みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

からだをめぐって

2024年03月30日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章57−66節

 受難日の昨日、オンラインで聖書を読みました。「十字架上でのイエスの七つのことば」を読んだのですが、一つ一つが力と愛とに満ちたものだ、という発見がありました。

 十字架から下ろされたイエスのからだをめぐって、人々がそれぞれの立場で動いていることが、きょうの箇所からわかります。

 十字架につけられた死体を、ローマ人は葬ることなく地面に放り出すだけでした。一方でユダヤ人はそうはしなかったのです。また、処刑された犯罪人は家族の墓に葬ることは許されていなかったと言われます。そう考えると、アリマタヤのヨセフの行動は例外的なものでした。

 マルコの福音書はアリマタヤのヨセフがサンヘドリン(最高法院)の一員であったと伝え、ルカの福音書は彼がイエスを殺そうとする陰謀に反対していたことを、そしてヨハネの福音書はヨセフが密かにイエスの弟子となっていたと、ニコデモも埋葬に加わったと書いています。彼はイエスのからだを亜麻布に包み、自分の新しい墓に納めました。これによって、イザヤ書53章9節の預言が実現しました。 「彼の墓は、悪者どもとともに、 富む者とともに、その死の時に設けられた。 」

 これによってヨセフもニコデモも、自分たちがイエスの弟子だということが明らかになったのです。

 女性たちは、墓のほうを向いて座っていました。彼女たちは安息日明けにイエスのために何をするかをすでに決めていました。しかし、彼女たちは自分たちに何が起こるのかをまだ知りません。

 イエスを十字架につけた人々は、イエスのからだが盗まれないようにという対策を講じました。彼らはイエスの死後もなお、イエスを恐れていたのです。

 ここには、イエスのからだを巡って三様の行動が描かれます。しかし、そのどれもが彼らの予想を大きく超えた出来事によって覆されることになります。


なぜ見捨てたか

2024年03月29日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章45−56節

 黒雲の合間を縫って外に……。幸い、雨に降られずに帰宅できました。気がついてみるとずいぶんと昼が長くなっています。

 本日はキリストが十字架刑によって死なれた日で、当地では「聖金曜日」として休日です。きょうの箇所には、十字架上のイエス・キリストが描かれています。

 45節に、12時から午後3時まで闇が全地を覆ったとあります。旧約聖書出エジプト記10章21−23節にある、エジプト全土を闇が覆うという出来事を思いました。あの時エジプト全土は、三日間闇に包まれてまったく何も見ることができなかったとあります。それは、神がエジプトの罪をさばかれる行為の一つでした。「闇が全地をおおった」ということばを心に留めました。アモス書8章9節に、「その日には、―神である主のことば―わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする」とあります。

 ここで神は、全地をさばかれたのではありません。全地の代わりにご自分の御子をさばこうとされていました。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と大声で叫ばれました。「お見捨てになったのですか」ということばは、受け止めきれないほど重いものです。神は罪ある人をお見捨てにならないために、罪なき御子をお見捨てになったのです。

 イエスが大声で叫んで霊を渡された時、ありえない光景が見られました。神殿の幕(至聖所と聖所を隔てていた)が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり多くの聖なる人々のからだが生き返ったとあります。この人々はイエスの復活の後で、多くの人々に現われました。

 イエスは十字架上で死なれ、「万事休す」ということではありませんでした。ことばも出ないほどの出来事をもたらしたのです。そしてそれは、私にも起こりました。


イエスの沈黙

2024年03月28日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章27−44節

 本日の箇所は、ピラトによって死刑を宣告されたイエスが、ローマ兵の手に渡され、刑場であるゴルゴタまで十字架を背負わされ(途中クレネ人シモンが代わりに負いますが…)、十字架につけられるまでを描いています。

 ここで響くのは誰の声でしょうか。ここで聞こえるのはどんな音でしょうか。兵士たちがイエスを馬鹿にする声が聞こえます。「ユダヤ人の王様、万歳」と…。唾をかける音、足の棒で頭をたたく音、

 十字架につけられたイエスをののしる声も聞こえてきます。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と…。「他人は救ったが、自分は救えない……」という祭司長たちの声も聞こえてきます。

 イエスの両脇で一緒に十字架につけられていた強盗のののしりも聞こえます。静かに耳を澄ませてみると、ほかにどんな声や音が聞こえてくるでしょうか。

 イエスの声は、聞こえてきません。しかし、イエスの激しい息遣いや十字架を背負ってよろよろと歩く不規則な足音は、周囲の声にかき消されてしまいました。イエスのことばは聞こえません。周囲の騒々しさとは対照的に、イエスは沈黙を守り続けます。

 この場面の、どこに「私」がいただろうかと思いを巡らしています。


どちらのイエスを

2024年03月27日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章11−26節

 宅配の荷物を待っていましたが、ホームページ上で三軒前まで配達していると表示されるのですね。一軒前の表示とともにブザーが鳴りました。驚きです。

 イエスは、ローマ総督ピラトに引き渡されました。ピラトは普段は地中海沿いのカイサリアに駐在していましたが、過越の祭りの時には各地から大勢のユダヤ人がエルサレムに集まって来るので、治安上エルサレムに来ていたのです。ピラトは、ユダヤ人の間の宗教的な問題だと考えていましたので、ナザレ人イエスにはできるだけ関わりたくないというスタンスを取っていました。

 しかし、ユダヤ人の指導者たちはイエスのことを次のようにピラトに訴えたのです。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」(ルカの福音書23章2節)ピラトが「あなたはユダヤ人の王なのか」とイエスに尋ねたのは、そのように訴えられたゆえの質問でした。だからといって、イエスが「そのとおり」と答えたからといって、死刑に処するつもりではありませんでした。

 そこでピラトは、ナザレ人イエスとバラバ・イエスとのどちらかを釈放してほしいかと尋ねたのです。ピラトにとって結果は明らかだと思われました。しかし、彼の目論みは外れたのです。祭司長たちや長老たちに説得された群衆は、バラバ・イエスの釈放を強く願ったのです。

 それでもピラトは、ナザレ人イエスをどうするかを群衆に尋ねます。彼は、群衆が釈放を願うだろうと考えていたようです。しかし群衆は「十字架につけろ」と激しく叫び、治安上の責任を取りたくないピラトは、ここでも群衆に押し切られてしまいました。

 ピラトの曖昧(あいまい)な姿勢さえも用いられ、イエスは「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」ることとなります。


はね返される後悔

2024年03月26日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章1−10節

 月曜日、市南部の広大な森の中を、約8キロほど歩きました。トラムに乗るために角の「アイス屋さん」を通ると、お友だちのご夫妻が! 会えるとは思っていませんでしたのでびっくり。寄り道をして美味しいものをいただきました。良い時間をありがとうございます。

 大祭司の家での尋問を経て、最高法院が開かれました。はじめから「死刑ありき」の裁判です。しかし、死刑執行の権限はローマ総督が持っていました。そこで、イエスはローマ総督ピラトの手へと引き渡されました。

 3節以降では、ユダのことが描かれています。ユダはまさかイエスが死刑に定められると考えてはいなかったのでしょう。彼は後悔して、受け取った銀貨30枚を祭司長たちに返そうとしました。

 4節の「私は無実の人の血を打って罪を犯しました」ということばに目が留まります。彼は自分が罪を犯したことを打ち明けました。しかし、ユダのことばは「われわれの知ったことか。自分で始末することか」ということばで、はね返されてしまったのです。

 自分が罪を犯したとき、人はどのように身を処すのでしょうか。ある人は「自分には責任がない」と逃れようとします。誰かのせいにすることもあります。「反省しなければならない」ということばを語るけれども、本当は詫びようとしないという人もいます。ユダのように「私は……罪を犯しました」と反省する人もいます。

 ユダは誰に対して「私は……罪を犯しました」と言うべきだったのだろうかと、考えます。誰に…の答えは明らかです。彼は言うべき相手を取り違えました。つまり、神に罪を告白する、悔い改めるのではなくて、単に後悔しただけでした。

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」という、ヨハネの手紙第一1章9節を覚えます。 


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