みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いつまでですか

2020年12月31日 | 詩篇

詩篇 89篇38ー52節

 この一年、朝食前に読み進めてきたのが「主のよき力に守られて(ボンヘッファー1日1章)」(村椿嘉信訳 新教出版社刊)。D・ボンヘッファーのことばを編纂し、日本語に訳したものです。その最後の12月31日には、タイトルにもなっている「主のよき力に守られて」という詩があります。絞首刑で処刑される4ヶ月ほど前の1944年12月19日に綴られた最後の獄中詩です。昨年から、年の最後の礼拝ではこの詩に基づいた曲を賛美していますが、今年はそこに込められていることばの重さを味わいつつ、心の中で賛美しました。詩の最後の部分だけですが、紹介します。

 主のよき力に 不思議にも守られて
 私たちは来るべきものを安らかに待ち受けます
 神は 朝に夕に 私たちのそばにいるでしょう
 そして私たちが迎える新しい日々にも 神は必ず 私たちと共にいるでしょう

 89篇下段は、詩篇第3巻の最後のことばでもあります。「わたしの契約を汚さない」と語る主のことばを受けて、詩人は「いつまでですか」とすがりつくように祈ります。国が立ち行かなくなる中、諸国に蹂躙(じゅうりん)される様子に耐えられずに彼は、あなたのしもべたちの受ける恥辱をみこころに留めてほしいと祈ります。ここには厳しい現状を目撃しながら、主に思いをぶつける者の姿があります。きれい事ではなくて、ありのままの思いを彼はことばにします。

 それだけ、詩人と神との間は近かったのです。新しい年にも、「神は必ず 私たちと共にいるでしょう」との告白がこの詩人の訴えの土台。52節は、第3巻の締めくくりのことば。何が起こっていても、思わしくなくとも、「主は、とこしえにほめたたえるべきかな」と私たちは神をほめたたえる、のです。

 神にあって希望に満ちた新年をお迎えくださいますように…。


恵みを保つ神の前に

2020年12月30日 | 詩篇

詩篇 89篇19−37節

 久しぶりに中心街に行きました。そこそこ人はいましたが、普段に比べたら少なく歩きやすかったです。今こちらでは、一人3枚ずつマスクが配られます。大通りの薬局に行き、身分証を提示してすぐに渡されました。しっかりしたマスクです。

 89篇中段では、ご自分の民イスラエルと契約を結ばれた神が、契約を誠実に守り彼らを堅く立てられたことが、まず歌われています。神の民を束ねて国を建て上げていくために建てられたのはダビデでした。ダビデは優れた人物で、王としての務めを果たしました。しかしそれを成し遂げるために神がダビデを支え、強くしたと述べられます。

 けれども、そのようなダビデは完全な人ではありませんでした。ダビデの人生を支え祝福された神のお働きを覚えるならば、この詩篇の主題である神の恵みによって支えられた王ダビデの姿がくっきりとしてきます。聖書は、ダビデの輝かしい業績のみを並べることをしません。彼の弱さや罪も隠さずに明らかにします。

 彼は罪を重ねました。しかしそれが発覚した時彼は神の前に幼子のようでした。「私は罪を犯した」と告白したのです。神はそのダビデを恵み、彼の罪を赦しました。そして、ダビデの子孫をいつまでも続かせると約束されました。

 今年はあと少しで終わります。「良かった」とか「悪かった」と表面をなぞって終わることなく、恵みの神、契約に誠実なお方の前にどのような歩みだったのかを、静かに振り返る時を持ちたいと思います。


恵みとまことが御前に進む

2020年12月29日 | 詩篇

詩篇 89篇1−18節

 日曜日の夜、同労の方からお電話。いつもとは違うアドヴェント、クリスマスの様子を互いに報告し合っているうちに、あっという間に1時間が経ってしまいました。こんな時、大切です。

 この詩篇の前半には、いわゆる修辞疑問文がちりばめられています。それは、「だれが主と並び得ましょう」、「だれが主に似ているでしょう」、「だれがあなたのように力があるでしょう」です。答えはもちろん「だれも…ない」です。6節には「雲の上では」とあります。私たちには知る術のないところで、私たちの主はだれとも比べることもできない唯一のお方、まさに神なのだと歌っています。

 もう1点、この詩篇には「恵み」「まこと」ということばも並びます。「恵み」と訳されていることばは、他の箇所では「真実の愛」と訳されます。そして、これは契約に関係のあることばです。神とイスラエルの民とは契約を結びました。民は神との契約を守ることができませんでしたが、神は契約に誠実であり続けられました。「恵み」とは神のこのお姿を現わしています。

 14節では「恵みとまことが御前に進みます」とあります。ヨハネの福音書1章14節の「この方は恵みとまことに満ちておられた」との救い主イエスを証しすることばを思います。飼葉おけの赤ちゃんは、私たちのの世界においでになった「恵みとまこと」。


出口が見えない中で

2020年12月28日 | 詩篇

詩篇 88篇

 お借りしている教会の庭に置かれているKrippe(飼葉おけ)、ようやくキャラクターが揃いました。けれども、よく眺めてみると主役がいません。ヨセフとマリアもいません。もしかしたら、イエスさまを抱っこしてお散歩に出かけているのではないでしょうか。

 「みことばの光」、年末と年始には詩篇を読むことが多いのですが、年の終わりと年の初めに詩篇を味わうのはふさわしいのかもしれません。しかし、89篇は詩人の苦しみからの訴えに終始しています。ほとんどの詩篇には、敵に苦しめられる〜苦しみの中で主に呼び求める〜主が祈りに答えてくださる〜主を賛美するというように、ストーリーらしきものがあります。けれどもこの詩篇からは、詩人の心に光は差し込んできません。

 さらに、敵が自分を苦しめる、主は苦しむ自分の味方、という構図で描かれる詩篇も多いなかで、本篇では「あなたは私を最も深い穴に置かれました」「あなたの憤りが私の上にとどまり」「私に親友を私から遠ざけ」「私から愛する者や友を遠ざけられ」などと、神が詩人を攻撃しているように見えます。守ってくださるはずなのになぜ…? 疑問が湧いてきます。

 しかし、そう言いながらも詩人は神に信頼して助けてほしいと神に訴え続けるのです。当たり障りのない関係ではなく、神との間に個人的なやり取りが活発になされている、ひどい目に遭い、いのちの危険にさらされた時などは、「神よ、あなたが私を…」と訴えているのです。

 ヨブを思います。

 一方的に神に訴え続ける詩篇、しかしやがて詩人は神の答えを知ることになるのです。


神をたたえる老人

2020年12月26日 | クリスマス

ルカの福音書 2章22ー38節

 クリスマス第一祝日の25日は久しぶりの晴天。近くの公園を歩きましたが、たくさんの人が散策、犬の散歩を楽しんでいました。家では「クリスマスオラトリオ」の25日演奏分を聴き比べ。対訳歌詞を見ながら、初演の頃人々はどんな思いで教会で聴いていたのだろうかと想像を膨らませました。

 この箇所には、幼子イエスが主に献げられるために両親によって宮に連れて行かれた時の出来事が記されています。律法に記されたとおりに行うヨセフとマリアの敬虔な姿と、ささげ物から垣間見ることのできる貧しい生活とが伝わってきます。

 宮で幼子と両親を待っていたのはシメオンという老人。彼は幼子イエスを抱いて神をほめたたえるのです。それにしても、シメオンが「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」ということばに驚かされます。これが彼のいのちを支えてきたのです。そしてついに、その約束実現の日が来たのです。老預言者アンナも幼子イエスがどのような方なのかを悟って人々に語ります。

 ザカリヤとエリサベツの夫妻、シメオンとアンナ、クリスマスの出来事には4人の老人が「活躍」します。歳を重ねて、次第にいろいろと不自由なことが増えてきて希望が小さくなっていくような思いになりがちなのが老人。私もその一人です。特に、今回のようなパンデミックの中ではどうしても行動も気持ちも縮こまりがちになります。

 彼らのように救い主を待ち望み、証ししていく生活が歳を重ねるクリスチャンにも与えられているというのは、なんという恵み、喜びでしょう!

*ここでは「高齢者」ではなく、あえて「老人」ということばを使用いたしました。

*12月18日から27日までの「みことばの光」本誌の通読箇所は、聖書同盟ホームページに掲載している「聖書通読計画カレンダー」から変更になっています。ホセア書の通読を終えてからクリスマス箇所を読むように変更したためです。戸惑われた方もいると存じます。お詫びいたします。


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