みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

「専門外」はない

2024年01月31日 | マタイの福音書

マタイ 13章1−9節

 本ブログの写真、最近は朝焼けや夕焼けが多いと自分で思っています。窓が南側に開いていて眺めがよいので、スマホで写せます。でも、10秒も経つと空の色が変わってしまうのです。

 マタイの福音書13章では、イエスがたとえを用いている教えをまとめています。これはこの福音書にあるイエスの三つ目の教えであり、「天の御国のたとえ」というテーマがつけられています。

 最初は、「種を蒔く人のたとえ」として知られています。ここでイエスが教えておられるのは、今に至るまで植物を育てようとする人ならば当然考えに含める大切な原則です。明日以降に、イエスのたとえがどのような意味なのかを知ることになるのですが、今日の箇所だけではただ、種を蒔くときには、四種類の土地のどれに蒔けばよいのかという、誰にでもわかる、「そのとおり」だとうなずける話をイエスはしておられます。

 この話だけを聞いた人々は、もしかしたら「肩透かし」のようなものを感じたのかもしれないと、想像しています。メシアであるイエスが話すのだから、神の国の話をしてくれると思っていたのに、種をよく耕された良い地に蒔くようにと教えておられるからです。

 けれども、このような常識として誰もが知り、誰もがうなずけることをイエスが大勢の人々の前で話されるということによっても、この地にある営みのすべてを知り、治めておられる方なのだということを知ることができます。ここを読んで、ルカの福音書5章にある、イエスが大量の魚がいる場所をプロ漁師たちに教えられたという出来事を思い起こしました。

 イエスには専門外だろうなどと勝手に考えずに、何をするにも信頼して祈るようにとのチャレンジをここからいただきました。


ここに……あります

2024年01月30日 | マタイの福音書

マタイの福音書 12章38−50節

 月曜日から2週間ほど一人暮らし。できるだけ自分で料理しようと決めたのですが、さて何から作れば良いかと、この文章を書きながら思案中です。

 今日の初めの文章を読んで思ったのは、敵だとしたらとことん嫌がらせをするものなのだということです。彼らはイエスに「しるしを見せていただきたい」と求めてきました。この場合彼らが求めているのが何かというと、イエスがメシアだということのしるしです。

 この章には、イエスとパリサイ人たちとの論争が収められています。パリサイ人たちは、イエスの「…もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」ということばを聞いて、それならばメシアは来ているということか、イエスよあなたがメシアなのか、それならしるしを見せてほしいと迫ったのです。

 すでにイエスは、教えにおいて働きにおいてご自分がメシアであることを明らかにしてきたのですが、彼らはイエスがしてこられたことをしるしだとは認めたくはなかったのです。ですから、イエスが「…しるしは与えられません」と言われたのは、彼らが不信仰だからと伝えたかったのです。

 41節の「ここにヨナにまさるものがあります」、42節の「ここにソロモンにまさるものがあります」と言うことばに目を留めます。すでにイエスは6節で「ここに宮よりも大いなるものがあります」と言っておられます。宮は祭司、ヨナは預言者、そしてソロモンは王と結びつきます。「ここに……ある」とイエスがご自分のことを言っておられるのは、つまりご自分がメシアであると宣言しているということです。

 イエスがメシアとしてのわざを行っておられることは、家族にも受け入れがたいものがあったのを、この章の終わりの数行が明かしています。しかし、やがて彼らにもイエスをメシアとして迎え入れる日が訪れるのです。


とんでもないすり替え

2024年01月29日 | マタイの福音書

マタイの福音書 12章22−37節

 日曜日に、空港まで人を送りました。出発フロア前の道路が「激混み」。空港行きの鉄道がストライキのためにほとんど動かないので、自動車が大量に出動しているのだと思いました。何日も続いたストライキも、本日午後2時でようやく終了です。

 ここでのパリサイ人たちの様子を見て、どれほど心がねじ曲がっているのだろうと思います。群衆は驚いて「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか」、つまり、この人がメシアではないだろうかと言っているのに、パリサイ人たちは「悪霊どものかしらベルゼブルによって悪霊を追い出している」と言うのです。どうしてもイエスのわざを受け入れることができずに、殺そうしている彼らには、このようにしか考えられません。

 イエスは、パリサイ人たちの身勝手で偏見に満ちたご自分への「評価」に真っ向から反論されます。28節の「わたしが神の御霊によって悪霊を追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」とのことばが心に留まります。

 31節は、ここだけ切り抜いて、「御霊に対する冒瀆は赦されない」とはどのようなことかと、論議される箇所です。しかし、前後の関係を考えるならば、御霊によってわざを進めるイエスへの反発に対して、イエスが言われたのだということが分かります。

 御霊のわざを悪霊のわざだとすり替える罪の大きさを、パリサイ人たちのことばや態度に見ることができます。

 真理を受け取り損ねることがないように、との警告をここからいただきました。


喜びとするのは…

2024年01月27日 | マタイの福音書

マタイの福音書 12章1−8節

 激しい雨のあと、空には一気に青空が…。夕焼けが美しい金曜日でした。お願いしていた原稿を引き受けてくださって、心が少し軽くなりました。 引き受けてくださった方々、ありがとうございます!

 イエスがメシアとしての働きをする中で、反対する人々の動きも次第に大きくなっています。ここでは、弟子たちが安息日を守っていないと、パリサイ人たちがイエスに文句を言っています。

 「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」は出エジプト記20章8節にある十戒の一つです。ユダヤの人々はこの律法をどのように具体的な生活のさまざまな面に適用すべきかとして、さまざまな規定を作り上げ、それを守ってきました。弟子たちが安息日にしてはならないことをしていると、パリサイ人たちは非難したのです。

 イエスは、安息日はどうでもよいなどとは言われません。「安息日を聖なるものとする」とはどのような意味なのかを語っておられます。安息日を彼らに与えられたお方が、この律法の本意を明らかにされたのです。「安息日の主」とのことばをこころに留めたいと思います。

 もともとのことばの意味がいつのまにか違ったように受け取られてしまうというのは、私たちの生活の中でも経験することではないでしょうか。7節の「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」ということばに目が留まりました。旧約聖書ホセア書6章6節をイエスが引用されたものです。形を整えるのに腐心して、本質をどこかに追いやってしまい、冷ややかなものになってはいないかと、心が探られます。


わたしのもとに来なさい

2024年01月26日 | マタイの福音書

マタイの福音書 11章20−30節

 先週の寒さはどこへやら…というようなちょっとだけ春を感じる木曜日、久しぶりに30分オルガンコンサートに行きました。

 ここは、前半がイエスの激しい憤り、後半が優しい招きと対照的な箇所です。イエスは何を憤っておられるのでしょう。ガリラヤ湖の北側にあるコラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムは、イエスが働かれた地。特にカペナウムについてはイエスが働きの拠点としており、マタイの福音書9章1節には、カペナウムを「自分の町」としておられたことが分かります。20節には、「ご自分が力あるわざを数多く行った町々」とあります。

 これらの地でイエスは「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆる煩いを癒やされた」と9章35節に記されています。多くの人々は熱心にイエスの後について歩き、その人々は「群衆」となっていきました。しかし、ここでのイエスの憤りから察するに、彼らには大切なことが欠けていたことが分かります。「悔い改め」です。ドラマティックな癒やしの出来事、悪霊の追い出し、パリサイ人や律法学者の論争…これらは、人々を熱くしました。しかし、悔い改めがなかったのです。

 「悔い改める」ということばはキリスト教会でもっぱら用いられていますが、実際に私は、私たちは悔い改めているのだろうかと問われます。神を礼拝し、神に仕え、教会でさまざまなことを行っている、いわゆる教会の働きは続いているのだけれども…。

 なぜ悔い改めないのか、後半25節のイエスのことばが心に留まります。「知恵ある者や賢い者には隠して」。自分の知恵、プライド、そのようなものが悔い改めることを妨げているのではないか。悔い改める必要などないと考えているのでしょうか。

 28節は多くの人々に知られる聖書のことばの一つです。このことばは、「悔い改めなさい」というイエスからの招きとしても響いてきます。


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