みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

一人の従順

2023年09月06日 | 士師記

ルツ記 3章

 「みことばの光」では、先日士師記を読み終わりました。読者の方から次のようなお便りをいただきました。

 「主は闇の中に光を与え、人を生かすお方なのである。」(9月3日より) 士師記は残酷で理不尽で、苦手な書でした。S先生の解説がわかりやすく、また、どんな箇所の中にも主のご臨在を覚えさせられました。心から感謝します。」ありがとうございます。

 ルツに親切にしてくれたのが親類のボアズだったことを知ったナオミは、娘ルツの「身の落ち着き所」を探すために行動を開始します。ベツレヘムに到着した時「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから」といっていたナオミは、ルツの身に起こったことを偶然やラッキーと片づけずに、神の御手を覚えたのだと思います。愛する者のために働くことがこんなにも人を変えるのかだと、ナオミの姿から教えられます。

 この章で心に留めるのは、ルツの従順です。ルツはナオミの言うとおりにします。自分の考えや意見を差し挟みません。そしてルツは、ボアズの言うとおりにします。彼女のこの姿勢が、みわざが進むために神によって用いられたのだと思います。

 ルツに好意を抱いていたボアズも、性急に進めようとはしていません。神がどのように導いてくださるのかにゆだねるという信仰を彼がいただいていたことが分かります。事は大きく動こうとしていました。


主にある者の争い

2023年09月02日 | 士師記

士師記 20章36−48節

 「みことばの光」の表紙はいかがでしょうか。9月号は今のことばで言うと「斜めっている」ということになるのでしょうか。夏バテでほかに拠りかからないと倒れてしまうようなメッセージが伝わってきます。

 ゆっくりと読んできた20章。イスラエルとベニヤミン部族との戦いに決着が……というのがこの箇所です。ベニヤミン部族は600人を残して総崩れの状態でした。元はといえば、ギブアの町のよこしまな者たちの犯した悪事。それがイスラエルの一部族をほぼ壊滅するまでにしてしまうのだということを、改めて思います。罪を示されたならば心を頑なにしないで悔い改めることは、いつでもどこでも肝要なこと。

 それとともに、ここに描かれている戦いの勝者、敗者とはどちらなのだろうかということについても考えます。戦っている最中は敵を倒すということに専心するのでしょうが、終わってみたら勝者イスラエルが喜んでいるようには思えません。何か大切な者をどこかに置いてきてしまったというようなことなのではないか、自分たちも神のさばきを受けているとイスラエルは考えていたのではないかと想像します。

 主にある者同士の争い。ここにあるような殺すか殺されるかということでなかったとしても、私たち信仰者も見える、見えない争いや戦いを繰り返して今に至っているのではないかとの問いかけも覚えます。


主の前に座り

2023年09月01日 | 士師記

士師記 20章17−35節

 9月を迎えました。8か月が短く感じました。もう2023年は残すところ4か月です。

 「みことばの光」では士師記20章は三回に分けて読みます。圧倒的な数でベニヤミン部族に立ち向かったイスラエルは、二度も敗北を喫してしまいます。不思議に思うのは、イスラエルは主に伺い、「ユダが最初だ」ということばを聞いて戦ったのに敗れてしまったということです。

 主の命、主の導きの中にあれば必ず成功するというのが普通ですが、ここではそうではありませんでした。二度目も主の「攻め上れ」とのことばによって戦いに臨んだのに、またしても敗れてしまうのです。なぜ主なる神が「攻め上れ」と命じたことばに従ったのに彼らが破れてしまったのかの理由は明らかにされていません。

 しかし彼らは、二度の敗北を経験して、主に尋ねても無駄だという結論を持たなかったのです。彼らの取った態度こそ、この時のイスラエルには必要なことだったのかもしれません。26節の「主の前に座り」ということばに目が留まりました。何かを願う時、主の前に座すことを忘れてはいないだろうかという問いかけをここから受けます。

 「主の前に座り」は、何もかもが自分サイドからのもの、自分の願うように答えていただくことを慌ただしい中で期待してしまうことがあると諌めています。35節に「主がイスラエルの前でベニヤミンを破り」とあります。「イスラエルが主の助けによってベニヤミンを破り」とは書かれていないのです。


聞こうとしなかった

2023年08月31日 | 士師記

士師記 20章1−16節

 「みことばの光」11月号の編集が大詰め。「読者のページ」への投稿がなく、どうしようかと思案していましたら、ぴったりのタイミングで「士師記」を読んでのご感想を送ってくださいました。とても勇気づけられました。

 側女を殺されたレビ人の訴えを受けて、イスラエルはミツパに集まりました。ここはギブアから遠くないベニヤミン族の町です。そこで、レビ人から事情を聞いた彼らは、ベニヤミンのギブアに向かいます。ベニヤミン族もギブアに向かいました。イスラエルは悪を行った者を引き渡すよう求めましたが、ベニヤミン族は拒みます。そのために戦いが始まります。

 13節に「ベニヤミン族は、自分たちの同胞イスラエルの子らの言うことを聞こうとしなかった」とあります。イスラエルの提案はもっともなものでしたが、拒絶をしたのはなぜなのだろうと考えます。誰かが述べる「正論」に耳を傾け入れ入れずに、反発するのはなぜなのかと思います。

 相手が正しいのに反発するというのは、今でもよくあると思います。素直に言うことを聞いていたらよかったのに、なぜあの時に心を頑なにしたのだろうかと振り返る人は、決して少なくないと思います。このようなことを考えているなかで、やはり「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という17章6節のことばを思います。

 大切なのは正しいかそうでないかでなく、自分にとって良いか悪いかなのだというのは、ずっと神を恐れないで歩む「罪人(つみびと)」の姿なのです。相手に耳を傾けるのでなく、自分の主張を分かってほしいなどという姿勢も「自分中心」ゆえのこと。今は、それが上手に、もっともらしく社会の中に浸透しているのではないでしょうか。


同胞なのに

2023年08月30日 | 士師記

士師記 19章

 スイス東部の町から休憩を含めておよそ5時間で無事帰宅しました。途中眠くなりましたが、ちょうど良いタイミングでコーヒー休みを取ることができて、眠気が覚めました!

 士師記17−21章には、士師たちは登場しません。しかし、ここには士師の時代がどのようなものだったのかが明らかにされます。それは「闇の時代」と言えるものでした。

 17、18章にあったように、19章にも「イスラエルに王がいなかった時代」ということばがあります。ここから推察できるのは、士師記は王の時代の著者が王がいなかった時代を振り返っているということです。しかし、このことばはどんなにひどい者であっても、王がいればそれで良いということを伝えたいのではありません。士師記の作者が生きていた時代には、王が国を良く治めていたということも想像することができます。

 17章6節には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」とあります。王がいなくても、イスラエルには神がおられるから問題がないのではないかというような「突っ込み」も聞こえてきそうですが、やはり、神を恐れる指導者の必要が、この章に描かれる惨事を通しても読者に語られます。19章の登場人物だれもが、自分の目に良いと見えることを行っているのです。

 「自分の目に良い」とは今なら、それで良いではないか! どこが間違っているの? と言われるようなことです。多くの人がそのように生きています。しかしそのような姿勢が、弱い立場にある人のいのちを奪うのだとここに書かれています。

 レビ人は日が暮れて、エブス人の地にではなく、同胞ベニヤミンの町ギブアで一晩を過ごすことにしました。しかし、これが悲劇に通じます。ここに登場する人々はどこかちぐはぐな印象とここを読んで思ったのです。


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