みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

帰りたいのです

2017年06月30日 | 哀歌

哀歌 5章

 6月もきょうで終わり。夏至を越えて昼がこれからは少しずつ短くなっていきます。まだ夏はこれからだというのに…、何となく寂しく思います。

 哀歌は終章。ここでも作者はエルサレムの惨状を訴えます。しかし彼は、惨状の責めを誰かのせいにはしません。それを端的に表しているのが「私たちが罪を犯したからです」という16節のことば。何の弁解をすることなく、誰かに責任の一端があるとも言いません。

 罪を犯したアダムに、神が「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われたとき、彼は「あなたがわたしの側に置かれたこの女が、あの木からとって私にくれたので、私は食べたのです」と答えたようなことを、私たちは常日頃するのです。

 それは、別の見方をするとボロボロになっていながらも、言い訳や責任転嫁で自分はまだまだだいじょうぶだとして切り抜けようとしている姿です。それは「私(たち)が罪を犯したからです」と告白することとは大きくかけ離れています。

 きょうの「みことばの光」は「放蕩息子」(ルカ15章11−32節)のことに触れています。 自分には本当の意味での希望がないと認めるとき、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください」との祈りが出てくるのだと思いました。

 「帰りたいのです」ということばがその人の口から出ることを、天の父はどれほど待ち望んでいることでしょうか。


ジャッカルさえも

2017年06月29日 | 哀歌

哀歌 4章

 哀歌は3章を挟んで再びエルサレムの惨状を描写します。それは、第三者としてではなくて惨状の最中にいる者の一人として描いているのです。

 この章の前半は飢えに苦しむ人々の姿です。バビロン軍は攻略の前およそ1年半にわたってエルサレムを包囲しました。そのためにエルサレムを極度の食糧不足が襲いました。「ジャッカルさえも…」とあります。獰猛(どうもう)な生き物の代名詞のように言われるジャッカルでさえも我が子には乳を飲ませるのに、エルサレムの母親は自分の幼子に何も与えられず、それどころか考えられないことさえするのです(10節)。

 難攻不落と称されたエルサレムは、バビロンに、いや、バビロンを用いた主のさばきによって落とされてしまいます。

 この章の後半は民を導くべき預言者や祭司など指導者への責めのことばです。彼らは神のことばを語らず、民の罪を正しく責めることをせずに、保身のために自分の心のままを語りました。祭司は、主なる神へのあるべき礼拝を導くことをせずに、偶像に仕えさせたのです。こうなってみて、人々はやっとこれら指導者たちの本質に気づくのです。15節の「あっちへ行け。汚れた者」とは彼らに投げかけられた非難のことばなのでしょう。

 「みことばの光」はこのことに触れて、もしも預言者や祭司が自分たちの役目を果たし、神のみこころを人々にまっすぐに伝えていくのならば、民を神のもとに導くことができると書いています。

 何を聞きたいのか、何を語るべきか、そしてどう生きるかが問われています。

*ルター記念碑(ヴォルムス)


贖ってくださった

2017年06月28日 | 哀歌

哀歌 3章40−66節

 哀歌は題名が示すように、エルサレムが無残にも破壊されていくのを嘆く哀しみの歌ですが、それは神への祈りでもあります。ここを次のように分けてみました。

1.悔い改めの祈りを呼びかける(40−45節)、2.絶望の中での祈り(46−54節)、3.救いを求める祈り(55−58節)、4.敵へのさばきを求める祈り(59−66節)。

 惨状の中で、主のいつくしみに期待する作者は、悔い改めるよう呼びかけます。40節の「私たちの道を尋ね調べて」の「私たち」とはエルサレムのように思います。作者が絶望的とも思える中で主の恵み、あわれみ、いつくしみに希望を抱いたように、その希望を持つようにと呼びかけるのです。暗やみの中にいて、一人が神にある希望を持つならば希望は広がっていくということを思わせる、呼びかけです。

 エルサレムの破壊が自分たちの罪に対するの神のさばきであるゆえに、祈りの先に来るのは神への悔い改めです。「私たちはそむいて逆らいました」と神に祈るのは、神の赦しを信じるからです。

 この中で、「主が私のいのちを贖ってくださいました」ということばに目が留まります。彼は、神がこのような者たちをいつくしみあわれんでくださると強く確信しているゆえに、「贖ってくださいました」とすでに起こったこととして祈るのです。そして、この祈りは数十年後に神の答えを賜ります。祈ったらすぐに答えてほしい、長くとも一年のうちに…などと心に思うことがあります。しかし、数十年、いや数百年後に祈りが答えられたということもあるのだということに気づかされます。きょうの「みことばの光」の勧めには、「神に願い求めることを手放してはいけない。たとえ今はその結果を見ることができなくても、祈る資格がないと自覚していたとしても」とあります。


主はいつくしみ深い

2017年06月27日 | 哀歌

哀歌 3章19−39節

 月曜日午後、ヴォルムスを訪ねました。さわやかな青空の下、ルター記念像、いくつかの教会を訪ね、街歩をして来ました(美味しいケーキ付)。

 1521年に、ここで開かれた帝国議会で自説を撤回するかと求められ拒んだことから教会から追放されることになるという、ルターが大きな転機を迎えた場所です。ルターはここで次のように語りました。終わりの部分ですが…。「…私は教皇も公会議も信じないからです。それらがしばしば誤ったし、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン。」(徳善義和「マルチン・ルター 生涯と信仰」より)

 「みことばの光」はこの箇所について、「哀歌の中で異色の内容」だと書いています。

 希望が絶え果てたような嘆きの中にあって、「私の誉れと、主から受けた望みは消え失せた」と嘆いた作者が、ここでは「私は待ち望む」、「私は主を待ち望む」、「主を待ち望む者」、「希望」ということばを用いています。彼が希望を見いだしているは自分たちの中にではなく、主おひとりになのです。「主の恵み」、「主のあわれみ」「主はいつくしみ深い」、「主の救い」、「主は豊かな恵みによってあわれんでくださる」ということばがそれと語っています。

 けれども、これほど厳しいさばきを体験している作者は、一体どこに主のいつくしみを認めているのだろうかという疑問も湧きます。主はこれまでにどれほどいつくしみ深かったのか、それは彼の人生においてだけではなく、イスラエルの民の歴史を顧みての結論だったと思うのです。だから、作者は惨状を目の前にしながらも、そこに主がいつくしみを施してくださると期待したのではないか、と考えるのですが…。

*写真はMagnuskirche(マグヌス教会)の内部です。


しあわせを忘れてしまった

2017年06月26日 | 哀歌

哀歌 3章1−18節

 借りている芝生が今ひとつ元気がないので、ホームセンターで芝生用の肥料を買い求めて蒔きました。少し経つと驚くような変化が! 蒔いたところの芝は色も違い青々と茂っているではありませんか。蒔かなかった芝との差は歴然。芝の伸び具合にも大きな差があるのです。

 きょうの箇所には、「何も良いことがない」どころか、「悪いことだらけ」が並べられています。神を信じる者が普段に使うのは、「いろいろ大変なことがあったけれども、神さまが助けてくださった」とか「神さまが私のために道を開いてくださった」と、自分に起こった出来事を括(くく)ることができることばです。

 ところが、ここにはそのようなことばが一つもありません。むしろ、「主は私の祈りを聞き入れず…私の道を切石で囲み、私の通り道をふさいだ」とか「主は、私の道をかき乱し、私を耕さず、私を荒れすたらせた」などと嘆いているのです。逃げ場がないほど追い込まれている…、しかも追い込んでいるのは神なのです。「私はしあわせを忘れてしまった」ということばが心に突き刺さります。絶望的なことばです。

 ここにある嘆きや悩みの告白は、哀歌全体の中で考えるならば、作者の個人的なことではありません。目の前に広がる真っ暗闇の情景が自分への主のさばき、主の怒りとして受け止めているのです。世の中が悪い、私には責任はないなどという逃げ口上ではなくて、「私が罪を犯しました」と告白するのです。

 「これが、社会的な不信を引き起こしたのであれば、反省しなければならない」という政治家の決まり文句を聞きながら、どこかおかしい何かが変だと思っていましたが、それは反省の弁では少しもないのだということに、この箇所を読んで気づきました。


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