みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

こんなに大きな字で

2024年06月15日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 6章

 昨日は年に一度の墓参へ。その方が主の許に召されて8年が経ちました。先月にはお孫さんが赤ちゃんを出産したとのこと。生きておられたら「ひいおばあちゃん」でしたね。

 終わりにパウロは、教会の修復、回復のために、ガラテヤの人々が働くよう勧めます。1節の「もしだれかが何かの過ちに陥っている」とは、不特定のだれかが神のみこころにかなわないことをしてしまったという一般的なものではないように思います。

 この手紙のテーマを考えるなら、そして手紙の終わりに何を勧めるのかを考えるなら、「何かの過ちに陥っている」だれかとは、ガラテヤの諸教会を歩むべき道から逸らしてしまうようなことを持ち込んだ人々に影響された、教会の指導者のことかもしれません(1節の「だれか」は単数形が用いられています)。

 ここでパウロが勧めているのは困難なこと。だからこそパウロは、ガラテヤの人々を「御霊の人々であるあなたがた」と呼びます。あなたがたが「御霊の人々」であることを、過ちを犯した人々が本来の道に戻るため働くことによって示してほしいと、挑戦しているように響きます。

 あの人はとんでもないことをしてしまった、だから私たちとは関係がないとするのはよくあること。繰り返しますが、過ちに陥った人を正し、再び交わりに迎えるのは困難なことです。それは「重荷を負い合う」ことなしには起こりえません。

 「キリストの律法」という2節のことばに目が留まります。「モーセの律法」に対してパウロは「キリストの律法」と呼ぶのです。それは「愛の律法」と言い換えうるものです。パウロはすでに「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです」と書いています(5章14節)。

 手紙の終わりは、パウロの不格好な大きな自筆の文章です。ここに、パウロのガラテヤの諸教会への愛が込められているように読みました。パウロ自身のことばを読んだ彼らは、どんなに励まされ、また喜んだだろうかと想像しながら、本書をひとまず終えます。次は5年後ですね。


愛するために自由を

2024年06月14日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 5章13−26節

 週末から火曜日にかけて出かけますので、木曜日にはいくつかの用件を済ませました。日本への報告、近隣に配っている教会を案内するフライヤー、それぞれを作成しました。教会の案内はA3の大きさに印刷して、隣町の食料品店の入り口に貼っていただいています。

 ガラテヤ人への手紙5章後半には、肉がもたらす行いと御霊がもたらす実とが対比されています。「肉のわざは明らかです」ということばに続き、パウロはさまざまな罪のリストを並べていきます。一方で、御霊の実のリストも並びます。ここを読むと、ある人は「私はだいじょうぶ」と心の中で思うのですが、そうではありません。

 ガラテヤ人への手紙をここまで読んできますと、これらのリストに現われてくる人のわざは、どれもが結果なのだということに気づきます。この手紙でパウロは、肉と御霊とをずっと対比させてきました。

 「肉のわざ」というと、多くの人が顔をしかめるような行動だと考えやすいのですが、ガラテヤの人たちが割礼を受けたり律法を守り行ったするのは、どれもが肉のわざなのだと、パウロは書いてきました。すでにパウロは、3章3節で「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか」と問いかけています。

 13−14節に目が留まります。神の約束を、福音を信じて自由を与えられた人々は、その自由を「愛をもって互いに仕え合うこと」によって、じつは律法を全うすることになるという、驚くようなことが書かれているのです。

 肝要なのは、愛するためにキリストは私たちを自由にされたという目的から目をそらさないこと、なのです。


大事なのは

2024年06月13日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 5章1−11節

 陽射しは強いのですが、空気が冷たいのでどこかひんやりとする水曜日でした。でも服装は半袖に…。「みことばの光」には投稿ページがあるのですが、ちょうどのタイミングでのご投稿が! ありがとうございます。本ブログをお読みの方もご投稿ください。

 信仰のみによって義と認められることについての旧約聖書による論証は5章1節が結論です。キリストは私たちを自由へと解放してくださったのだから、再び奴隷のくびきを負わないように、つまり偽りの教えに惑わされてはならないと、パウロは結論を書いています。

 2節以降でパウロは、具体的な行動として、ガラテヤの人たちに割礼を受けてはならないと勧めるのです。彼は次のように話を進めます。

 もし、ガラテヤの人々が割礼を受けるならば、キリストがしてくださったことは何の意味もないということになる、もしも割礼を受けるならばあなたがたは律法全体を守らなければならない、それは不可能なことだ、その結果、あなたがたは神の恵みから外れてしまうと書くのです。

 そしてパウロは、「私たちも割礼を受けなければ!」と心を騒がすガラテヤの兄妹たちに、大切なのはそのようなことではないと強く迫ります。

 6節に目を留めます。ここに、割礼問題で心騒がす彼らへの最も伝えるべきことばがあります。それは「愛によって働く信仰」だということ。

 これは、1世紀中ごろのガラテヤの諸教会だけでなく、あらゆる時代のすべての地域にある教会に宛てられるべき、大切な勧めです。そしてこれは、この後に続くパウロの勧めの前触れとなります。

 今私は、何を「キリスト・イエスにあって大事な」こととしているのでしょうか。


自由の女の子どもたち

2024年06月12日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 4章21−31節

 日が長くなっていますので、6時過ぎに近くの公園へ。ノルディックウォークをしている人たちとすれ違いました。調べてみると、体の90%の筋肉を使うので普通のウォーキングに比べてエネルギー消費量が二割ほど高くなり、足首や膝、腰などへの負担が軽くなるとありました。私たちのこれからの課題の一つですね。

 パウロは、3章から5章1節までで、キリストの福音を信じて神の義を賜わることの正しさを、旧約聖書を引用して論じています。それは、割礼を受けなければ、律法を守らなければ救われないと説く人々が根拠としている(と考えている)のと同じ土俵の上に立つということです。

 そして、特にパウロはアブラハムの例を挙げていきます。

 本日の箇所ではまず、21節に目が留まります。律法の下にいたいと思う人たち、つまり律法を守ることで神の義を得られると考えている人々に、「あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか」と言うパウロのことばは、ユーモラスに響きます。

 ここでは、アブラハムとの間に子を設けた妻のサラと、女奴隷ハガルを例に挙げています。パウロは、イサクは自由の女サラから「約束によって」生まれ、イシュマエルは女奴隷ハガルから「肉によって」生まれたと比較します。

 そして奴隷の女ハガルと自由の女サラという二人の女性は、二つの契約を比喩していると続けます。一方は、ハガルはシナイ山、さらに今のイスラエルに当たり、律法を行うことによって神の義を得ようとしながらも解放されることのない奴隷であり続けるという姿です。

 しかし、上のエルサレムに通じるのは、自由の女から生まれた約束の子イサクであり、さらにイエス・キリストを信じて神の義、すなわち真の自由を得たガラテヤ人たちよ、あなたがたも神の約束の子どもたちなのだと励ますのです。

 31節の「私たちは…」ということばに目が留まります。「私たち」とはユダヤ人パウロと異邦人であるガラテヤの人々です。パウロはどちらも「自由の女の子ども」なのだと明言します。垣根は主イエスの十字架で壊されたのです。


途方に暮れる

2024年06月11日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 4章1−20節

 月曜日午後、予約をしていた眼科で検査。懸念されていたことではなく安堵しました。今回は通訳のお手伝いをしていただき、とても心強く余裕をもって受診できました。ありがとうございます。

 人は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、律法を行うことによってはなく、福音を信じることによって神の義をいただくことができることを、パウロは自分自身が体験したことから、ガラテヤ人たちが体験したことから、そして旧約聖書から論証してきました。

 そして、3章後半でパウロは、律法が私たちをキリストの導く養育係にたとえました。私が言うのもなんですが、「養育係」とは見事なたとえだと思います。養育係というと優しい印象を持つかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。厳しく子弟を教えたのだそうです。しかし、その厳しさが神の子どもとされるべき人々を、福音へと追いやったとも言えるのです。

 4章前半でパウロは、福音を信じて聖霊によって神の子どもとされた者たちに神が約束された素晴らしい特権を思い起こさせます。そんなにも素晴らしい特権を賜わったのに、なぜそんなにも簡単に養育係のところに戻ろうとするのかと、パウロはここでも嘆くのです。

 20節の「あなたがたのことで私は途方に暮れています」とあります。ガラテヤの人々に、すでにパウロは1章6節で「驚いています」と書き、3章1節では「愚かなガラテヤ人」と嘆いています。それは、福音を信じてせっかく神の子どもとしての立場を得た彼らが、それを捨てようとしているのを心から嘆いているのです。ここにはパウロの、ガラテヤの人々への愛が込められています。

 パウロは今、私たちにどんなことばをかけるのでしょう。


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