みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

避けどころを持つ幸い

2018年01月31日 | 詩篇

詩篇 2篇

 きょうで1月が終わります。昨年も書いたように思うのですが、最初の月はゆっくりと過ぎて行くように感じるのですが、2月から後は時間の巡りが速くなるように思います。もちろんそんなことはありませんが、朝を迎えて新しい1日が始まるごとに神のことばを読み祈りを捧げる生活が幸いだと思うのです。

 「幸いなことよ」と詩篇1篇は始まりますが、本篇は「幸いなことよ」で終わります。しかし、「みことばの光」が書くように、一篇は個人的で、悪しき者のはかりごと、罪人の道、嘲る者の座から遠ざかり…と慎しみ深いのですが、二篇は国際的世界的で、騒ぎ立ち、たくらみ、相ともに集まる…と騒々しく戦闘的な雰囲気があります。

 生活の中で神の前に静まり、主の教えを喜びとして昼も夜もその教えを口ずさむ人も、一歩外に出ると力と力のぶつかり合い、企て、戦略…などに否応なく巻き込まれます。世の中は、誰につくか、どことつながるか、そしてどのようにして大きくなり力を増していくかというのが大きな関心事です。そして、神など関係ないとしています。

 神はしかし、その世に大きな関心を持ち、ご自分抜きに何事かを成し遂げようとする世界を笑い、嘲られるのです。それとともに神は、この世界にご自分が神であることを知らしめようと、王をお与えになるというのです。この詩篇は「メシヤ詩篇」としても知られます。やがてメシヤの到来があることを伝えているのです。

 自分の避けどころが誰なのかについて、「悟れ」「慎め」「主に仕えよ」という10節のことばが考えさせます。イエスを避けどころとする幸いを覚える詩篇です。


二つの道

2018年01月30日 | 詩篇

詩篇 1篇

 「みことばの光」は5年で聖書全巻を読み通す計画で編集されています。その中で詩篇は第一巻から第五巻までをそれぞれ一年ずつで読んでいきます。今年は第一巻(1ー41篇)です。

 詩篇1篇は詩篇のまとめであるばかりでなく、聖書全体が何を伝えようとしているのかを表わしているとも言えます。以前多くの聖句を幼稚園の子どもたちといっしょに覚える機会があり、1篇も暗唱していました。

 今回、新しい翻訳聖書(聖書新改訳2017)で音読してみますと、ことばをそいで詩文の趣を打ち出そうとしているように思えました。「悪者」と訳されていることばは「悪しき者」と変わったのも印象に残りました。ちなみに口語訳聖書は「悪しき者」と訳していました。

 本篇では読者の前に、いやすべての人の前に二つの道が用意されています。6節の「正しい者の道」と「悪しき者の道」です。1−3節は「正しい者の道」、そして4,5節は「悪しき者の道」を描き、どちらの道を選び歩むのが幸いなのかがはっきりと歌われています。

 さらに、1節では正しい者の道の消極的な側面を、2節では積極的な側面を描いていると見ることができます。つまり、「…しないこと」と「…すること」です。そして1節の「悪しき者」「罪人」「嘲る者」とは、神とのあるべき関係を損ねているという意味で用いられています。「はかりごと」「道」「座」というのは、人が次第に引き込まれていく様を表わしているのかもしれません。

 「なんて幸いなんだろう!」と思わず声をあげてしまうような人生への鍵がこの詩篇に、いや、みことばにあるのです。


同労者たち

2018年01月29日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 4章

 礼拝からの帰りは先週とほぼ同じ時間でしたが、日が少しずつ延びてきているのがわかります。日本は寒波が次々に押し寄せていますが、当地ではそれほど寒くない冬を過ごしています。

 コロサイ人への手紙は終章。「みことばの光」では1−6節を取り上げて書かれていますので、ここでは7節以降に目を留めてみたいと思います。

 この部分には多くの人の名前が出ています。まず、パウロのところからこの手紙を届けるためにコロサイに向かう二人を紹介します。ティキコのことをパウロは、「愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべ」と呼んでいます。最高の賛辞と言えるでしょう。パウロがどれほどティキコを頼りにしていたのかがわかります。パウロというと、何でも一人で成し遂げた超人のように受け取られがちですが、ともに主に仕え、教会に仕えるティキコのような人々がいての働きだということに気づきます。

 オネシモは、コロサイに住んでいたと思われるピレモンの奴隷で、ピレモンから逃げ出しローマの獄中でパウロに出会って、キリストを信じました。今、彼はティキコと共にそのコロサイに、ピレモンのもとに行こうとしているのです。ですから、16節にある「ラオディキアから回ってくる手紙」が「ピレモンの手紙」だと考える人もいます。かつてはみんなに迷惑をかけていた者が、今は「仲間」として戻って行こうとしています。

 またここには、パウロとともにある6人の名前も出ています。アリスタルコ、バルナバのいとこマルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、医者ルカ、デマスです。

 すべてを取り上げることはできませんが、たとえばマルコは伝道旅行の途中で帰ってしまい、次の伝道旅行に連れて行くか行かないかでバルナバと言い争いになってしまったような人物です。使徒の働き15章35−41でご確認ください。パウロはマルコを「迎え入れるように」と言っていますので、この時は信用回復の途上だったかもしれません。

 自分ならばいっしょにいる人を誰かにどのように紹介するだろうか、また、自分をいっしょにいる誰かはどのように紹介するだろうかと考えてみました。


上にあるものを思い、求める

2018年01月27日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 3章1−11節

 月一度の子ども集会で、「聖書カルタ」に挑戦。子どもたちが一枚でも多く…と真剣なのを見て微笑ましく思いました。そのあとで、もう一つのゲームをしようということになりましたが、私たちは散々な結果に…。色を識別して即座に判断しなければならないカードゲームなのですが、子どもたちの速いこと速いこと。ゲームの箱には「3歳から99歳まで」と書いてあります。該当者ですので、練習してこの次は!

 この手紙も、3章から後は信仰者の生活実践編と言えるような内容になっています。福音に生きる、福音に歩むとはどのようなことかを具体的に伝えているのです。そしてきょうの箇所は、生活実践編の基本姿勢とも言うべきこと。

 コロサイの人々に、キリストとともによみがえらされたのだから、すでに死んでいるのだから、上にあるものを求めるように、上にあるものを思うようにと勧めています。よみがえらされた、すでに死んでいるとは、キリストを信じる者に起こった出来事です。その事実を踏まえて、何を求め何を求めるようにとパウロは促すのです。

 自分が誰なのか、どのような立場の者なのかを知るならば、自ずと何を求め何を思うのかに変化が生じます。5節にあるような過去の自分が追い求めていたものを、もはや求め思う者ではなくなったのだというのです。

 パウロはさらに、古い人を脱ぎ、新しい人を着たということばを用いることで、上を求め、上を思うことがキリストを信じた者にとってどれほど理に適っているのかと書いています。

 今自分がこだわっているのはどのようなことなのか、気づかないうちに自分の新しい存在と矛盾するようなものを求めているのではないだろうかと、探られます。


肉を満足されるもの

2018年01月26日 | コロサイ人への手紙

コロサイ人への手紙 2章16−23節

 昨晩は、40年近くのおつき合いのある知人がわが家を訪ねてくれました。仕事のために日本から着き、疲れているはずなのに再会を喜んでくださいました。年齢も私よりも少し上の方で、起業し長い間会社を育て守ってこられた方です。それぞれが相手がいてくれたので今の自分がある、との話を持っており、時間を忘れるほど話に花が咲きました。

 ここでパウロは、コロサイの教会を混乱に陥れていた間違った教えの本質に触れています。彼らの特徴は、あれこれと規制を守り守らせること、ことさらに自己卑下すること、御使い礼拝(人間の好き勝手な礼拝)をすることなどにあります。

 一見これらのことは、宗教的で立派であるかのように見えます。けれどもパウロは、このような人々は実は謙遜とか敬虔とかいうのではなくて、かえって肉の思いによっていたずらに思い上がっているのだと指摘しています。規則を守るのも自己卑下するもの、実は自分のため。そのようにしている自分を見て思い上がるのです。

 大切なのは何をする、何ができるではなくて、誰に結びついているのかということだと教えられます。19節の「かしらにしっかり結びつく」ということばを心にとめました。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki