みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

霊的口座

2020年02月08日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 4章10−23節

 市内の博物館、美術館などの年間パスを持っているので、昨日用事の帰りに利用しました。二箇所訪問したのですが、もちろんどちらも無料。初めの所は、私たちにはちょっとよく分からない展示だったのですが、二箇所目は興味深かったです。けれども、とても一回では無理。ついでの折に、何回かに分けて訪ねることにしました。

 ピリピ人への手紙の終りの部分。ここには、パウロを支援してきたピリピの教会への感謝と願い、そしてあいさつが述べられています。

 ここから分かるのは、最初の頃ピリピの教会はパウロの働きを支えようと、たくさんの贈り物を届けてくれていました。パウロはそのことを感謝しています。けれども10節を読むと、ここしばらくはそのようなことが途絶えていたことが伝わってきます。そして、今もう一度自分を支えようとの思いがピリピの人々の間によみがえってきたことを喜び、感謝しています。

 しかし、パウロは経済的な支援を受けることだけを求めているのではありません。彼は与えられるもので満ち足りる生活をすること学んでいると書いています。それは、裏を返すと経済的にはたいへんだけれども、大切なのは経済的な必要がふんだんに与えられることではなく、どのような境遇に対処する秘訣を心得ていることだと言っています。

 心に殘るのは17節の「霊的口座に加えられていく実」ということば。以前の翻訳では、「あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福」とありました。霊的口座があるのだ…、神の働きをする者のために支援するというのは、霊的口座に実が加えられていくことなのだというのです。パウロはここで、自分の働きのためのささげものについて遠慮していません。むしろ、積極的にささげるように勧めます。それは、その富は自分のためのものではなくて、教会のかしらなるお方にささげられるものだからです。 

 人間的な遠慮が神のダイナミックな働きを妨げることになるではないかと、思うのです。

 


主にあって

2020年02月07日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 4章1−9節

 聖書を読むために来た方が、手作りのタルトを持ってこられました。読み終えた後、コーヒーといっしょにいただきました。その美味しいこと! さくさくとしっとり、バランスの良い甘さを楽しめます。アーモンド・プードルの風味も…。「食レポ」のようになってしまいましたが…。

 4章2節から3節に、二人の女性の名前が出てきます。二人の間には「同じ思いになれない」人間関係の課題があったようです。パウロがこの手紙を書いた理由の一つには、二人の間に和解が訪れるように…という強い願いがあったのかもしれません。いや、パウロは二人の問題はピリピ教会全体の課題を象徴しているとして、この問題の解決を図っているのです。

 パウロはここで、二人がなぜ一致できなかったかとか、どちらが悪いとかいうことには触れていません。ただ、「主にあって同じ思いになってください」と勧めています。「同じ思い」ということばは、すでに2章2節や5節にも出てきました。考えてみますと、人はそれぞれ姿形も心に思うことも違います。そのような者がいっしょに歩む、生きるのは簡単なことではありません。自分の思いを通そうとするとたちまち違いが、仲たがいが生じます。

 教会の人たちはみんな思いを一つにしているように思われるし、自分たちもそのはずだと考えているようですので、「理想」と「現実」の差に驚くようなことも多いのではないでしょうか。

 「主にあって同じ思い」ということばを心に留めました。この手紙でパウロは、危機の中にあった教会にキリストを知るように、キリストを見上げるようにと勧めてきました。ここでも「主にあって」、「キリスト・イエスにあって」を繰り返します。そのように見ると、4節の喜べとの勧めは、人と人との不一致の解決と無関係ではないように思えてきます。

 互いに相手を見て責め合うのではなくて、視線を上に…と促されているようです。


待っているものを見据えて

2020年02月06日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章12−21節

 当地では林檎を安く買い求めることができます。10個以上入った林檎が日本円で200円弱で売られていたので買い求めました。帰宅して食べてみると、大当たり! 立派な形はしていませんが、甘みと酸味が程よく調和し、食感も好みでした。

 3章後半でパウロは、自分の証しを交えて、ピリピの人々に先に待ち構えているものをしっかり見据えて歩むようにと勧めています。ピリピの人々にとって、パウロは自分たち教会の生みの親のような存在であり、信仰者の模範のような存在でした。ここでも「私に倣う者になってください」とパウロはピリピの教会に勧めています。

 それでは、彼らはパウロの何を倣うのでしょう。神が上に召してくださるという賞をいただくために、目標を目指して走っている姿です。彼は現状に安住し、過去を回顧して満足してはいませんでした。11節には、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と書いています。

 この勧めは、ピリピの教会が割礼を強いる偽りの教師たちによって後戻りする危険に瀕していたという事情を考慮したものです。後戻りしてはならない、うしろのものを忘れて、前のものに向かって身を伸ばしと書いています。

 きょうは「前のものに向かって身を伸ばし」ということばが心に留まりました。以前の翻訳では「ひたむきに前のものに向かって進み」とありました。今回の訳は動きが鮮明に伝わってきます。身を伸ばして何を求めようとしているのだろうかと、自分に問うのです。


何を誇るか

2020年02月05日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章1−11節

 昨日から掲載している写真は、近くの公園に咲き始めた花々です。昨日までの数日は暖かく、そのためか花がちょっと顔をのぞかせたかのようです。写真を撮りながら、去年もここで春を発見した…と思い出しました。

 ピリピ人への手紙3章前半の主題は、「誇り」ということばがふさわしいと思いました。パウロがまず注意を促しているのは、悪い働き人に対してです。この者たちは肉体だけの割礼の者とも言われ、「犬ども」と厳しいことばでも呼ばれています。彼らは、ピリピの教会の人々に、イエスを信じるだけでは救われない、律法を守らなければならないと説いて回ったのです。

 パウロは、自分もかつてはその一人だったけれども、今はもう、そんなものは何の価値もないということが分かったと証ししています。彼にとっての大きな人生の転換であり、価値観の転換です。なぜ彼はこれまで大切にしてきたものを「ちりあくた」だと考えるようになったのでしょう。それは、キリストを知ったからです。

 彼は、自分の育ちや行いではなくて、キリストお一人を誇る者となったのです。

 10節の「キリストの苦難にもあずかって」ということばが心に留まります。この手紙は獄中から書かれています。しかし、そのような体験は、キリストを知るようになった、キリストとの結びつきを賜った彼にとっては、むしろたいへん有り難いことなのだとさえ言うのです。信仰を自分の願望の実現のためだと考えるようなこととは全く異なっています。

 キリストお一人が彼の誇りだからです。


こういうわけですから

2020年02月04日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 2章12−30節

 ウォーキングの行き先をお店と定めて出発しました。ところが半分ほど歩いた所で財布を忘れたことに気づきました。途中でUターンして、今度はもう少し近くのお店での買物に出かけました。そのこともあって、一万歩という目標は達成できました。

 パウロがピリピ人への手紙を書き送ったのは、ピリピの教会の中に人間関係の問題があったことが理由の一つです。昨日読んだ2章1−4節の勧めからも教会の課題が浮かび上がっています。そこでパウロが指し示したのは、教会の主であるイエス・キリストのお姿でした。特に、神であられるキリストが人間になったこと、しかも十字架の死に至るまでしもべとして神に従われたと伝えたのです。裏返すとピリピの教会には、キリストのお姿とは反対の生き方をする人々がいて、それが教会を混乱に陥れ、教会の在り方を大きく歪めることになっていたことが分かるのです。

 12節の「こういうわけですから」というつなぎのことばは、キリストがこのようにへりくだられたのだから、神に従順であられたのだからという意味で用いられています。そして、パウロがピリピの教会に願うのは、いや命じるのは、キリストの従順に倣って、あなたがたも従順でありなさいということです。

 「自分の救いを達成するよう努めなさい」とはどのような意味で用いられているのでしょう。パウロは、イエス・キリストを信じて救われた者たちの、つまりそのようにして生まれた教会の成長を促しているのです。前後の関係で考えれば、この13節の勧めは、個人にではなくピリピの教会に宛てられています。「神が…事を行わせてくださる」のだから、「神に従いなさい」と勧めています。

 それによって教会は、この曲がった邪悪な世にあって世の光として輝くのです。パウロは、ピリピの教会がそのようになるのであれば、自分が命を落とすことになったとしても喜ぶとさえ言っています。

 キリストのお姿を日々見させていただくなら、「こういうわけですから」というつなぎのことばの先に、どのような歩みがあるだろうかと考えるのです。


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