者たちが、「自分たちは大切なこと、最も大切にすべきお方を忘れてしまった」ということを思い起こすために、この歌があり続けるのです。聖書を読むとは、忘れてはならないものがあることに気づくことでもあるのです。

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呼び寄せて

2017年03月01日 | 申命記

申命記 31章

 きょうから3月。おとといからきのうにかけて「春の嵐」のような天候の当地です。突風と突然の雨、かと思ったら青空とめまぐるしい変化です。季節の変わり目を体感しています。

 「みことばの光」が書くように、ここは「引き継ぎ」の章です。120歳のモーセの役目はここまでで、ここから先民を率いてヨルダン川を渡り、約束の地に行くのはヨシュアです。交替にあたり、モーセはまずイスラエルの民全体に、自分ではなくヨシュアがあなたがたの先に立って渡ることと、主がともにおられるので強く雄々しくあれと伝えます。

 その後、すべての人々の前にヨシュアを立たせて、強くあれ、雄々しくあれとヨシュアを励まします。さらに、レビ部族の祭司と長老たちにみおしえを書きしるして授けます。しかし、これで終わりではありません。

 主はモーセに、この民がやがて他の神々を慕い、それゆえに神の怒りに会うことをお告げになり、だから、歌を書きしるして教えよとお命じになります。そして、ヨシュアには強くあれ雄々しくあれと、直接励ましてくださいます。

 民の行く末を、モーセはどんな思いで聞いたのだろうかと気になりました。けれども彼はもう先には進めません。彼らの未来が厳しいものだということを知った彼に主がお命じになったのは、みおしえを、そして歌を残すということでした。そこには、彼らのずっと後の世代が経験する悲惨な出来事と、そこからの回復が約束されています。その神のことばに、モーセは民をゆだねなければなりませんでした。

 3月から4月は移動の時期。後任に何を託し、ゆだねるのかということの基本を考えることのできる箇所でのようにも読めますね。

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いのちを選びなさい

2017年02月28日 | 申命記

申命記 30章

 1時間ほど歩いて歯医者さんに行き、クリーニングを…。今までとは違う歯の感触に二人で歯を見せ合いました。

 29章から30章にかけて、いくつかのことばを心に留めました。

 まずはきのう読んだ29章28節の「主は、怒りと、憤激と、激怒をもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた」ということばです。これは、神のことばに聞き従うことをしないないイスラエルが神ののろいを受けたときに、周りの国々が言うことばです。それにしても、「怒りと、憤激と、激怒をもって…」とは厳しい表現です。どれだけ神がご自分の民をお怒りになるのかということが伝わってきます。

 30章3、4節の「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを、再び集める。たとい、、あなたが、天の果てに追いやられても…」ということばにも目が留まりました。神がどれほど大きな怒りをもってご自分の民を追い散らされても、もし彼らが罪を悔い改めるのならば再び集めるとの約束です。このことばと29章28節のことばから伝わってくるのは、神がどれほど彼らを愛しておられるのかということです。

 次に30章14節の「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」ということばです。神のことばはそれを行うのに難しくはない、深淵で理解不可能なものではないのだというのです。人が心を頑なにして行わないということに問題があると気づかせることばです。

 そして「確かに主はあなたのいのちであり、…」ということばです。モーセは「あなたはいのちを選びなさい」と民に勧めます。主に従うことは、いのちを選ぶことなのだというのです。いのちは自分でどうのこうのできるものではなくて、神からの授かりものだということに、気づかせることばです。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki