哀歌 5章
6月もきょうで終わり。夏至を越えて昼がこれからは少しずつ短くなっていきます。まだ夏はこれからだというのに…、何となく寂しく思います。
哀歌は終章。ここでも作者はエルサレムの惨状を訴えます。しかし彼は、惨状の責めを誰かのせいにはしません。それを端的に表しているのが「私たちが罪を犯したからです」という16節のことば。何の弁解をすることなく、誰かに責任の一端があるとも言いません。
罪を犯したアダムに、神が「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われたとき、彼は「あなたがわたしの側に置かれたこの女が、あの木からとって私にくれたので、私は食べたのです」と答えたようなことを、私たちは常日頃するのです。
それは、別の見方をするとボロボロになっていながらも、言い訳や責任転嫁で自分はまだまだだいじょうぶだとして切り抜けようとしている姿です。それは「私(たち)が罪を犯したからです」と告白することとは大きくかけ離れています。
きょうの「みことばの光」は「放蕩息子」(ルカ15章11−32節)のことに触れています。 自分には本当の意味での希望がないと認めるとき、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください」との祈りが出てくるのだと思いました。
「帰りたいのです」ということばがその人の口から出ることを、天の父はどれほど待ち望んでいることでしょうか。