みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

眠り込むということ

2023年03月31日 | マルコの福音書

マルコの福音書 13章28−37節

 きょうは日本での年度末にあたります。当地ではもうすぐイースター休み。学校は3週間の長さで休みます。ですから、この時期に日本への「一時帰国」をする方も少なくありません。日本入国のため必要な手続きのお手伝いをしました。無事にページが青色になっていたので一安心です。

 ここは、イエスが弟子たちにその時から先に起こることについて教えられたことの、締めくくりの部分です。「目を覚ましていなさい」ということばが三度繰り返されています。 

 ここを読んで、午前の仕事を終え時間があるとソファで20―30分ほどうたた寝をしていることを思いました。私にとっては、午後の仕事に向かうために必要な時です。主イエスはそんな私に、「目を覚ましているのだ! うたた寝などしてはならない」とお咎めになるということはないと思います。

 「人の子(イエス)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来る」との話は、弟子たちを驚かせたことでしょう。イエスはさらに、人の子が戸口まで近づいていることのしるしについて彼らに話しました。イエスのこのことばが必ず実現することについても、「わたしのことばは決して消え去ることがありません」ということばによって確かです。

 あとは、イエスの弟子たち、従う者たちがそれを待つことです。しかし、その日がいつ来るのかは彼らには知らされません。だとしたら、いつ人の子が来てもよいように、待つことです。待つ時の姿勢が「目を覚まして」ということなのです。眠り込んでしまうということは、この場合はイエスの再臨を期待しない、忘れる、あるいは備えないということになるでしょうか。

 そして、「みことばの光」が書くように、毎日の生活の中に主イエスの姿を見ないようになる、それが信仰者が眠り込むことなのか、と考えさせられます。


どこに向かっているか

2023年03月30日 | マルコの福音書

マルコの福音書 13章14−27節

 トイレットペーパーのストックが無くなったので近くのスーパーに。ペーパをぶら下げての帰り道、無くなったのですぐに買える環境にいることがありがたいという思いが湧いて来ました。

 この箇所は、「荒らす忌まわしいもの」ということばに始まります。「みことばの光」は、これを旧約聖書ダニエル書9章27節に預言されている神に逆らう者だと書いています。そして、歴史の中では紀元前167年にシリア王アンティオコス・エピファネスがエルサレムの神殿の祭壇で豚の犠牲をささげることを強要したことで実現したと書いています。

 イエスは、それと同じことが起こると弟子たちに警告されるのです。紀元70年ティトゥス率いるローマ軍によって破壊されます。その時に「ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい」というイエスの教えを伝え聞いていたキリスト者たちは無事だったとされています。

 しかし、ここでイエスが教えておられることは、紀元70年にすべてが実現したのではありません。イエスははるか先に起こることについてもここで教えておられます。その中には、偽預言者、偽キリストの出現もあります。そしてこのようなことは、イエスの再臨の時まで起こり続けると分かります。

 苦難の先に確かな希望が待ち構えていることを聞いた弟子たちには、この時のイエスの教えの意味が分からなかったのではないでしょうか。しかし、やがて自分たちが苦しみを受ける中で、イエスのことばが確かに実現することを確信し、希望を抱いたのです。

 26−27節は、私がどこに向かっているのかを教えています。その希望が今の私たちを支えます。信仰ゆえの苦難に遭っている人々を、主よ守り支えてください……。


イエスの名のために

2023年03月29日 | マルコの福音書

マルコの福音書 13章1−13節

 日曜日から夏時間になり、日本との時差が1時間短くなりました。いつもの目覚めの時間が一週間前には5時ですので、何となくもう少し眠っていたい気分を引きずっています。でも、夕方は明るくなりました。

 弟子の一人が驚嘆したのはヘロデ大王が建てた神殿。正確にはバビロン捕囚から帰還した人々が、ゼルバベルを中心にして再建したいわゆる第二神殿に、ヘロデ大王が大規模な拡張工事を施したものです。ヨハネの福音書2章20節に「この神殿は建てるのに46年かかった」というユダヤ人のことばがあります。

 ユダヤ人でないヘロデは神殿の建築工事に力を注ぎ、それによってユダヤ人の心を自分につなごうとしました。しかしイエスは、驚嘆する弟子たちにこの神殿がやがて跡形もなく破壊される時が来ると語ります。そして歴史は、紀元70年にこの神殿がローマ軍によって破壊されたことを伝えるのです。

 イエスのことばは、神殿が破壊されることについてだけではありません。ここでは紀元70年に起こることだけではない、さらに未来に何が起こるのかについても語っておられます。それは今に至るまで、そしてさらに続くことです。

 9節以降では、イエスの弟子たちに待ち構えている苦しみが語られます。しかし、イエスはそのような目に弟子たちが遭わせられることで福音が届けられて行くとも語られます。使徒の働きは、イエスのことばどおりのことが起こったことを記します。

 13節に目が留まります。イエスの弟子とは、世でどのような者なのかということが心に留まります。そして、そうあり続けることによる確かな希望が約束されています。


見かけと実際

2023年03月28日 | マルコの福音書

マルコの福音書 12章38−44節

 月曜日に私たちが「トルコ屋さん」と呼んでいるスーパーで、「バクラヴァ」を見つけました。何層もの生地の間にクルミやピスタチオなどが挟まれていて、焼き上がったら濃いシロップたっぷりとかけてあるお菓子で、いかにも甘そう。紅茶とともにいただきます。

 エルサレムの宮で、イエスは群衆に、それから弟子たちに話をされました。

 37節には「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた」と書かれています。その前に何が起こったのかを振り返ると、悪意に満ちた問いかけに真理を教えることで答えたり、聖書の中の最も大切な戒めを明快に語られたりするのを聞いた周りにいる人々が、イエスの教えを喜んだことを伝えています。

 イエスが群衆に教えられたのは、律法学者たちに気をつけよということでした。社会的に高い立場の人、学識のある人、立派な服装の人を、私たちはしばしば無条件に偉い人、立派な人だと考えてしまうことがあります。しかしイエスは、外に表れているものに惑わされないようにと、教えておられます。「先生」と言われる立場の人はこのような惑わしに自分自身がかかってしまうのです。「私のような者が……」などと口では言いながら、心の中では正反対のことを考えています。

 弟子たちには、宮での献金の場面から教えられました。どちらがたくさん投げ入れたのかについてのイエスの教えは、弟子たちを驚かせたに違いありません。イエスは金額ではなくて、どのような動機で、神へのどのような思いで献金するのかが大切だということを、実際の出来事によって教えられました。

 自分の心の中に何があるのかについて、人の目をごまかすことはあるいはできるかもしれません。けれども、イエスは「見ておられる」のです。見かけではなく実際を……。

 


愛しなさい

2023年03月27日 | マルコの福音書

マルコの福音書 12章28−37節

 日曜日、礼拝のためにお借りしているホールが二つに仕切られて、選挙の投票所になっていました。日本ですと公民館や学校が投票所になることが多いのですが、ここでは教会です。投票に来た方が「ここで何をしているの?」と尋ねてこられました。

 罠にかけようと仕掛けられた問いかけに、イエスは完全な答えを示されました。17節の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」、25節の「死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようです」という教えは、どちらも予告なしに投げかけられた、悪意に満ちた問いかけを受けてのものです。

 陰湿な企てであったとしても、イエスは斥けることなく、はぐらかすことなく、大切な真理を教えられるのです。14節でパリサイ人やヘロデ党の者が、イエスに「真実な方、だれにも遠慮しない方、……人の顔色を見ず、」と口先でのほめことばを届けましたが、彼らのこのことばこそ、イエスの真実な姿を表すものだというのは不思議です。

 その一部始終を見ていたのでしょうか。律法学者が聖書の核心を突く問いかけをしました。彼はイエスを陥れようとして罠を仕掛けたのではなくて、イエスの完璧な答えを見聞きしての質問でした。

 イエスの答えは律法学者を満足、いや感動させました。それは彼がイエスのことばを再びなぞるように語ったことからも明らかです。ここでイエスは何か革新的なことを語っておられるのではありません。モーセの律法の核心は神を愛し、隣人を愛することだと語られたのです。

 これが聖書の核心であるにもかかわらず、度々この真理をどこかに追いやってはいないだろうかと、出発点に戻される対話です。


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