みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

牧場の羊の祈り

2020年03月31日 | 詩篇

詩篇 79篇

私たちは あなたの民 あなたの牧場の羊です。   私たちは とこしえまでもあなたに感謝し   代々限りなく あなたの誉れを語り告げます。」詩篇 79篇13節

 きょう、3月31日は日本では年度末にあたります。今のような事情の中で、資金繰りに苦しむ多くの企業や事業主があることでしょう。一方で、明日から入学、進学、就職と新しい環境に入ろうとする人もいます。このように書きながら、自分の小学校、中学校、高校、そして大学入学、就職、神学校、結婚、開拓伝道など、人生の節目について思い巡らしてみますと、頭の中にいろいろな場面が浮かんできます。あなたはいかがですか。

 詩篇79篇の背景は、都エルサレムの崩壊という出来事です。紀元前6世紀初めに起こったバビロンによるエルサレム破壊との結びつきがあります。5節の「主よ いつまでですか」は、エルサレムの惨状を目の当たりにしている作者が、その出来事が神の怒りによるものだと受け止めているゆえの訴えだということがわかります。

 2020年は未知のウィルスによる脅威で開けました。それは今なお終息の兆しが見えません。この詩篇の文脈を離れますが、この「主よ いつまでですか」ということばをもって多くの信仰者が祈っているのではないでしょうか。しかし、それは絶望の叫びではありません。「みことばの光」は、「このように祈ることができるのは、信仰が萎えていない、いやむしろ生きて働いているしるし」だと書いています。

 多くの詩篇では、詩の初めと終りとで全くトーンが異なっているということがあります。本篇もそうです。惨状を描写して始まったのが、終わりには神への感謝と神の誉れを語り告げるという希望に満ちた決意へと変わっています。ここに、神に信頼する者の「強さ」を見ます。それはその人の強さではなくて、弱く小さな者として神に訴え出た者のうちに神が与えてくださる希望という強さではないかと思うのです。

 「主よ いつまでですか」と、主によって養われる牧場の羊として祈ろう、今こそ、…と願うのです。


全き心で牧する

2020年03月30日 | 詩篇

詩篇 78篇40−72節

彼は 全き心で彼らを牧し   英知の手で彼らを導いた。」詩篇78篇72節

 日曜日からヨーロッパは夏時間。日本との時差が7時間になりました。でも、わが家の時計はすべてが「電波時計」ですので、朝起きてみたら夏時間で時計の針が動いていました。前の晩から1時間早く朝の6時を刻みましたので、確かにちょっと寝不足…のような気がします。

 本篇は、荒野の旅からダビデ王時代までを回顧しています。なぜ、ヨセフの子孫ではなくユダの子孫のダビデが王となったかについて、その理由もこの部分から知ることができます。ちなみに本篇の最初に出てくるアサフは、契約の箱をダビデの町に運んだのをきっかけに、ダビデが主に賛美をするために結成を命じた聖歌隊の長でした。⇒歴代誌第一16章

 本篇では決まったスタイルが繰り返されています。それは、イスラエルの民の不信仰 ⇒ 神の怒りによる災い ⇒ 神の赦しと救い です。この箇所でもこの繰り返しが見られます。そして、本篇の結論部分では、ユダ部族のダビデが王として治めているのだと謡います。

 けれども72節は、ダビデの子孫としておいでになったイエス・キリストにおいて完全に実現しました。ご自分の民を羊の群れのようにしてエジプトから連れ出された神と52節にあるのですが、私たちも罪の奴隷から約束の地へと連れ出されたのです。

 イエス・キリストという良い牧者に飼われ、養われ、育てられている幸いを感謝します。


後の時代に語り告げること

2020年03月28日 | 詩篇

詩篇 78篇1−22節 

それを私たちは 息子たちに隠さず   後の時代に語り告げよう。主の誉れを   主が行われた 力ある奇しいみわざを。」詩篇78篇4節

 当地では、食料品などを扱っているスーパーの他の店はすべて閉店しているので、代わりにネット通販を利用する人が増えています。私もある物を注文し、ホームページで追跡してみますと今日中に配達する予定となっていました。あきらめていたら、夜9時過ぎに届けてくださいました。ありがたい! 配送してくださる方々はどれほど忙しいことでしょう。

 1−8節には、この詩篇がなぜ詠まれたかについての理由が記されています。作者はここにあることを次の世代に隠さずに語り告げようとしているのです。それは、作者が親から聞き、親もまたその親から聞いて…というように、代々語り伝えられてきたことでした。

 内容は、主なる神の誉れ、主が先祖たちになさった奇しいみわざです。そして、9節以降にあるのは、出エジプトの体験です。しかし、ここにあるのは先祖たちが立派に歩んだという成功談ではありません。むしろその正反対のこと。

 8節には、自分たちの先祖たちの罪が明かされています。強情で神に逆らい、信仰が定まらずに神に従うことができなかったとあります。しかし、ここにあることばに対して、「私はそうではない!」と胸を張って言うことができない自分がいることに気づかされます。

 語り告げるべきは、主の誉れ、主が不信仰な者をあわれんでなさった奇しいみわざなのです。


静かに考えます

2020年03月27日 | 詩篇

詩篇 77篇

 「私は あなたのなさったすべてのことを思い巡らし あなたのみわざを 静かに考えます。」 詩篇77篇12節

 あれほど飛行機雲が縦横に描かれていたのに、今空を見上げてもほとんど見られません。公園を散歩しながら、こんなにも飛行機の運航が減ったならば大気に変化があるのかもしれないなどと考えました。

 本篇は,叫びから黙想へと変わります。

 原因は明らかにはされていませんが,作者は大きな苦難に遭っていました。このような時,彼は神に祈るのですが,同時に「私のたましいは慰めを拒んだ」のです。

 一方的に神に窮状を訴え,あれこれ思い巡らす中で彼は、神は私を拒んでいる、神の恵みが尽きたのではないか、神はお語りにならなくなったのでは…,いつくしみがなくなった,あわれみを閉ざされたなどと煩悶します。

 われを失い神に自分の思いをぶつけているならば、やがて神は自分を諭し,正しい理解へと導いてくださるということを、この詩篇から教えられます。それは,自分を神がこれまでどのように導かれたかを思い起こすことで、さらに、聖書が記す神のみわざをたどることによってです。

 「我に返る」とは、そのようなことではないでしょうか。


恐ろしい神

2020年03月26日 | 詩篇

詩篇 76篇

 一緒に集まることができないので、会議ソフト・アプリを用いての祈祷会をしました。三つの場所から5名が参加しましたが、私たちは別々の部屋にいました。仲が悪くなったからではなくて、試してみようとの理由から、…です

 この詩篇からは、神は恐ろしい方であると知らされます。南王国ユダのヒゼキヤ王の時代に、アッシリアがユダに攻め入りエルサレムを包囲した時、アッシリア王は「おまえたちの神がおまえたちを…救い出すことができるとでも言うのか」と神をそしりました(歴代誌第二32章14節)。それはまるで、「おまえたちの神はどこにいるのか、いないではないか」と言うかのようでした。

 本篇は、そのようにして神をあざける者たちへの神からの明確な答えだと考えることができます。ヒゼキヤの祈りをお聴きになった神は、アッシリアの大軍を一夜のうちに無きものとされました。3節の「神はそこで、弓の火矢を砕かれる。盾と剣も 戦いも」はその時と重なるようです。

 しかし神は、ご自分の民には常に甘く柔らかく対処されるお方ではありません。エルサレムはやがてバビロンによって破壊されます。当時の指導者、人々の中には、神はヒゼキヤ王の時のように自分たちを守ってくださるから大丈夫、という慢心があったのかもしれません。しかし、そのようなことは起こりませんでした。

 高ぶることなく、神の前に「貧しい者たち」であることを常におぼえよとの促しをここから得ます。


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