みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

来てください

2022年02月28日 | テモテへの手紙第二

テモテへの手紙第二 4章9−22節

 日曜日の夕食、訪ねてくださった方と三人で「ラクレット」をいただきました。今シーズン最初で最後のラクレット。ちょっと癖のあるチーズを用いてのグリルです。ある本に、ラクレットを食べる時は水を飲まないとありましたので、ウーロン茶を飲みながら食べました。美味しいものや自分で作業(?)をしなければならないものを食べる時は無言になるのですね。3人で納得しました。ピクルスなどを食べながらともあったのを忘れて、この文章を書いている途中で、食後のピクルスをいただきました。

 テモテに書き送ったパウロの手紙の終わりには、パウロと関わりのある人の名前が出てきます。この中でテモテには、三度「来てください」と声をかけています。これを読むと、パウロとテモテがとても近い関係であったことが分かります。

 16―17節に、パウロの最初の弁明の時にはみんなが自分のことを見捨ててしまった、しかし、主は私と一緒に立って力を与えてくださったと書いています。ここを読むと、誰もいなくても主イエスが私とともにいてくださるの平気だ、大丈夫だとパウロは考えているのだろうかと想像してしまいますが、そうではありません。自分のところにはルカしかいない、他の人たちは用件があり、あるいは自分を見捨ててしまっていなくなったと嘆きに聞こえるようなことさえ書いています。

 イエスさまが一緒にいてくださるので一人でも良いとパウロが言っていないところに、安堵します。ともに歩む人が誰にでも必要なのです。今回の戦争で、やむを得なく家族がばらばらになったケースもあることでしょう。「来てください」ということばが一層心に響きます。


「しかし」の力

2022年02月26日 | テモテへの手紙第二

テモテへの手紙第二 3章

 隣の隣の国での惨状が報じられる中、心が晴れない時を過ごしています。

 3章から、「しかし」や「けれども」という接続詞の力を覚えます。ここでパウロは、終わりの日、困難な時代が来ることを承知するようにとテモテを促しています。教会をことばや思想の大嵐が襲うのです。それは「自己愛の嵐」と呼ぶようなものかもしれません。神のことばが自己愛という眼鏡によってゆがめられてしまい、真理や道理が通りません。その書いてきたパウロは、9節で「しかし」とことばをつなぎます。それは決して永続することはないのだと…。やがてそのような者たちの愚かさが分かる時が来るというのです。

 さらにパウロは、10節でも「しかし」とつなぎます。テモテへと向けられる「しかし」です。あなたはそうではなかったとパウロは言うのです。嵐にさらされても、あなたは私について来てくれたと書くのです。「私について来てくれた」と書けるパウロはすごいと思います。指導者はことばによってだけでなく、いやことばによって以上に、その姿、行き方によって後に続く人に多くを伝えるのだとここから思いましたしかし、パウロの生き方とはイエス・キリストに従い、ついて行くものだったなのです。決して彼が自分を誇っているのではありません。

 14節に「けれども」ということばがあります。テモテに、あなたは幼い頃から神のことばに親しんできたのだということを思い起こさせているのです。だから、どんなに優れた知恵のことばや思想が教会を襲うようなことがあったとしても恐れる必要はないと、パウロは伝えたいのかもしれません。

 今だからこそ、「しかし」として神に思いを向けることが必要ではないでしょうか、「しかし、主よ」と…。


破滅に追いやることばでなく…

2022年02月25日 | テモテへの手紙第二

テモテへの手紙第二 2章14−26節

 ことばは時として人間関係、組織、さらには社会や国家を破壊する力を持ちます。テモテが指導者として仕えていたエペソの教会も、大きな危険にさらされていました。パウロはここで、何を語ってはならないか、何を語るべきなのかを教会の指導者たちに教えるよう、テモテに助言をしています。

 14節に、「何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争」とあります。16節には「俗悪な無駄話」とあります。さらに23節には「愚かで無知な議論」とあります。これらは具体的には、パウロたちが神のことば、福音を伝えて人々をキリストへの信仰に導いて教会が建てられていったことを覆すような議論が活発だったという背景があるのでしょう。

 いわゆる偽教師たちはたくみな議論を組み立てて人々を説得していました。そしてそれは、教会がとどまるべき福音を台無しにし、人々の信仰を覆して、教会を混乱と破壊へと追いやる力があります。

 パウロは、このことで苦慮していたテモテに、教会で語るべきは何かをはっきりと示します。「真理のみことば」であり、指導者はそれをまっすぐに説き明かすものでなければならないのです。

 起こってほしくないと願っていた戦争が始まりました。攻撃する側は、自分たちの言い分を正当化して、武力を行使するのです。しかし、力によって相手をねじ伏せるのはスポーツの世界ではありえますが、国と国の懸案を解決する手段とするならば、多くの人々に深い傷を負わせることに通じることになるということを、ここを読んで確信します。


心に留めるべきは…

2022年02月24日 | テモテへの手紙第二

テモテへの手紙第二 2章1−13節

 いつの間にか夕方6時過ぎても空が明るくなっていました。夕焼けに飛行機雲が幾重にも映えています。

 パウロのテモテへの励ましの手紙には、自分自身が置かれている苦境が織り込まれています。パウロはテモテを「キリストにある同労者」だと見ていますが、テモテにとってパウロは信仰の父のような存在です。そのパウロが、自分はこれだけのことをやってきたし、今でもやっているんだから君もがんばるのだ、強くあるのだとこの手紙を書いたとしたら、テモテはどんな思いで読んだのでしょうか。

 確かに彼は、テモテに「強くなりなさい」、「私と苦しみをともにしてください」と命じていますが、それはテモテ自身に強さを求めているのではなく、キリストの恵みによって、なのです。パウロは8節でも「イエス・キリストのことを心に留めておきなさい」と書きます。キリストがともにおられる、これがパウロが、そしてテモテが苦境に立たされる中にあってなおも強くあり続けられる鍵なのだと、ここを読んで考えます。

 パウロはテモテに、自分のことも語っていますが、その際もキリストにあってパウロがあり続け、与えられたつとめを行い続けているとして、キリストに目を留めるように、キリストを見上げるようにと書いています。

 この頃の賛美歌の歌詞だとされる11―13節を、人々はどのような旋律によって歌ったのでしょうか。13節は自分の不真実を「それでよい」と正当化するために読むべきではありません。この賛美歌はそのようなことを伝えようとはしていないからです。

 心に留めるべきは、まことの人として歩まれたキリスト。


思い起こす

2022年02月23日 | テモテへの手紙第二

テモテへの手紙第二 1章

 外出先でガソリンがなくなるとのサインが出たので、ガソリンスタンドを探しました。スマホが探してくれ、そこに案内してくれるので助かります。そのスタンド、ずいぶんと込んでいると思ったら価格が安かったのです。ガソリンの価格が上がりましたね。

 テモテへの手紙第二は、聖書に収められているパウロの手紙の最後に書かれたものです。今のように、瞬時にことばが届かなかった当時、手紙を送り返事をもらうまでにはよほどの時間がかかったことでしょう。手紙を書き送って無事に届いたかどうか、相手が読んでくれたか、どのように思ったかということを考えるには十分すぎるほどの間がありました。

 個人が個人に宛てた手紙は、当事者でしか分からないこともあるかもしれません。この手紙でも、この時パウロやテモテがどのような事情にあったのか、はっきりしたことは分かりません。しかし、だからこそ手紙の文面から二人がどうだったのかを想像しようとします。

 4節に「私はあなたの涙を覚えている」とあります。これはテモテがいつ、どのような場合に流した涙なのか、それは喜びの涙か悲しみの涙なのでしょうか。前後には「思い起こす」ということばが並びます。祈りの中でテモテを思い起こしては神に感謝するパウロ、その中にテモテの涙があったのでしょう。

 またパウロは、テモテにも「思い起こしてほしい」と書いています。神の働きのために任命された按手の時のことです。その時神は、テモテに豊かな賜物をお与えになりました。しかしこの手紙が書かれた時テモテは何かに行き詰まっていました。「再び燃え立たせて」や「臆病の霊ではなく」、「恥じてはいけません」などのことばがこの時のテモテがどんなであったかを想像させます。

 この章から、テモテがパウロからどんな励ましや支えを得ただろうかと想像してみましょう。


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