みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

みごとに実現した後で

2011年06月30日 | 歴代誌第二
2歴代誌7章


 東電の福島第一原発の循環冷却装置が動かしては停止し、また動かしては停止し、を繰り返しています。メディアの大きな関心は政局に移ってしまった感がありますが、多くの方は、特に原発被災地の方は固唾(かたず)を呑んで原発事故の推移を見守っているのです。
 突貫工事で作り十分な試験も経ないで運用した結果、故障しましたということでは、物作りをしている人はくやしい思いをしているのではないでしょうか。「みごとに成し遂げた」と言われないのですから…。

 ソロモンの大事業が完了しました。聖書はそれを「…ソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した」と記します。7年をかけて主の宮を、13年をかけて王宮を建てあげたのです。献堂式では主の宮に主の栄光をが満ち、多くの全焼のいけにえを天からの火が焼き尽くします。「ああ、主はこの宮を心に留めてくださっているのだ!」と、ソロモンはもちろんのこと、献堂式に居合わせたすべての人が感極まったことは間違いありません。
 民も「心楽しく帰って行った」とあります。読む側もうれしくなるようなことばですね。

 しかし、肝心なのはここから。何事かを成し遂げたその時、主はソロモンに契約をを確認させ、警告を与えられます。せっかくの宮を生かすも殺すも、ソロモンをはじめとする民が主に従うかどうかにかかっているのです。

 「心楽しく帰って行った」その先で、私たちがどう歩むのかが問われているのですね。
長いと感じた半年がきょうで終わろうとしています。



 



罪を犯さない人間はひとりもいない

2011年06月29日 | 歴代誌第二
2歴代誌6章22-42節


 ソロモンが主の宮の献堂式で祈ったのは紀元前960年頃、歴代誌が著されたのが紀元前400年代の中頃かと考えられますので、人々はおよそ500年前のソロモンの祈りを歴代誌の朗読によって聞いていたということになります。神殿の再建、そしてそこでささげられる礼拝の再建を目的として書かれた歴代誌ですから、とりわけソロモンが建てた主の宮の献堂式の場面は感動的に受け止められたのではないか、と想像できますね。

 「みことばの光」には「具体的な祈りのケース」として7つのことが取り上げられています。歴代誌を聞いていた人々は、ソロモンが「もし…たら、あなたご自身が天からこれを聞き…」と繰り返される祈りと、500年の間に起こった実際の出来事とを重ね合わせながら、悔しさ、はずかしさ、そして主への恐れと感謝とをもったのではないか、と考えたのです。
 特に彼らの心に響いたのは、捕囚の地から罪を悔い改め主に立ち返って、エルサレムを、この宮のほうに向いて祈るならば、「あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください」という祈りではなかったでしょうか。

 ソロモンは「罪を犯さない人間はひとりもいない…」と祈っています。ソロモン自身の、そしてその後のイスラエルの歴史は、この祈りのとおりでした。
 そして私たちの人生も…。自分のこれまでの歩みを振り返るならば罪と恥のオンパレード、そして都度示された神の数え切れないほどのあわれみ、なのですね。





祈りの家

2011年06月28日 | 歴代誌第二
2歴代誌6章1-21節


 迫力のある祈りがここにあります。
 聖書には多くの人びとの祈りが記されていますが、ソロモンの神殿奉献の祈りを読むたびに、祈りとはこのようなものなのだという思いを新たにします。そして、自分の祈りの貧しさを思うのです。

 7年をかけて建て上げた主の家(神殿)を奉献するときに、建設の中心人物であったソロモン王は自分の業績を、あるいは自分の苦労を一言も語ることなく、すべては主が成し遂げられたことであることを居合わせた人々に宣言し、主に対しては、その偉大さをほめたたえ、自らの小ささを告白し、自分たちの願いを聞いてほしいと祈ります。
 「大変だったのです」とか「みんなでがんばって」とか、少しは自分たちの労苦をだれかに話して苦労が報われると多くの人は思うのですが、ソロモンは徹頭徹尾それを避けています。 

 ここはひとつ、14節から42節までのソロモンの祈りを声を出して読むことをお勧めしたいと思います。ここでソロモンが祈っているのは、すべての主の民の祈りでなければならないことに改めて気づかされるのです。

 また、主イエスが宮で(ソロモンが建てた神殿ではありませんでしたが)イザヤ書56章7節を引用して「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(マルコ11章17節)とおっしゃったことを思い起こします。きょうの「みことばの光」の終わりには、「教会は本来、祈りの宮であることを覚えよう」とあります。その教会で、自分は祈っているのだろうかと問うてみましょう。
 問うだけで終わらずに、祈ります。



二枚の石の板

2011年06月27日 | 歴代誌第二
2歴代誌5章


 日曜日はどのようにお過ごしでしたか。
 今朝、木曜日につけ込んだ「梅干し」の樽をのぞくと、透き通った水が上がってきています。第一段階通過、というところでしょうか。梅干しを作るということ、作ったものを差し上げるということが喜びになっています。楽しみな時期です。

 ソロモンによる主の宮のためのすべての工事が完成し、宮の中心にある至聖所に契約の箱が運び入れられました。長いかつぎ棒でかつがれたのは金の像でも王様でもなくて、契約の箱。そして、箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかったのです。しかし、その二枚の板そのものが宝物ではないのですね。そうであるならば、その後紛失して見つからない二枚の石の板を必死になって捜すでしょうし、見つからなければこの宗教の存続も危ないなどということになってしまいます。
 大切なのは石の板に刻まれた神のことばなのですね。
 「このことは、礼拝の精神を今も伝えていると言えるのではないか」と「みことばの光」にあります。
 礼拝は、ただおひとりの神を愛することと、神がお与えになった隣人を愛することを神の前に心新たにして約束する場でもあるのですね。

 この日も、私たちの主である神からの恵みと平安がありますように。

[ひとこと]
 25日(土)「みことばの光」63頁2行目のキュビトの換算値が新改訳聖書欄外注にある「1キュビトは約44センチ」と合わないとのご指摘をいただきました。これについて執筆者から、キュビトについては「長さは先代の尺度のキュビト」とわざわざ歴代誌の著者が断っているように後代の約44センチではなく、ソロモンの時代には約51.9センチであったことが知られていたとの答えを得ております。
 


場所を定めた

2011年06月25日 | 歴代誌第二
2歴代誌3章


 暑い金曜日でした。隣町では6月の最高気温を更新。39.8度でした。用事があって県庁のある町まで行きました。電車を降りると涼しいと感じましたので、改めてこちらの暑さがどれほどかということを確認しました。
 用事が済んで駅への道すがら甘味店があり、かき氷ののぼりが…。一度通り過ぎましたが、結局は入店。「氷イチゴミルク」で汗をすっかり静めることができました。今年の「初氷」でした。
 今朝は涼風が吹き抜け、朝のウォーキングも気持ちよくできました。大変な場所に住んでいるものです。

 場所といえば、ソロモンが主の家(神殿)を建てたのは、「みことばの光」」にあるように、父祖であるアブラハムが息子イサクを全焼のいけにえとして捧げようとしたモリヤの山であり、父ダビデが罪を犯した時に悔い改めて祭壇を築いた所でもありました。
 神への献身、罪の悔い改めの場所にソロモンは神の家を建てようとしたのです。

 「礼拝において、神への賛美と感謝がささげられ、信仰告白と罪の悔い改めがなされているだろうか」との「考えよう」がありますが、それぞれの地での明日の礼拝が、そのようなものであるようにとお祈りします。



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