みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

節目のささげ物

2011年02月28日 | 民数記
民数記28章1-15節

 「2月は逃げる」というように、あっという間に月末です。
購読している新聞の有名なコラム欄では、毎月末にその月の「名言」「迷言」を紹介しています。そのコラムの冒頭にあったことばが心に留まりました。
「10年後には日本のように、自由と民主主義と教育がある国に」(朝日新聞「天声人語」より)
エジプトの23歳青年のことばだそうです。
日本はこう見られているのだと、はっとさせられました。
 たくさんの罪や失敗を重ね、犠牲を払って得た自由と民主主義と教育とを、自分は大切にしているのだろうか…と。

忘れかけている大切なものに気づかされた一言です。

 「みことばの光」本日のタイトルは、「節目のささげ物」。
 日ごとに、安息日ごとに、そして月の変わり目ごとに、神にささげ物をささげるようにという、教えです。
 確かに「人間は日々罪を犯す者であり、日々贖いを必要とする」のです。神の恵みを日々ゆたかに受けながらも、忘れやすいのです。だから、節目のささげ物をささげて、自らの罪を思い、それを全く贖われた主イエスの十字架を、神の恵みを思うのですね。 

冷たい雨の関東地方です。


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あなたの民に加えられる

2011年02月27日 | 民数記
民数記27章

 午後に高齢者のショートステイ先を訪問。聖餐を共にしました。
その方がおられる部屋に近づくと笑い声が…。部屋には見慣れないお年寄りの方もいます。次から次へと訪問者が来るのです。さあ、何がこの部屋で起こっているのでしょう?

 1歳と3歳の子どもが遊びに来ていたのです。
 「かわいいねぇ」「いいこだねぇ」「はい、握手」
 子どもの力を思いました。
 
 高齢者の方がこんなにも小さな子どもの訪問を喜んでくださるのだ! 普段の高齢者の施設は静かで、テレビの声ばかりが目立ちます。
こんな賑やかさだったら、大歓迎なのでしょうね。

 民数記27章には、モーセの死の予告と、後継者ヨシュアの任命の記事があります。
 モーセは山上から約束の地を見ることは許されますが、目前にして主の名によって「あなたの民に加えられる」(死ぬ)のです。「みことばの光」の「そこに神のあわれみがあり、同時に神の厳しさもあった」とのことばに目が留まりました。

 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」ヘブル11章13節

 日曜日をどのようにお過ごしになりましたか。


 

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割り当て

2011年02月26日 | 民数記
民数記26章35-65節

 4月頃を思わせるの暖かさの後、昨晩は強い風が吹き荒れていました。
 きょうは、モアブの草原での人口調査の後半を読みます。人口調査の目的の一つは、カナンの地の割当です。

 割当てるとか分けるのというのは難しいことですね。
 子どもが4人いて、いただいたドーナツが3個。さあ、どうやって分けましょうか、などとちょっと頭を悩ませたという経験もあるでしょう。我が家には「わたし、ちいさいのでいい」と他の兄弟に気配りをする子どもがいたなぁ、と思い出しました。

 「みことばの光」には「『名の数に従って』、『登録された者に応じて』、『くじで割り当て』、『くじによって』という表現に、正義、公正、公平に満ちた神が神の民に父と蜜の流れる地を分配される事実を見る」とあります。
 26章の終わりの部分には、シナイの荒野での1回目の人口調査の際に登録された者は、カレブとヨシュアの他にはだれもいなかった、とあります。
 読む者の心を探るような、神の義と愛を改めて思わせる記事です。

 よい週末を!


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人口調査

2011年02月25日 | 民数記
民数記26章1-34節

 昨日は我が県の公立高校入試の合格発表日。掲示板に自分の番号を探しての一喜一憂が見られたことでしょう。

 ラジオのニュースが報じる、クライストチャーチ地震での行方不明者のお名前。
「…19歳、…19歳…」ということばに、将来がありこれからという方々が何とか無事でいてほしいと願い、神に祈ります。

 映画の終わりの「エンディングクレジット」では、一つの映画作品に携わった一人ひとりの名前が表示されていきます。途中で立ち上がってしまう観客には、「最後まで観て!」と、心でいつも叫んでいます。
 これが結構、楽しみなのです。
 洋画(古いですね)の場合は、「日本人の名前がないかな」「スタントマンは何という名前の人」…、と探してみます。
 この頃はNGシーンをエンディングクレジットの際に見せてくれる映画もありますので、やっぱり、最後まで観ないと…。

 民数記26章には、神がモーセとエルアザルに命じられた人口調査のリストが書いてあります。
きょうはそのうちの、ルベン、シメオン、ガド、ユダ、イッサカル、ゼブルン、マナセ部族について。
「みことばの光」には、「心痛むダタン、アビラム事件も記される」、また「…エルとオナンも恐らく警告のしるしとするために記録された」とあります。
 聖書には各所に系図、人の名前が登場します。だれかが、「これは格好悪いので、カット」などと編集することなく、悪を行った人の名前も出て来るのが、聖書の人名簿の特徴なのかもしれません。
 人間のありのままの姿を、一見無味乾燥に思えるリストから読むように、そこから自分を見るようにと、神が教えておられるのだと思います。

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試みに会わせず(ふたたび)

2011年02月24日 | 民数記
民数記25章

 昨日午後は「みことばの光」5月号の出張校正ででした。東京王子の印刷会社のレトロな雰囲気の部屋で印刷前の原稿をチェックします。緊張の時です。なぜなら、ここで間違いを見落としたら、そのまま印刷され出版されてしまうのですから…。
 でも、個人的にはこの雰囲気が好きです。「見つけた!」(間違いを)
 これが喜びになるのですから、不思議ですねぇ。

 さて、バラムは神のところへではなくて「自分のところへ帰って行った」と、昨日書きました。
「モアブの娘たちとの淫行事件」には、あのバラムがからんでいるのです。
 主はイスラエルの民の側にいて、「まぎらわしい占い師」をさえ用いて祝福しておられるのに、肝心要のイスラエルは約束の地を目前にして心が緩んでしまったのか、敵の策略にまんまと引っかかってしまったのです。
 神の怒りはイスラエルに対して燃え上がり、二万四千人が神罰で死んだとあります。

 このような記事を読むと、「神は厳し過ぎるのでは」との声も聞こえてきそうですが、「みことばの光」に「主は、救い出した神の民に、排他的な誠実、礼拝、奉仕、愛を求められる」とあります。
 「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
  心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
                            申命記6章4、5節
 
 神が祝福をお与えになる民であるからこそ、誘惑も攻撃も大きい。だからこそ、流されることなく「試みに会わせないで、悪からお救いくださいと祈り、主に守っていただく必要がある」のですね。

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