みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

三つの祈り

2020年06月30日 | 列王記第二

列王記第二 6章1−23節

「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」6章17節

 尊敬する同労者が近々白内障の手術を受けるとのこと。手術を受けて、「世界が変わったようだ」とまで言っている人もいます。

 今日の箇所には、神の人エリシャの三つの祈りが収められています。「神の人」ということばは聖書に84回用いられていて、モーセもそのように呼ばれています。しかし何といっても、列王記で61回ともっとも多く使われています。エリヤも度々そのように呼ばれました。ここではエリシャが「神の人」と呼ばれます。ここからも、エリシャがエリヤの働きを受け継いだのだということが分かります。

 エリシャはアラムの大軍が攻め寄せてきた時、恐れる召使いの目を開いて、見えるようにと神に祈りました。すると召し使いは火の馬と戦車がエリシャを取り巻いているのを見たのです。

 次にエリシャ、はアラムの軍隊の目をくらませてほしいと神に祈りました。今度は見えないようにと祈るのです。その後が愉快です。エリシャは見えなくなったアラムの人々の導き手となります。

 アラムの人々の目を見えるようにしてほしいと三度目の祈りをすると、彼らの目は見えるようになり、なんと、彼らはイスラエルの首都であるサマリアにいたのです。敵地のまっただ中にいるのですからイスラエルの王にとっては願ってもないこと。しかし、この時エリシャは彼らをもてなしてアラムに帰すようにと王に告げます。

 見ているけれども本当に大切なものは見えない、見えないものを見て信頼して歩む、今のような先の見えない不安定な日々の中で、どちらが大切かは言うまでもありません。


思い直して

2020年06月29日 | 列王記第二

列王記第二 5章

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。」 5章14節

 日曜日は音楽礼拝。多くの方々に親しまれてきた2曲の讃美歌をギターで演奏していただき、それぞれの曲についてのエピソードを私が語りました。礼拝堂は残響が大きく、ギター独奏の場合はとても音が通るのですが、メッセージはたいへんです。工夫が必要かと思いました。

 5−7章には、北王国イスラエルと隣国アラムとの間で起こったことが書かれています。隣同士であるゆえにさまざまな緊張があるのは昔も今も変わりありません。しかし、この箇所にはホッとするようなエピソードが置かれています。

 アラムの将軍ナアマンはツァラアトに冒されました。イスラエルから捕えてきた娘からエリシャなら治してくれるとの話を聞いたナアマンは、将軍としての礼を尽くしてエリシャを訪ねるのですが、エリシャはナアマンに会おうともしないでヨルダン川で七回身を洗うようにと伝えます。ナアマンは激怒。バカにするな! と言うかのようです。そのまま帰途につくのですが、側近たちのことばによって思い直すのです。

 何かのことで自分のプライドが傷つけられたと思った時、人は正しく判断する力を無くします。しかし、ナアマンは思い直してツァラアトが治るという神のみわざを体験したのです。聞く耳を持つ将軍でした。このような心を柔らかな心というのでしょうか。ナアマンはこの出来事で、ツァラアトがなお累乗の贈り物を得ます。まことの神への信仰です。

 本章の後半にはエリシャのしもべゲハジの失態が描かれています。彼は主人がナアマンからの贈り物を断ったのを「何としたことか」と言い、せっかくのチャンスなのにもったいないとして、エリシャの言葉を勝手に消し去るようなことをしてしまいます。ナアマンはエリシャが求めるものを拒むはずがないと知っていたゲハジの、見苦しい行動です。互いの間で交わされたことばを台無しにするようなゲハジのような姿は、今の世にも見られます。


何をしたら

2020年06月27日 | 列王記第二

列王記第二 4章1−17節

「あなたのために何をしたらよいか。」4章13節

 金曜日は気温が30度越え。でもカラッとしているので木陰を歩くと心地よい風を感じます。驚いたのは、いつものウォーキングコースにある川でお父さんと男の子が泳いでいたこと! きれいだとは思わない川なのですが、とても楽しそうでした。

 強烈な出来事が次々と起こる列王記の中には、ホッとするというのでしょうか、そのような出来事が時々あります。ここでは、預言者エリシャが二人の女性の必要に応えています。

 一人は預言者仲間の妻。彼女は夫に先立たれ取り立て人から脅されていました。エリシャは困窮する彼女を助けるのです。彼女がどんなにひどい状態だったかは、家には油の壺一つしかないということばで明らかです。

 エリシャはその油をはじめ、隣近所から借りてきた器のすべてを油で満たすのです。どこかでこのような出来事が…? そうです。エリシャの師匠エリヤも貧しさゆえに死のうとしていたシドンのやもめを助けました。

 もう一人は反対に裕福な女性。夫もいて何不自由のない生活をし、しかも預言者エリシャのために食事や泊まる場所を提供するなどの心遣いをしています。エリシャは彼女にも「あなたのために何をしたらよいのか」と尋ねます。そして、男の子が生まれるとのことばを告げ、その通りになります。

 二つの「何をしたら…」というエリシャのことばの先に、主イエスのお姿が見えるようです。


信仰者ゆえに

2020年06月26日 | 列王記第二

列王記第二 3章

「主のことばは彼とともにあります。」3章12節

 川沿いの散歩道で小さなサクランボの実を摘んでいる人が…。目が合って互いににっこりすると、「ここのはビオだから…」と言われました。確かにそうです。

 北王国イスラエルに経済的繁栄と政治的な安定をもたらしたアハブの死後、モアブが背きました。アハブの時にモアブは、膨大な羊毛をイスラエルに貢ぐいわば属国でした。しかし、アハブが死んだのを好機と見て、モアブはイスラエル王に反旗を翻します。

 アハブの子ヨラムは、兄弟アハズヤの死後王位を継ぐのですが、この危機に際して、自分一人ではモアブを抑える力がないので、南の兄弟国ユダのヨシャファテ王と、エドムの王にいっしょにもアブと戦うことを呼びかけます。

 ヨシャファテはヨラムの父アハブがいっしょにアラムと戦おうと呼びかけた時にも、同じようなことばで受けます。そして、「連合軍」の危機に際して、ヨシャファテの信仰ゆえに、エリシャによって神のことばを得て、連合軍はモアブに勝利します。

心に留まるのは、「もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ」というエリシャのことば。聖書協会共同訳聖書も同じことばです。「顔を立てる」と訳されているのは、直訳では「顔を上げる」と注にあります。新共同訳聖書はここを「ユダの王ヨシャファトに敬意を抱いていなければ」と訳しました。ヨシャファテゆえにヨラムに会い、ヨラムに語るのだと言うのです。

 連合軍はモアブと戦い一応勝利します。それでは、ヨラムはこれでよかったのでしょうか。3章の最後のことばは、この戦いの中途半端さを伝えているように響きます。ヨラムはいずれ一人で、神の前に立たなければならないのです。


主は生きておられ

2020年06月25日 | 列王記第二

列王記第二 2章

「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」2章2節

 2章で3度繰り返されるこのことばから、エリヤへのエリシャの強い思いが伝わってきます。エリシャがエリヤに代わる預言者となることは、すでに主がエリヤに語っておられることでした。⇒列王記第一19章16節 そして、エリヤはこのことばを受けてすぐにエリシャを見つけ出し、以来そばに置きました。

 いよいよ惜別の時が来ました。「ここにとどまっていなさい」とエリヤが言うにもかかわらず、エリシャは「私は決してあなたから離れません」、ベテルで、エリコで、そしてヨルダンで二人は同じことばのやり取りをしているのが印象的です。エリシャのことばは、別れたくないという思いからのわがままと言うのではなく、神がエリヤに与えておられたものを後継者として選ばれた自分もいただきいたいという熱意の表れだったと思います。

 「二倍の分を私に」との願いは大胆です。「わずかのおこぼれでも…」と言ってしまうような場面ですが、エリシャの後継者としての重荷、そしてもうすぐエリヤが去るという緊迫感ゆえに出てきた願いだったのでしょう。

 心に留めたのは、「主は生きておられます」とのエリシャのことば。列王記では第一の17章からエリヤが登場するのですが、その初めにエリヤがアハブ王に語ったことばは、「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」でした。⇒列王記第一17章1節

 このことばは、決してあいさつことば、あるいは信仰者の定型句のようなものではありません。エリヤからエリシャへと生きておられる主への信仰は受け継がれるのです。そして私たちにも…。


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