みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だれ一人いない

2024年04月30日 | 詩篇

詩篇 53篇

 歩いていると、いろいろな発見があります。月曜日には、駅からいつものスーパーへの近道を見つけてしまいました。じゃがいもやりんご、キャベツなど重いものを購入したので、近道は助かります。4月もきょうが最終日。緑が美しい頃になりました。

 前篇の「欺く者」に続き、本篇は「愚か者」についてのダビデの詩です。「愚か者」というと、知的にあるいは技術的に劣る人のことを言っているように考えるのですが、1節を読むとそうでないと分かります。彼らは悪事を行っているのですが、神などいないから誰も怖がることはないと態度や行いを改めることはありません。パウロは、ローマ人への手紙でこの詩篇を引用して、すべての者が神の前で罪を犯していると書いています。

 「心の中で」ということばに目を留めました。「心の中」というのは表に現われてくる行動の源泉のようです。あるいは、口では神の名を唱えてはいても心では神などいないと考えているのです。

 それは、ダビデがそう思って嘆いているということではありません。ダビデは自分の考えや判断によってではなくて、神がどうご覧になるのかを問うのです。「神は天から人の子らを見下ろされた」ということばがそれです。人前では自分を偽り飾ることはできても、天からすべてを、心の中までを見ておられる神がいるのです。

 「彼らは恐れのないところで、大いに恐れた」という5節のことばにも目が留まります。恐れのないところにいるのならば、恐れる必要はないはずです。彼らは恐れを知らないほど力を誇っていたのです。この地上で誰も彼を恐れさせるものはないと豪語していました。しかし、神は彼らをさばかれました。

 さらに、神が救い、元どおりにするということばに希望があります。そして6節にある願いは、イエス・キリストの贖いによって実現し、私たちのところにも届きました。


世々限りなく

2024年04月29日 | 詩篇

詩篇 52篇

 礼拝のためにいつもの場所に着くと、玄関ホールにビニール袋が積まれていました。はじめは未処理のゴミなのかと思ったのですが、よく見ると袋の中はすべて衣服。地域の方々が古着類を持ち寄り、そこからどこかで、どなたかに使ってもらうのかもしれません。

 詩篇52篇の背景は表題で明らかです。この出来事はサムエル記第一21−22章にあります。

 ダビデがサウルの手を逃れて祭司アヒメレクの所に立ち寄ったことを見ていたドエグは、サウル王にそのことを話します。それを聞いたサウルは祭司たちを殺害するように命じますが、イスラエルの兵士たちは躊躇するのです。そこでドエグが祭司たち85人を殺害したという痛ましい出来事なのです。

 1−4節でダビデは「勇士よ」、「欺く者よ」、「欺きの舌よ」と呼びかけます。ここでの呼びかけは個人名を用いてのものではないのですが、厳しいことばです。そしてドエグのような者だけでなく、時代を越えて神を恐れずに自分の力で人を押しのけていくすべてに呼びかけられていると、読みました。

 一時(いっとき)、そのような力が世を圧倒するように見えることがあります。 しかしダビデは、そのような者たちを神が必ずさばくことを信じているのです。

 この詩篇の後半からは、「世々限りなく」「とこしえに」ということばを心を留めました。神への信頼を失わせるようなことが起こる日々の中で、変わらずに神に信頼し続けていくことが今こそ、信仰者一人一人に求められているのです。


感謝のいけにえ

2024年04月27日 | 詩篇

詩篇 50篇

 浴室のシャワーの出が悪くなったので、ホームセンターでシャワーヘッドを買ってきました。いざ取りつけとなったのですが、ホースの継ぎ手部分が劣化していて、これも買い替えなければならないことが判明。もう一度店に行きます。

 50篇は、神がご自分を審判者だと宣言しておられる詩篇です。初めの段落にある動詞に目を留めてみましょう。1節には「語り…呼び集められる」、2節には「光を放たれる」、3節には「来られる。黙ってはおられない」、そして4節には「呼び集められる」と並びます。

 なぜ神は呼び集めるのか、また来るのか。それは審判者としてさばくためなのです。その背景には、神は黙っている、神が来ることなどないとうそぶいている者たちの存在があります。

 神はまず、いけにえを携え献げる者たちをさばかれます。彼らの献げものを主は受け入れると言っておられます。そのうえで、彼らに「感謝のいけにえを神に献げよ」と言っておられるのです。このことばは23節にも見られます。14節と15節は別のものではありません。もしかしたら、15節だけを読んでいるのではないかと考えました。神への感謝をどこかに追いやってはいないだろうかと…。

 「感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ」という詩篇100篇のことばが心に浮かびます。そのようにして、日曜日には感謝のいけにえを神にささげる礼拝でありたいと願うのです。 


たった一つの望み

2024年04月26日 | 詩篇

詩篇 49篇

 聖書を一緒に読むためにおいでになった方が、バスがストライキで運休なので遠回りで帰ると言っておられました。当地では、ストライキや工事のための公共交通機関の運休がよくあります。

 詩篇49篇は、死が誰にでも平等に訪れることについて考えさせます。

 まず1節が心に響きます。「耳を傾けよ」との呼びかけです。何に耳を傾けるのかというと、詩人がこれから述べることについて、つまり死についてなのです。人はだれもが、豊かな者も貧しい者も、知恵のある者も愚かな者も、力のある者もない者も、死に向かって生きています。

 大切な家族でも、世にあって尊い働きをした人であっても、誰もその人を死から贖い出すことはできません。まさに、8節にあるように「永久にあきらめなくてはならない」のです。人はいつかは死ぬのだ、いつかは分かれが来るというあきらめが大切だということになります。

 もしも、「いや、私だけはそうではない。私の栄華はいつまでも続く」と思い続けるような人がいたら、その人は大変な思い違いをしているのです。その点で、人間はほかの生き物と何ら変わるところはありません。

 詩人は、たった一つの望みがあると歌います。15節です。それは神ご自身が私のたましいを贖い出してくださるという望みです。この希望は神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって現実のものになりました。

 最後の「悟ることがなければ」というのは、人はだれもが死ぬのだということについての悟りだけでなく、神がイエス・キリストによって私を贖い出してくださるということについての悟りも含まれている、と私は読みました。


良くない

2024年04月25日 | 出エジプト記

出エジプト記 18章

 相変わらず気温の低い日が続いていますが、天候は晴れで空がとても美しいです。月曜日に飛行機が大きく見える所に行きました。けれども、その日は残念なことに風向きの関係で離陸の飛行機を見ることに…。着陸が良いのだそうです。

 アマレクとの戦いに勝利したと聞いてイテロは、近くまで来ていたモーセを訪ねました。モーセの妻ツィポラはイテロの娘。彼女がいつごろ父のところに行ったのかは分かりません。どのような事情なのかも書かれてはいません。ある人は、おそらく安全のためにミディアンに送り返されたのではないかと考えます。

 イテロが来た目的について、三つのことが考えられます。まずツィポラと息子たちをモーセのところに戻すこと、二つ目は主なる神を礼拝すること、三つ目はモーセに助言することです。もっとも、三つ目については初めからそのような意図があったのではないようです。

 17節に目が留まります。神から特別な使命とそのための賜物をいただいているモーセに、「あなたがしていることは良くありません」と言うのは簡単なことではありません。しゅうとであるがゆえにできたのかもしれませんし、まさにこのようなタイミングでイテロが訪ねたといえます。

 イテロが具体的に勧告しているのを想像すると、彼はモーセのようにミディアン人の中での指導的な立場にいたことが分かります。また、モーセたちの様子をよく観察していたことも分かります。

 モーセがイテロの助言を受け入れたということも、心にとどめたいこと。いっしょうけんめい何かに取り組んでいる時、人は誰かから何かを言われるとそれを受け入れるのは困難だと思うのです。しかし、主が自分のためにイテロを遣わされたと、モーセは考えたのではないでしょうか。小さいことにも大きいことにも、そこには神の御手があるのです。


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