みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

正しい人の祈り

2022年03月14日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 5章13−20節

 土曜日、ウォーキングついでに卵などを購入しようとスーパーに…。会計をしようとしたら財布を忘れたことに気づき、いくつかのものを戻してお店を出ました。でも、たくさん歩けたのは良いことだったとしましょう。

 ヤコブの手紙の最後の部分です。ここでは祈ることを勧めるヤコブのことばが心に留まります。苦しんでいる時に祈る、喜んでいる時にも祈る(賛美する)、病気の人がいる時にも祈る、互いに罪を言い表して祈るとあります。

 ヤコブは、15節で「信仰による祈り」、16節で「正しい人の祈り」と書いています。どれもほぼ同じ意味のように受け止めました。「正しい人」というと、品行方正の人、クリスチャンなら模範になるような人と読んでしまいがちですが、ここでは、神とのあるべき結びつきを持っている人のことでしょう。神との関係において正しい人という意味です。

 ここには旧約聖書の預言者の一人、エリヤの名前が挙げられています。17節の「私たちと同じ人間」ということばにも目が留まります。「当たり前だ」という声と、「エリヤは特別なのに…」という声の両方が聞こえてきそうです。前節の「正しい人」の理解から考えるならば、エリヤは神との間にあるべき結びつきを持っていた人だという意味で「私たちと同じ人間」だと言っているのかもしれません。

 神さまに造られたゆえに、神との正しい関係にあるのが人間のあり方なのだと教えられます。

 毎日16時にウクライナのために1分間祈ろうとの呼びかけを受けて、みんなで祈っています。祈りを聞かれる神に信頼して…。ともに祈りませんか。


戦う欲望

2022年03月12日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 4章

 日本の家族がコロナ陽性に。これを機に、ゆっくりと休養できると良いと思いつつ、症状が悪化しないように神の守りを祈っています。

 4章は、まさに今、私たちが耳を傾けるべきことばです。ヤコブはなぜ人は戦うのかについて、「からだの中で戦う欲望から出る」と書いています。確かに人は何かを欲します。自分が持つもので手に入れることができるものもありますが、できないものもあります。

 その時にあきらめることができるのは、実は幸いなこと。ところがあきらめられずになんとしても手に入れたいと願うならば、人をだまし、力を用い、さらに殺してまで手に入れようとします。それは悪い動悸によるものだとヤコブは言います。2節に「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないから」とあります。マタイの福音書7章7節にある「求めなさい。そうすれば与えられます」とのイエスのことばを思います。

 このような者たちは、神に求めず人に求めると方向を間違えているばかりか、自分が今欲しがっているものが神のみこころにかなうものであるかどうかということを祈り求めることをしません。いや、自分の願いを神が喜ばれないということを知っているので、求めないのかもしれません。

 ところでヤコブは、1節で「あなたがたの間の戦いや争い」と書いています。ここにある戦いは教会外でのことではなくて、教会の交わりの中で起こっていたということを伝えています。ですから、今日のこの戒めを独裁的な指導者に届けたいと思うだけでなく、自分へのメッセージなのです。

15節には、キリスト者の行動の基本が明かされています。「主のみこころであれば…。」これは、何を欲するかということだけでなく、すべてにあてはめる姿勢です。


上からの知恵

2022年03月11日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 3章

 手作りの納豆をいただきました。当地では、納豆を作っている方も少なくありません。さて、どんなお味か…楽しみです。

 この章には、二つの教えが並びます。一つは舌を制すること、二つ目は知恵についての教えです。舌、つまりことばに力があることは多くの人が体験済です。ことばには人を生かす力もあれば、反対に人を殺す力もあります。私たちは聖書、神のことばを信じて新しいいのちをいただきました。まさに人を生かすのです。

 一方で人を恐怖と破滅に追いやることばもあります。根も葉もない噂、恫喝、うそなどキリがありません。ヤコブは、教会ではとりわけことばが大切にされる場であることを踏まえ、特に神のことばを教える人々に警告を与えています。

 「私たち教師は、より厳しいさばきを受ける」とのことばに目が留まります。ヤコブはこれを自分のこととして語ります。だれかに警告を与えるというよりも、自分自身への強い戒めとして書いているということを思います。神のことばを教える者がことばで過ちを繰り返すとしたら、その人を通して届けられることばへの信頼が失われてしまいます。

 この章での二つの教えにはつながりがあります。なぜことばで失敗するのか、その原因の一つに、地上の知恵に基づく、苦々しいねたみ、利己的な思い、自慢、偽りがあることに気づきます。自分が語ることばがどこから出ているのかということを語る前に立ち止まって考えてみる必要があると思います。

 主よ、上からの、あなたの知恵を私に与えてください。


行いにって完成された

2022年03月10日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 2章14−26節

 さまざまな春の花が私たちを楽しませてくれます。数日の冷え込みがようやく緩んで公園にはたくさんの人が出ていました。

 えこひいきがあってはならないと教えたヤコブは、この手紙の読者たちに行いの伴う信仰者であるようにと勧めています。18節の「信仰を見せる」ということばに目が留まります。信仰はその人と見えない神との間のものであり、人には見えないものです。しかし、信仰者が何を考え、何を語り、そして何を行うかによって、信仰は見えてきます。ところが、行いがなければ信仰は見えないどころか、死んだものだとまでヤコブは書いています。

 21節から24節は、聖書全体の教え、特にパウロによる「信仰義認」の教えと相容れないと思わせるようなことばです。それゆえ宗教改革者ルターがこの手紙を「藁(わら)の書簡」だとしたというのはよく知られている話です。

 しかし、ここでの教えとパウロの教えとは矛盾するものではありません。パウロは人はイエス・キリストを信じる信仰のみによって義と認められると説き、ヤコブは信じて義と認められた者がどのように歩むべきかを説いているからです。ヤコブがこの手紙を書いたのは、初めの教会の頃から「信仰さえあれば行いはいらない」という勘違いが、信じた人々の共同体である教会にあったと考えられます。

 信じたらあとは何もしなくてもいいのだという極端な考えに対してヤコブは、「信仰は行いとともに働き、信仰は行いによって完成された」と語ります。彼が例に挙げるアブラハムの信仰はまさにそうだったと、改めて思います。


えこひいき

2022年03月09日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 2章1−13節

 月曜日の夕方、近所の路上で二人の子どもが折畳みテーブルを広げていました。彼女たちが描いた絵などを頒布していたのです。寒空の中で…という思いもあり、一枚の絵を買い求めました。値段は97セント。目の前に壁にしばらく飾っておくことにします!

 人は見た目では分からないとよく言われます。一方で見た目も大事だとの声もあります。ここでヤコブは「えこひいき」してはならないと勧めます。ここでの話は具体的です。クリスチャンの集まりに身なりの良い人が来たらその人をどう迎えるか、反対に貧しい人が来たらどう迎えるのかということをヤコブは例として挙げます。それは想像して仮定しているのではなくて、実際にあったことなのでしょう。

 なぜそれがいけないことなのかについて、ヤコブは神は私たちこの世の貧しいものを選んで信仰に導いてくださったからだと説いています。神が自分をそのようにしてくださった、というのが理由です。6−7節にはいわゆる世間の現実が描かれています。だから私たちも…と倣ってはならないのです。

 前に並んだ人には愛想よく挨拶するのに、こちらには無言で接するというレジの方がいます。もしかしたら、東洋人に対する差別なのだろうかと思うのですが、そんな時に妻は元気に明るく挨拶をします。私はそれができないので心が狭いのだなと、ここを読んで反省しました。


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