みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

祈りが聞かれて

2019年12月18日 | ミカ書

ミカ書 7章

 一泊二日の旅を終えて帰宅しました。

 月曜日の続きを…。クリスマスマルクトでの幼稚園児のクリスマスソングの発表会には、ご家族を初めたくさんの「観客」が集まり、大盛況。小さなお友だちの歌を、若い人たちも笑顔で聞き入っているというのは、微笑ましい光景でした。

 そのあとは近くの高齢者施設でのクリスマス音楽会へ。ここでも、子どもたちがチェロ、ピアノ、バイオリン、金管楽器、大人の人たちはサクソフォーン二重奏。ドラムの独演もありました。途中でつっかえるお友だちもいましたが、堂々と最後まで弾き終える姿に感動。さらに、午後8時からは月曜日の礼拝に加えてもらいました。ちょっとした異文化体験のようで、良い時間を持つことができました。

 メシアの誕生を預言しながらも、預言者ミカはなお悲しんでいます。敬虔な者は消え失せ、賄賂などの悪事を働く者が良い思いをするような時代を見ているからです。けれども、それは望みが絶えてしまったということではありません。ミカは嘆きの中から神を仰ぎ見るのです。2節から6節で描かれる嘆くべき世界の様子は、今でも私たちの周りに起こるようなことです。

 救い主がこの世界に来たのになぜ? という嘆きやつぶやきが聞こえてくるようです。しかし、ここで預言者ミカは「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む」と、神を信頼しています。なぜ彼は、暗い世の中でも神を信頼するのでしょうか。7節の後半にある「私の神は私の言うことを聞いてくださる」がその理由です。

 聞いてくださるから神に祈るのだというのは単純ですが、大切なことです。もしかしたら、多くの信仰者がこの事実を信じるのをとうの昔にやめてしまって、祈りを口に出すことさえしなくなっているのではないだろうか、などとも案じます。何事かが起こったら、すぐに神への祈りと賛美を口にしておられた方の姿を目の前にして思いました。私たちも祈ります。


何が良いことなのか

2019年12月17日 | ミカ書

ミカ書 6章

 更新が遅くなりましたことをお詫びいたします。

 月曜日は、ニュルンベルグの近くにある小さな町に住む主にある友のお宅を訪ねました。出会ったのはほぼ一ヶ月前。黒い森の中のキリスト教の宿泊施設の朝食の席でした。そのやりとりは少し書いたかもしれませんが、一泊させていただいています。私たちのために一生懸命「案内プラン」を作ってくださいました。お昼はその方のお友だち夫妻と五人で。そのあと町の中心部を散策しながらショッピング。午後4時半からはクリスマスマルクトの舞台での幼稚園児の歌の発表会を鑑賞…と続きまして、帰宅したのはなんと午後10時半でした。続きはまた明日…。

 本章の8節は、人に求めておられる神のお心を一つで語っていることばとして、多くの方に親しまれています。6節と7節には、神の告発を聞いてのご自分の民の答え、反論のようなことが書かれています。この箇所は、信仰深い民が、神に「何を…」と問いかけているようにも聞こえますが、2節に主がイスラエルと論争するとありますので、やはり論争の中の民の反論だと受け止めるほうが良いと思います。

 民は「私はあれをしたではありませんか、これもしました」と自分たちの行いが正しいことを主張しますが、神が求めておられるのはそのようなことではないのです。ここから、民と神との間のズレのようなものを覚えます。そしてそのズレは、時代を超えて今の自分たちも心すべきことではないだろうか、と思うのです。神のために時間を費やし、財を用いているのに、神とともに歩んでいないということはないのかと…。


人に望みを置かず

2019年12月16日 | ミカ書

ミカ書 5章

 待降節第三日曜日、私たちの教会では一足先のクリスマス礼拝、お祝いの会を持ちました。今月から新しい場所に移ったので、何もかもが初めて。幸い、礼拝する場所とお祝いの会をする場所が違うので、予め準備をしておくことができました。普段と違って、たくさんの方々といっしょに過ごすことができました。

 前にも書きましたが、ミカ書5章2節の預言はイエス・キリストの誕生において成就したと考えられています。けれども、その前後に書かれていることを見ると、イエスの誕生の時代と結びつけるのは難しいように思います。ミカ書に限りませんが、預言書を読んでいて戸惑うのは、その預言がいつのことなのかを知ることについてです。「みことばの光」の「ミカ書を読む前に」に、このような文章があります。

 「預言者の語り方は独特である。彼らは、現実の世界、近い将来、700年後の救い主、世の終末など、何重もの世界を幻で見ており、充分な説明もなしに、あちらからこちらへと話題が移る。」

 ここからわかるのは、「イスラエルを治める者」は平穏な時においでになるのではないということです。その方が来ると、荒れ狂う困難の中に平和が訪れます。しかし、困難なことが解決するかというとそうではなく、民族の離散も起こります。心に留まるのは、「彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない」という7節のことばです。

 これがいつ起こるのか、もうすでに起こったのかははっきりしません。私は7節のこのことばを読んで、故国を離れて住む人々にとって、何が、誰が頼りになるのかということを考えました。住み慣れた場所にいれば家族や友だちにたよることができますが、そこから話された人にとっては何が頼りなのだろうかということです。そのような不安定な中で、望みを神に置く人々が一人でも起こされるようにとの思いを持っています。

*写真は礼拝する教会の庭にある「飼い葉桶」(Krippe)です。とても特徴的(?)な表情をしていますね。


主の御名によって歩む

2019年12月14日 | ミカ書

ミカ書 4章

 ついに重い腰を上げて、クリスマスカードを作り始めました。ところが、大きめのカードを入れる通常よりも大きいB6の封筒がなかなか見つかりません。3店目でようやく発見。でも、ほとんど売り切れ。グリーティング用の需要しかないようなのですが、他の方もきっと探しているのだろうな…と、空(から)の棚を見ながら想像しました。帰宅してネット通販を見ると…、あります。「初めからそうすれば良かったのに」との心の声も聞こえてきますが、お店で買うことをやめてはいけないという思いもあります。

 ご自分の民への厳しいさばきのメッセージが3章にわたって続いたあと、「その終りの日」ということばではじまる本章には、希望のメッセージが届けられます。3節の預言は、「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」というイザヤ書2章4節と響き合います。

 平和の到来です。その平和は2節に基づいたものです。みおしえ、主のことばが語られ、そのことばが示す道を人々が歩むことによって実現する平和です。政治的なリーダーたちは平和の実現のために労しながらも、世界には一瞬たりとも戦いのない時はないと言われています。この章に、鍵が埋められているように思います。

 4節の「まことに万軍の主の御口が告げる」ということばにも心が留まります。神は沈黙しておられるのではないのです。神は語っておられる、しかし、私たちの耳が塞がれている、いや、塞いでいるならば、神のことばは届きません。

 新しい年を前に、「みことばの光」を継続購読するかを確かめている教会の係の方もいるでしょうか。こつこつと毎日みことばを耳を傾ける民が、諸教会に増やされるように、世界に増やされるようにと、願っています。


主の霊によって

2019年12月13日 | ミカ書

ミカ書 3章

 郵便受けにクリスマスカードが入る頃となりました。クリスマスカードを準備しなければと思いつつ、言いつつ、まだ取りかかっていません。

 神は預言者ミカによって、イスラエルに厳しいさばきを告げられます。さばきの先は指導者たちと預言者たち。この章では、指導者たちへのさばき⇒預言者たちへのさばき⇒指導者たちへのさばきの順です。

 2−4節では、指導者たちへのさばきが宣告されます。特にここでは、貧しい者から絞り取る彼らの悪が暴かれます。5−8節では、非難の鉾先が預言者たちに向けられます。彼らは金のために語るというのです。そして、9−10節では再び指導者たちへのさばきの宣告です。

 11節には、神のさばきに会う者たちが金を目的として自分の立場を悪用していることと、神に激しく逆らいながら神を宛にしているという身勝手さが暴かれます。12節は、彼らへのさばきが実行されるとの預言です。

 これら厳しいことばを指導者や預言者たちに届けるミカの姿が、まるで闇の中に輝く光のように8節に記されています。周りが暗ければ暗いほど、光は力強く輝きます。ミカの力は「主の霊」によるもの。「御霊に満たされなさい」というパウロのことばが心に響きます。


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