みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

半時間の静けさ

2017年11月30日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 8章

 11月はきょうが最後の日。今年も残すところあと1か月になりました。戸惑い、一歩も物事が動いていないかのように思えるときも、確実に日は刻まれていきます。

 黙示録を読みながら思うのは、信仰の再確認。子羊の血によって白くされた者にふさわしいのだろうかと自問しつつ、神のことばの約束に拠り頼む日々です。

 子羊が第七の封印を解くと、天に半時間ほどの静けさがあり、それから七人の御使いによって七つのラッパが吹き鳴らされていきます。7章の挿入部分を挟んで、神によるさばきの次の幕が上がったのです。

 その前に、「天に半時間ほどの静けさがあった」と1節に書かれています。「みことばの光」には「次の舞台を待つ間の、演劇の幕間のような印象を受ける」とあります。これまで、第一から第六の封印が解けるときには、神のさばきによって起こるいろいろな光景が繰り広げられました。ですから、第七の封印が解かれたときには何が起こるのかとヨハネは息を潜めたことでしょう。しかし、そこにあったのは半時間ほどの静けさ。ヨハネにとっては、これまでを振り返る時でもあったでしょう。もっと厳しいさばきがあるのではないかとの緊張もあったように思えるのです。

 静けさは、人に様々な思いや行動をもたらします。ホッとする人もいます。自分を振り返る者もいます。恐れを感じる人もいるかもしれません。いや、半時間(30分のことでしょうか)もの静けさにはとてもじゃないが耐えられないという人もいることでしょう。

 この半時間にはどのような意味があるのでしょうか。安堵、不安、緊張、期待、退屈、妄想、…その先に、神のなさることを待つ、神に祈るというための静けさなのではないかと心に留まりました。

写真*冬の紫陽花

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子羊が彼らを牧し…

2017年11月29日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 7章

 前章では、子羊が七つの封印を一つ一つ解いていくことによって、この地上に神と子羊のさばきが下される様子が明らかにされていきました。印象的なのは、そのさばきの前になす術(すべ)ももなく、洞穴と山の岩間に身を隠す王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人の姿です。彼らは必ずやって来るその日のために備えなかった人々です。七つの種類のこの人々は、権力を、知恵を、富を、力を、自由を持つ人々も含めてのすべての人々を象徴しています。

 彼らはなぜ、神と子羊との怒りに恐れおののいているのでしょうか。その答えが本章にあるといえます。ここには、この世界の終わりに生きる神の民の様子が明らかにされています。彼らは、神の民であるゆえに苦難を通された人々です。ある者は力や富、平和な生活を奪われ、ひもじさも弱さも通らなければなりません。殺される者もいました。

 けれども、神は彼らをそのような中で保ち、子羊を王とする者に与えられたいのちを奪われないように守ってくださるのです。地の四隅に立って四方の風を押さえるという光景に、神の守りを覚えます。

 もう一人の御使いは、神のしもべたちの額に印を押します。その数は十四万四千人。この人々は子羊の地によって贖われた者であり、ここに示されているのは「みことばの光」が書くように神のイスラエルと呼ばれる、キリストを頭とする境界を表す象徴的な数字だと考えられます。また、額に印を押されている情景は、地上の大きな患難の中でもいのちが守られる神のしもべたちを表しており、9節以降に描かれる、御座と子羊との前に立つ白い衣を身にまとったおびただしい人々は、地上にあって大きな患難の中を守られてきた人々の天における姿を指していると見ることができます。

 ここには、子羊の血によって白くされ牧される者たちの確かな守り、真の安全がこの章に描かれているのです。「子羊が彼らを牧し」ということばを心に留めます。

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主よ来てください

2017年11月28日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 6章

 当地では、きょうからクリスマスマルクトが始まりました。けれども、あいにくの冷たい雨。昼前に中心市街地に行きましたが、雨なのでマルクトには立ち寄らず…。雰囲気は改めて写真でお伝えします。

 七つの封印で封じられていた巻物を解くのにふさわしいのは、屠られた小羊であるイエス・キリストであるとの賛美が前章にありました。いよいよここでは、子羊が封印を解いていきます。ヨハネは四つの生き物の「来なさい」いう大きな声に促されて、封印が解かれて明らかにされている光景を見ていきます。

 最初の四つは勝利、戦争、飢饉、そして死です。第一の馬に乗る騎手が勝利するというのは、この地上に起こる大きな戦いでの勝者を指していると考えられます。ヨハネはこの先、地上に起こることを予め見ることが許されているのです。そして、第五の封印が解かれてヨハネは、殉教者たちのたましいが祭壇の下にいるのを見るのです。これは天の光景です。彼らは神のことば、自分たちの信仰のゆえに殉教しましたが、そのたましいが祭壇の下にいることによって、勝利者であることが証しされます。そして、第六の封印が解かれると、天変地異が起こるのを見るのです。

 ここにあるのはすべて、神の正しいさばきとつながりがあります。けれども、ここで子羊は、そしてこれを見たヨハネは、読者をおどそうとしているのではありません。神がすべてを正しくおさばきになる日が必ず来る、そして、子羊を信じ礼拝する者にとって、ここに繰り広げられているのは、むしろ、神がすべてをあるべきように正されるのだから、神に信頼して進めと後押しをしているように響きます。

 身が引き締まる思いを抱くとともに、「主よ、来てください」との祈りをささげる者でありたい。

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子羊を礼拝する

2017年11月27日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 5章

 日曜日には、午前にギーセンという町にあるバプテスト教会で礼拝をし、午後にはいつもの場所で礼拝をしました。ギーセンの教会では、ホールの窓に日本人の美術家の方がステンドグラスと制作中で、礼拝後は制作者からの説明を聞くことができました。聖書をよく読み、そこに込められた神からのメッセージを受け取って、一枚一枚の作品が仕上がっていることを聞くことができました。

 本章は、御座の着いておられる方が右の手に持つ、七つの封印を解くことのできるのは、屠られた子羊なるイエス・キリストだということを伝えています。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう」と聞いていたヨハネは、巻物の封印を解くことのできるふさわしい者がいないのを悲しみ、激しく泣いていました。

 その時、御座の回りにいた長老の一人がヨハネに、ふさわしい方とはユダ族から出た獅子、ダビデの根だと聞くのです。そしてヨハネは、そこに屠られた姿で子羊が立っているのを見るのです。そして、子羊が巻物を受け取ったときに、「この子羊こそ、巻物を受け取り、その封印を解くのにふさわしい方」との賛美を聞きます。

 さらにその賛美は大きな広がりを見せて、「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方」との大きな賛美になり、さらに、御座に着いておられる方と子羊とに「賛美と誉れと栄光と力が」限りなくあるようにとの賛美へと進みます。

 子羊なるイエスは、御座に着いておられる方と全く同じ賛美を受けることのできる方だというのは、イエス・キリストが神であることを明らかにしています。

 教会の礼拝、賛美はこの方に向けられているのでしょうか

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教会の戸の外に立って

2017年11月25日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 3章14−21節

 金曜日夜に帰宅しました。着陸したら小雨。カラカラ陽気の地から来たので、「こちらは雨が降っている!」と喜んでいた人もいました。私も、「しっとり」もいいなと思いましたが、いや、このような天候の下で何日も過ごすのはやはり…とも思い直しました。

 アジア州の七つの教会へのイエスからのメッセージの最後は、ラオデキヤの教会に宛てています。この箇所にはいくつかのことばが印象に残ります。一つは、「あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」とのことばです。ラオデキヤの北には温泉で今も知られているヒエラポリス(パムッカレ)が、南には冷たい飲み水の水源を有するコロサイがありました。

 何年か前に、次女が友だちとトルコ自由旅行をした折りに、ラオデキヤをローカルバスで訪ねました。すると、日本人の旅行客がラオデキヤに来るなんて珍しいと言われたのだそうです。確かに、多くの日本人がトルコを訪れていた頃の定番コースの一つとしてパムッカレがありました。温泉を体験できるのですから、日本人には外せないコースだったのですが、そこから数キロのラオデキヤを訪ねる旅程を一般のトルコツアーでは見たことがありませんでした。

 この教会の「生ぬるさ」とは、教会の主であるイエス・キリストをいつの間にか外に追い出していたことに気づかないという鈍さ、それでいて、自分たちが富んでいる、豊かになったと自己満足に浸っていたことを指しているのでしょうか。豊かだ、富んでいる、足りないものは何もないと豪語しながら、教会になくてならないお方を持つことのないという貧しさの中に…。

 しかし、教会の主なるイエスはこの教会の戸の外に立ち、戸を開けて入れてほしいと声をかけながら、戸をたたいておられるのです。彼らは戸をたたく音を聞いたのだろうか、キリストの声を聞いたのだろうか、そして、戸を開けていっしょに食事をしたのだろうか…。そして、私たちの教会は…?

*写真:バルセロナ郊外のコロニア・グエル内の地下聖堂(ガウディによる)

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2011-2018© Hiroshi Yabuki