みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

困難の中で

2017年03月14日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 5章13−20節

 ひざの痛みについて書きましたが、朝起きたらちょっといい感じ。そこで久しぶりに長時間歩きました。だいじょうぶ…そうです。お祈りを感謝いたします。

 部屋の窓の外の景色に見慣れたクロネコマークのトラック。近所にお住いの方が帰国するので、引越しなさるのでしょう。そんな頃になっています。

 手紙の終わりの部分で、ヤコブは祈りなさい、祈ってもらいなさいと勧めています。ここに挙げられているのは、どれもが困難な局面です。「喜んでいる」というのも、ある意味で誘惑という困難さの中にあるとも言うことができます。ここを読んで、改めて信仰による祈りの力について考えました。それは、力強く祈るとか、大きな声で祈るなどということとは違うように思います。

 口をきけなくする霊につかれた子どもを持つ父親と、主イエスとのやりとりを覚えました。「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言う父親に、イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」とお答えになります。するとすぐに父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫ぶというやりとりです。⇒マルコの福音書 9章14−29節

 人は自分でできることがあるうちは、自分で何とかします。祈るということでも、自分にはすばらしい信仰があるなどと思っているうちは、自分の力に信頼しているということではないでしょうか。「信仰による」というのは、自分の側には頼りにするものがないという告白です。ヤコブはエリヤについて「私たちと同じ人でしたが」と書きます。列王記第一17、18章を読むと、とてもそのようには思えない、「強い人」のように響いてきます。しかし、エリヤの「強さ」とは、彼が拠り頼む神の強さなのだ、ということではないでしょうか。

コメント

耐え忍べ

2017年03月13日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 5章1−11節

 散歩にはとても良い時候になりました。ところが、このチャンスにひざを……。35年ほど前に、新聞配達をしていてバイクで転倒。いわゆるひざのお皿(膝蓋骨)を割って手術をした所が痛みます。これまでも、違和感を覚える時もあったのですが、今回はちょっと長いです。きのうの礼拝の前、いつも日本語教会によくしてくださる方に「ありがとう」とお礼を言いましたら、私のひざのことをご存じないのに、「あなたが今どこか痛むのならば、祈ってもらうといい。神さまはお祈りに答えてくださるのだから」と励ましてくださったのです。勇気づけられました。

 ヤコブの手紙5章前半に記されているのは、不正な手段で富を蓄える金持ちへの警告と、恐らくそのような金持ちにひどい目に遭わされている「兄弟たち」への励ましのことばです。

 この金持ちは、払うべき賃金を払わない、抵抗のできない正しい人を罪に定めて殺したなどという非道な手段で富を蓄えました。抵抗できない正しい人を…といって思い起こすのは、北王国イスラエルのアハブ王のこと。彼は、いや彼の妻イゼベルは、抵抗できないナボテという人の罪をでっち上げ、殺して、ぶどう畑をせしめました。

 ヤコブは、彼らが「終わりの日に財宝を蓄えた」と言っています。これを新共同訳聖書では「あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」と訳しています。「終わりの日」というのは、聖書では復活した主イエスが天に昇って行かれてから再びおいでになるまでの間を指しています。彼らがこの危急の時にしてはならない備えをしたと、ヤコブは言いたいのでしょうか。

 一方、苦しめられている「兄弟たち」には、耐え忍べと繰り返し勧めます。不正に甘んじて我慢しろなどとは…という思いを抱かせますが、そうではありません。終わりの日に、主がすべてを正しくおさばきになるとの信頼に基づく、力強い忍耐です。

コメント

舌の力

2017年03月11日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 3章

 月に一度の「子ども集会」。出エジプト記14章21節の「主に向かって歌え」とのことばを覚えたあと、楽器を作り、用いて、神を賛美しました。輪ゴムをはじくと良い音が鳴るのだなんて、普段あまり気にも留めないことに感動し喜びを持てる、とても貴重な時間です。

 3章は「舌の力」についての勧めです。

 舌には人を動かす力があります。主イエスのことばに聞き従った人が、人生の変革どころか、革命を体験したという例が福音書には多くありますし、それは今に至るまで続いていることです。

 教会の教師は、神のことばを人々に届ける務めをするのですが、同時にことばによって人をつまずかせたりすることもあります。ですから、「ヤコブは多くの者が教師になってはいけません」と言うのです。

 舌には破壊する力もあります。ことばによって人を死に追いやることさえできるのです。「ああ恐ろしい」と思うのですが、そのようなことを自分もやりかねない、いや、やってしまっているということに愕然とするときがあります。

 先日、「AI(人工知能)が新聞記事を書く」というようなニュースが報じられていました。間違いの多い人間にではなく、AIに取って代るという分野もこれからは増えていくのかもしれません。しかし、それで人間の舌の問題が解決するということではありません。ヤコブは、舌を制御することは、だれにもできないとも言います。何か突き放されたようなことばですが、そのとおりだとうなずかざるをえません。

 「上からの知恵」という17節のことばにだけ、希望があるのだと今さらながら思うのです。

コメント

信仰、行い

2017年03月10日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 2章14−16節

 かつてのドイツ語クラスの「お仲間たち」と町でばったり。お元気そうでした。約束してではなくてばったり会うというのは、とてもうれしいものなのですね。

 ヤコブは「私の兄弟たち」という呼びかけのことばで、信仰には行いが伴うべきことを勧めています。「私の兄弟たち」ということばから、手紙の読み手へのヤコブの愛が伝わってきます。

 信仰とは、神が愛であると信じる、イエスが自分の救い主だと信じることだと言えます。立ち止って、考えてみましょう。そのことが自分の意識を変え、物事や人の見方を変えないはずがありません。その人の行動に変化が生じます。

 ヤコブの手紙、特に21節の「行いによって義と認められた」とのことばは、パウロが説く「人は信仰によって義と認められるのであって、行いによるのではない」との教えと対立するかのように取られることがあります。このことについては、「みことばの光」今月号の29ページに「パウロの教えとの比較」という記事がありますので、確認してください。一部を紹介します。

 「ヤコブとパウロはそれぞれ、義認の原因と結果という異なる側面を説いているのである。つまり、パウロは『どうすれば人は神に義と認められるのか』という点から、…教えた。一方、ヤコブは『神に義とされた結果、人はどうなるのか』という点から…教えた。」「『人は信仰によって神に義と認められる』という教えは、行き過ぎ、濫用の危険をはらんでいる」ともありました。

 「行いの伴う信仰」と言われると、自分の不完全さに尻込みしそうな気持ちになるかもしれません。だからといって、「信仰によって義とされるのであって、日々の行いなど…」とすり替えないようにしたいです。

コメント

えこひいき

2017年03月09日 | ヤコブの手紙

ヤコブの手紙 2章1−13節

 月に二度程度の「男性聖書の学び会」。まもなく帰国するお二人も参加して開かれました。1時間少し、聖書を読み自分に照らして考え、分かち合います。一人では気づかないことへの発見がある恵まれた時間です。

 「人をえこひいきしてはいけません」とヤコブは命じます。1章には、貧しい境遇にある兄弟は自分の高い身分を誇りとするように、富んでいる人は自分が低くされることに誇りを持つように勧められています。そしてここでは、人を豊かだから貧しいからという物差でえこひいきしてはならないと命じています。

 1節には「私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰をもっているのですから」とあり、この手紙を読む教会に実際にそのようなえこひいきがあったことがわかります。2節以降は実際にそのようなことが教会で行われていたことが書かれているのでしょう。

 この手紙には、「兄弟たち」ということばが目立ちます。「私の兄弟たち」「愛する兄弟たち」と呼びかけながら、ヤコブは手紙を書き進めます。世間には貧富の差、主人と奴隷の違いなどが厳然としてあるけれども、会堂にまでそのようなことを持ち込んではならない、なぜならあなたがたは「神と主イエス・キリストのしもべ」であり、そのお方の前の兄弟たちなのだと、ヤコブは伝えたいのです。

 兄弟たち、兄弟姉妹と教会で呼び合うときに、えこひいきはないか、偏見によって相手をさばいていることはないのだろうかと自らに問うことを気づかされます。

コメント

2011-2019© Hiroshi Yabuki