みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あまりにも身勝手な

2018年09月12日 | 士師記

士師記 21章

 側女(そばめ)を殺されたレビ人の報告を聞いたイスラエル諸族は、主の戦いを起こそうという熱情に駆られ、戦いを始めてしまいます。最初は主に聞いて指示を仰ぎますが、あらかたの勝負が決ってから、つまりイスラエル諸族がかつことが確定したあとでも、彼らは勢いに任せてベニヤミンの男たちをほぼ全滅させるまでに攻撃の手をゆるめなかったのです。
 ところが、ベニヤミンを追い込んでみると、神さまに文句を言います。「主よ。なぜイスラエルにこのようなことが起こって、今日、イスラエルから1つの部族が欠けるようになったのですか。」(3)都合の悪いことが起こると神のせいにするのは、彼らだけではありません。そのようなことは、私たちにも起こりうるのです。

 そしてイスラエル諸族は、主の名を用いて女性を「調達」してくるのです。自分たちは主に誓いを立てて、自分たちの娘はベニヤミンに嫁がせないことにしてしまったので、ベニヤミン族との戦いに参加しなかった、ヤベシュ・ギルアデを「聖絶」して、結婚しない女だけを生かして、ベニヤミン族にあてがうのです。さらに足りないからといって、今度はシロの娘たちを略奪して妻にするようにとも画策します。

 この出来事の登場人物は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」という士師時代の代表者だと考えられます。そしてそれは、21世紀を生きている私たちの姿でもあります。

 何かに取り組むけれどもすぐにいやになり、「会社は自分の力を認めてくれない」「自分はこんなところにいてはいけないのだ」などと考える。 
 自分の都合がいつも先にあって、人の迷惑など考えもしない。
 自分がほしいものは何が何でも手に入れたい、満足したらそれでおしまい。人が死んでも運が悪かっただけ。
 何かに夢中になってはみるが、自分の好みじゃなければ即冷たい態度に変わる。 
 自分が被害者であることを、周り中に訴えて時には暴力に訴えて、うっぷんを晴らす。
 事実をゆがめ、誇張し、ある部分は削って自己弁護をしたり、相手を攻撃したりする。
 「主の戦いだ!」と息巻いてはみるが、実は、神に何も相談することがない…。

 さて…?

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そこまで…

2018年09月11日 | 士師記

士師記 20章36ー48節

 

 訪ねて来てくれた友人夫妻とドイツ東部を訪ねています。ルター宗教改革500年という記念の年だった去年と違って、訪れる人も程よい感じでゆっくりと見ることができました。

 戦いに長けたベニヤミン部族は、さすが最初のうちはその強さでイスラエル諸族に優っていました。けれども、イスラエル諸族の伏兵作戦によって倒されてしまいます。そして、ベニヤミン側には600人が残るだけになってしまったのです。

 前の段落で主がベニヤミンを打てとお命じになったとおりのことが起きたのです。ベニヤミンは、ギブアのよこしまな者たちを引き渡さなかったことが結果として多くの勇士を失うことになってしまいました。罪が示されたときに、それを認めようとしないで隠そうとしたり、逆にいきり立ってしまったりすることが、どれほど大きな代償を払わなければならないかについての大切な戒めでもありました。

 時折、「素直にれない自分」が首をもたげてくることがあります。主の十字架を見上げて乗り切らせてくださいと祈ります。

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敗北して…

2018年09月10日 | 士師記

士師記 20章17−35節

 テニスの全米オープンで、大坂なおみ選手が日本人ではじめて優勝しました。新しい時代が来ようとしているのでしょうか。2007年の全米オープンを観に行ったことがあります。その時、すでに活躍していたウィリアムズ姉妹の練習の様子を見たことを思い出します。

 イスラエル諸部族とベニヤミン部族とが戦います。イスラエル部族が主に伺うたびに主がことばをお与えになるということは、正義はイスラエル諸部族にあるということでしょう。しかし、主が「ユダだ」と仰せられてユダが戦いに出ると打ち負かされ、泣きながら主の前に出て「再び、同胞ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか」と尋ねると、「攻め上れ」と主は言われたのです。

 けれども、主が「攻め上れ」と言われても、彼らはまた敗れてしまいます。主が自分たちとともにおられるということが、思いどおりになるのことの保証にはならないのです。

 しかし、ここで彼らはあきらめません。再び、今度はこぞって主の前に出て泣いて主に祈ります。二度の敗北を喫する中で三度目を祈るという姿勢から、信仰はあきらめないことなのだと教えられます。敗れ続けるから主に信頼するのをやめるのではなく、敗れ続けるから信頼し続けるのです。

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見たこともない

2018年09月08日 | 士師記

士師記 19章

 士師記には様々な士師たちが登場しますが、終わりの4章には士師は出てこないで、二つのエピソードが載っています。これらは士師記の付録の部分だとの説明もあります。二つの出来事は、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行なっていた」という17章6節にまとめられている時代を象徴しています。

 特に19-21章の事件は、読んでいてため息が出てくるような気持ちになります。人は拠り所である神をどこかに追いやってしまうと、自分の目に良いと見えることをめいめいが行なうようになり、それがどんな結果をもたらすかについて、考えさせられます。

 側女を持ったレビ人、おそらく正妻との確執のようなことがあって家に戻ってしまう側女、側女を連れ帰ろうとするレビ人、帰る途中にギブアで遭遇するならず者、その際のレビ人の対応、側女への暴行、死んだ側女へのレビ人の態度…。そのどれもが、「これでいいのか」と口に出してしまいそうなことです。

 ならず者がしたのは、創世記18章のソドムの不品行を上回るひどいこと。自分の目に良いと見えることの行き着く先はこうなのでしょうか。いっぽうのレビ人は側女を失った被害者のような態度でいますが、彼がならず者による危機に遭遇しての対応にも、死んだ側女の遺体にしたことも、大いに疑問が残ります。

 この章には、助けを求める神への祈りも、大切な人を失った悲しみを訴える嘆きも見られません。救いはどこにあるのかと、この章全体が語りかけています。それぞれが自分の目に良いと見えることを行なうことへの警報が響いてくるような箇所です。

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王がなかった

2018年09月07日 | 士師記

士師記 18章

 祖国では台風による被害に続いて、北海道では大きな地震があって被害が出ています。皆様お一人びとりに神の支えがありますようにと、お祈りいたします。

 一人でペリシテ人と戦ったサムソンはダン部族に属していました。じつはダン部族はペリシテ人の圧力ゆえに、高地から低い所(地中海沿いの平野部)に下りることができずにいました。1節の「相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかった」ということばは、彼らが割り当てられた領土を占領できずにいたということなのです。

 そのため彼らは、自分たちの移り住む地を探し求めていたのです。そして狙いを定めたのは、ガリラヤ湖の北方にあるライシュという場所でした。五人が偵察に行くと、ライシュの人々は安らかに住んでいました。敵の侵入もない地域にあったからでしょうか。五人がダンが移り住むには絶好の場所だと報告したので、彼らはすぐにライシュを攻めるために出かけました。

 その途中、ミカの家に祭司がいるのを知った彼らは、自分たちの祭司になってほしいと誘い、さらにミカが造った彫像、祭司が用いるエポデ、テラフィム、そして鋳像も奪うのです。それに対するミカの対応に目が留まります。26節に「ミカは、彼らが自分よりも強いのを見て取り、向きを変えて、自分の家に帰った」とあります。ずいぶんと諦めの早いことかと思います。祭司を雇い、像を造り、宗教的なことをするためのものを揃えていたミカは、まことの神に祈るということはなかったのです。

 1節の「その頃、イスラエルには王がなかった」ということばは、当時のイスラエルの有様を描いています。確かに彼らには王がいませんでした。けれども彼らにはまことの王である神がおられたのです。つまり彼らは、神を王としてあがめ従うということに欠けていたのです。

 肝心の時に神に祈ることのできるのはなんと幸いでしょうか。その恵みを用いないままにいないようにとの促しを受けています。

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2011-2018© Hiroshi Yabuki