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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

霊的な口座

2024年10月18日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 4章10−23節

 昨日は、大聖堂の頂上近くまで初めて昇りました。螺旋階段を延々と昇るのですが、上からの景色は新鮮! この町に来てホームシックになり、高い所に上ってスイスを見たいと思ったハイジを思いました。

 パウロはこの手紙の終わりに、ピリピの教会がパウロの働きのために献金をしてきたこと、今回もエパフロディトがピリピからの献金を携えてきたことへの感謝を表しています。

 10節に「私を案じてくれるあなたがたの心」とあります。それは具体的にはパウロの働きのための献金を指すのですが、パウロはそこにピリピの人々の心を見るのです。

 どのような働きをするにしても、そこには経済的な必要が生じます。パウロは時には、自分で働きのための必要を天幕作りによって得ていましたが、多くは献金によって支えられていました。

 しかし彼は、献金がなければ自分の働きには支障がでるというように考えてはいません。11−12節に目が留まります。「どんな境遇にあっても満足することを学」んだとあり、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている」とも書いています。

 だからといって、献金には頼らないとはパウロは言いません。ピリピの教会が自分の働きのために献金をすることを「苦難を分け合ってくれた」と書いています。献金をするというのは、それによって働く人々を支えるばかりか、いっしょにその働きを分かち持つということだと気づかされます。

 17節に「霊的な口座に加えられていく実」とあります。以前の訳は「あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」とありました。「口座」ということばが新鮮に響きます。口座を持つと残高が気になります。ささげるというのは、口座に実が加えられていくということ、なのです。


主にあって

2024年10月17日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 4章1−9節

 久しぶりの晴れ間がちょっとだけ、の水曜日。日本からのお客様を迎えるために少し部屋を模様替えしました。そうしているうちにご本人からメッセージが…。今は機内でWi-Fiが使えるようになったのですね。14時間半の長旅、本当にありがとうございます。

 2節以降でパウロは、ピリピの兄姉たちへの具体的な勧めを書いています。初めは二人の女性。彼女たちは福音のためにパウロといっしょに戦ったと言いますので、福音を宣べ伝えるため、福音に生きるため、福音を守るために良い働きをしたことが分かります。

 それにしても、パウロのこの手紙が聖書として収められ、数えきれないほどの人々がこの二人の名前を読んだということを、彼女たちは想像もしていなかったのではないかと、想像します。

 もちろん二人はパウロのこの手紙によって、そしてパウロが続けて書いているようにピリピ教会の誰かの助けで、仲介によって和解してまた福音のためにともに戦ったと考えています。二人は苦笑いをしながら、それとともに自分たちのこのような課題さえも、教会を建て上げるために用いられたのだと、心から感謝しただろうと勝手に想像しています。

 この時、二人の間には誰かに助けてもらう必要があるほどの不和があったのです。パウロは二人に「主にあって同じ思いになってください」と書いています。「主にあって」ということがなければ、どこまでも平行線ということです。

 4節にも「主にあって喜びなさい」とあります。「主にあって」が鍵のことばだと思いました。どうしても通い合わないこと、どうしても喜びが湧くはずがないようなことの中で、「主にあって」と受け止める時に、神のみわざが私たちのうちに為されるのです。


確かな望み

2024年10月16日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章12−21節

 以前にも書きましたが、秋も深まる中、道端の野ばらはまだ私たちを楽しませてくれています。それに、同じ通りのいちょうの木から銀杏がぽとんぽとんと落ちているのが見えました。

 3章後半には、「完成を目ざして」、「途上の私」とかいう題をつけることができるかと思います。パウロはここで、「捕らえようとして追及している」と、自分のことを語っています。牢の中にいるのですから、「もう自分の先は見えてきた」といっても仕方がないような環境に投げ込まれているのです。しかし、パウロのことばは希望に満ちています。

 牢獄とは、どこに希望が、ゴールがあるのかと問われても、どうすることもできないと多くの人が答えるような所です。しかし彼は、そこでもなお「目標を目指して走っている」と書いています。それは、彼が決して失われることのない希望を持っているからです。

 21節に目が留まります。キリストは万物をご自分に従わせることさえできる御力を用いて、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださるのです。健康に留意していると言いながらも、私たちの肉体は年齢に抗うことはできません。事実、少しずつ老いていく自分がいます。しかし、そんな私に神は絶大な力を働かせてくださるのだと思うとき、神の大きな愛に包まれている自分を見いだします。

 本章終わりのことばには確かな希望があります。どこを目ざして旅をしているのかを確かめながら日々を生きていくことで、老いることが何の不幸でもないと気づかされます。


最後に

2024年10月15日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章1−11節

 トルコ旅行ゆえに、「みことばの光」左側ページにある「一年で聖書を読み通す」日課が遅れ気味になっています。少しずつ追いつこうとしていますが、「待てよ、量を読めば良いものでもないぞ」というの問いかけも…。でも、まとめて聖書を読むことで得られるものもありますね。

 3章は、「最後に」ということばで始まります。ところが「最後に」は4章8節でも用いられています。「最後に」は、相手に対する思いがこもったことばのようだと思いました。何かこの手紙を終えたくないような、またどうしても伝えたいことがあるというパウロの気持ちを感じることができます。

 ここでの「最後に」のあとでパウロは、「主にあって喜びなさい」と勧めています。すでにパウロは、2章18節で「」あなた方も喜んでください。私とともに喜んでください」と勧めています。

 この手紙の鍵のことばの一つは、「喜ぶ」です。パウロ自身の喜び、そしてピリピの教会にパウロが勧める喜びは、良いことがあったとか欲しいものが手に入ったというようなことによるものではありません。パウロ自身は自分の喜びを、自分のいのちがキリストのゆえにとられることがあっても…と述べています。

 そして彼がピリピの教会に求めている喜びも、それなのです。キリストにある喜び、キリストを信じる喜び、キリストに仕える喜び、キリストのゆえに苦しむ喜び、キリストにある希望を持つ喜びであることが、7―11節から明らかです。

 1節後半の 「あなたがたの安全のためにもなります」ということばに目が留まります。このことばは、主にあって喜ぶことが安全のためになるのか、それともすぐ後に続く、悪い働き人たちに気をつけることを指しているのでしょうか。どちらにしても、パウロはピリピの教会があるべきかたちを失うことがないようにと強く願っているのです。常に途上にある、これが教会のあり方だということも、パウロの証しから教えられます。


大急ぎで…送ります

2024年10月14日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 2章12ー30節

 郵便ポストに親しいお友だちからの封書が…。何かふわふわするなと思って開けてみたら、羊羹!。先日羊羹が売り切れだと書いたのを読んで、送ってくださったのです。びっくりしました。ごちそうさまです。美味しくいただきます。

 キリストを見上げるようにとピリピの教会に勧めたパウロ。今日の「みことばの光」が記すようにピリピの教会にとってパウロの存在はあまりに大きく、それゆえにパウロが遠くローマで捕らわれの身にあることは、彼らを不安にしていました。12節の「…私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい」は彼らにとって重く響くのです。

 信仰者が成長するためには、その人を導く人が必要です。ピリピの教会にとってそれがパウロでした。しかし今、パウロは牢の中。誰が私たちを導いてくれるのだろうかという不安がこの教会にあったことは容易に想像できます。だからこそパウロは「自分の救いを達成するよう努めなさい」と勧めるのです。そのためにも、すでにパウロはキリストのお姿を彼らに示しました。

 頼りにしていた人がいなくなるのは寂しいことであり不安でもあります。しかしそのような時こそキリストに頼って成長する機会にもなります。

 パウロは、ピリピの教会にとっての最善を牢の中から考えました。そして彼は、テモテを、そしてエパフロディトをピリピの教会に遣わすと書いているのです。テモテは、ピリピ教会の現状において、目に見える模範として適任の人物でした。なぜならこの教会は「自分のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めていない」という大きな課題があったからです。

 テモテがパウロにとってこのような存在ならば、エパフロディトは兄弟、同労者、戦友、そしてピリピ教会からの使者でもありました。パウロはすぐにエパフロディトをピリピに送り返すとも言っています。この二人にはパウロにとって必要な器でした。特にエパフロディトは、パウロの元にいる時に死ぬほどの病にかかりました。ピリピ教会はどんなに心配したことでしょう。

 大切な器だからこそ送り出すというあり方、必要です。


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