みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

考えると不思議…

2012年02月29日 | 申命記
申命記29章


 4年に一度の「うるう日」、関東地方は雪景色です。Photo_2
 朝のラジオで「夫は2月29日生まれ。今年でやっと19歳だと言っています」とのお便りを紹介していました。さて、この方は実際には何歳なのでしょうか?

 昨日は「園芸福祉士」の話を聞いてきました。障がいのある人々の就労や訓練と農業、高齢者と農業をつなげようとしているNPOを運営している方でした。とても興味深い話。講演会の後はうどんの昼食会。借りている農地で栽培した小麦で作ったうどんで、たいへんいいお味でした。

 申命記29章には、立ち止まって考えると「おやっ?」と思うことばがいくつか見られます。

 「あなたがたが身につけている着物はすり切れず、その足の靴もすり切れなかった」ということばからは、主はマナやうずらだけでなくて、着物や靴のひもにも不思議を行なって、イスラエルの民を守られた、ずっと守られたのだということを改めて発見。

 「…ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない」ということばは、「イエス・キリストの十字架は2000年前のことなのに、それがどうして私と関係があるの」という問いへの答えなのだと、納得。

 「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは…」ということばは、すべて理解しなければ信じられないと立ち止まったり、理屈をこねたりするときに、天から差し込む光のようなものだと考えることができました。

 次の「うるう日」、さて自分はどこで何をしているのだろうか、と一瞬考える朝でした。






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絶望が希望に

2012年02月28日 | 申命記
申命記28章58-68節


 昨日のブログの聖書箇所が間違っており、失礼いたしました。もう一日、28章を読むことになっていたのですね。

 火曜日と金曜日朝5時半から早朝の祈祷会に参加しているのですが、この頃は5時半になると東の空がうっすらと明るくなっているのですね。毎年繰り返されることですが、今朝は、まるで人生で初めて体験した時のような新鮮な感動がありました。お祈りが終わると、すっかり明るくなっていました。

 続けて、「のろい」の警告が続きます。
 心に留まったのは、「朝には、『ああ夕方であればよいのに』と言い、夕方には、『ああ朝であればよいのに』と言う」とのことば。心が恐れる恐れと、目が見る光景があまりにもむごたらしいゆえに、今が早く過ぎてほしいと嘆いているのです。
 
 今朝の新聞トップに、津波で亡くなった奥様とお孫さんの遺影を枕元に置いて床に就く方の写真がありました。
 その記事は、被災地では「まだ何も話せない」という大勢の人がいるとも報じていました。
 一方、被災地から離れた私たちは、昨年3月11日に起こったことが、毎日次々に来ては通り抜けていく様々な出来事の一つのように心の中での風化が始まっているのではないでしょうか。

 いやなことは忘れたいとはだれもが思います。
 絶望ばかりで何の希望もなければ、一刻も早く嫌なことは忘れたいと思うでしょう。
 けれども、絶望の先には間違いなく希望があるとするのであれば話は違います。

 数日来読んで来た「のろい」の警告の先には希望があるのでしょうか。
 「みことばの光」が書くように、間違いのない希望があるのです。
 やみの向こうに光が輝いているのです。

 
 

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ブレーキが効かなくなって

2012年02月27日 | 申命記
申命記28章38-57節


 通っている教会では、「みことばの光」日曜日の箇所から礼拝宣教をすることにしています。
 昨日の礼拝での聖書箇所。朗読者はさぞかし大変なことだったでしょう。後でご本人に聞きますと、読んでいるうちに気持ちが沈んできましたとおっしゃっていました。
 いや、そうでしょう。「のろい」「のろわれる」…と続くのですから。
 この箇所の「祝福」の約束の5倍の分量を「のろい」の警告に費やしているといわれます。

 きょうも「のろい」の警告が続きます。
 アブラハムへの「空の星のようになる」との約束が、ここでは「少人数しか残されない」となり、「しあわせになり、ふやすことを喜ばれた」主が「滅ぼし、根絶やしにすることを喜ぶ」というのです。
 このような聖書箇所を読むと、何とひどいお方なのだろうなどという「抗議」が神に向けられます。けれども、責められるべきなのは神ではなくて、イスラエルの民であり、私たちであり、私なのです。
 
 先週金曜日に南相馬市を訪ねた道を、仕事をしていた時に何度か通ったことがありました。
クリスマスを前にした夕方、峠を下る道をドライブしていた時です。雪道でブレーキを踏んだらスリップしてしまいました。見る見る間に前のトラックに迫っていきます。とっさにブレーキペダルを緩めてギアを落としましたら、ブレーキが効きました。危ない所で事故を免れたのです。
 「みことばの光」には「神のブレーキがはずされると、人の罪はどこまでも増大する」とあります。そしてその行き着く先は破滅なのだということを、28章ははっきり示していると思いました。神のみことばによらない生活は、ブレーキが壊れた車を運転するようなものだとは、ほんとうにそのとおりだと思います。
 
 だからこそ、キリストが私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださったことに、どれほど感謝してもし尽くすことはできません。

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祝福される

2012年02月25日 | 申命記
申命記28章1-14節


 昨日は、福島県南相馬市を訪ねました。
 原町聖書教会に伺い、石黒牧師ご夫妻としばしの時を過ごすことができました。
 この教会は福島第一原発から22キロに位置し、避難区域のすぐ外にあります。Photo_2

 写真は警戒区域の境目にある検問所です。
 
 「何だか、初めてあったような気がしませんねぇ」と話すほどに親しく接してくださいました。
 いつも思うことですが、クリスチャンはどこかでつながっているようで、互いに初対面なのですが、この人を、あの人を知っているということになりました。
 「そういえば、『みことばの光』の編集者も同じ名前の方ですね」とおっしゃいましたので、「それは私でして…。」大笑いしました。
 聞けば、先生も教会のみなさんも「みことばの光」で聖書通読をしておられるとのこと。ありがたいことです。こちらが大いに励まされました。

 先生は、津波被害に遭った区域を案内してくださいました。
 建物や車ががれきの山となった場所も、一年近く経ってほとんど片づけられていました。しかし、ガランと何もない土地を眺めると、かえって被害の大きさが迫ってきます。

 28章は、「祝福とのろいの章」です。祝福の鍵は主のすべての命令を守り行なうことであり、そうしなければのろわれるのだと、明白です。ここで約束されている祝福は、気持ちや心の面での満足とか喜びということだけではなく、生活の隅々に及ぶのです。
 これを読むならば、だれもが「祝福を選びます!」と答えます。けれども、現実にはだれもが「のろい」の道をたどるようになっているというのが、私たちの問題なのだということに、この章を読み進めていくときに気づかされます。



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アーメンと言いなさい

2012年02月24日 | 申命記
申命記27章


早朝の祈祷会を終えて、福島への途中のパーキングエリヤで朝ごはんを食べています。
久しぶりのコーヒーショップでの朝食。ご飯というよりも、ブレックファーストと言ったほうが似合いそうです。

今日の箇所に繰り返されているのは、「…のろわれる。民はみな、アーメンと言いなさい」ということばです。
レビ人の呼びかけのことばに、民が「アーメン」と唱和する様はどんなであっただろうと想像します。

しかし、民の「アーメン」は虚しいものとなるのが、このあとの旧約聖書の記述が証します。
「みことばの光」が書くように、律法を守ることによって神の義を得られるものは一人もいないのです。

改めて、主イエスが木にかけられて私たちを律法ののろいから贖い出してくださったことを、私たちののろいをご自分の身に負ってくださったことのありがたさを、心に留めることができました。
感謝です。

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