みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

注いでください

2013年08月31日 | 詩篇
詩篇36篇


 健康診断で胃のレントゲンを撮ったところ、影があるとのことできのうは内視鏡検査を受けてきました。
 結果は異常なし。ただし、ピロリ菌がいるので除去しようということになりました。ピロリ菌という名前が何となくユーモラスなのですが、これが胃に巣くっているといろいろと悪さをするということらしいです。

 体内のピロリ菌は薬を服用することで除去できますが、罪はそう簡単にはいきません。
 36篇前半では、狡猾(こうかつ)に語りかける罪の誘惑に乗った人のたどる道が明らかにされます。結局その人は「罪を捨てようとしない」のだというのです。他人事のようですが、これが自分の弱い現実です。

 しかし、すばらしいのは神の恵み。あくまでも高く、あくまでも豊かな神の恵みが歌われます。思い起こすのは、少し前まで読んだマルコの福音書での十字架。イエスの十字架こそ、高く豊かな神の恵みがほとばしりでる場だということです。人が罪からのがれられる道はたった一つ。

 内視鏡といえば、検査の前には水分を摂ることができません。これが暑い夏には結構大変。水が飲めないとなると、かえって飲みたくなるものです。ですから、「注いでください。あなたの恵みを、…」ということばは、今朝の私にはとてもありがたいことば、そして私の祈りでもあると思わされました。


 8月もきょうで終わり。猛暑よさよなら! といきたいところですね。

      


答えがないように思えるとき

2013年08月30日 | 詩篇
詩篇35篇


 きょうの「みことばの光」タイトルは「ダビデのツイッター」。
 このツイッター、この頃は悪ふざけをちょっとつぶやき、写真をアップしたのが拡散して大きな問題になったなどということが繰り返されていますね。世界中に張り巡らされているネットに一旦乗ってしまうと、あっという間に…、ということですから、やたらなことはつぶやけません。

 この詩篇でダビデがつぶやいているようなことが拡散したら、「暴虐な証人ども」とはだれのこと? きっとあいつだと、たちまち炎上してしまうかもしれません。しかし、彼は神につぶやきます。他にも、作者が大きな苦しみや悩みを訴える詩篇はありますが、35篇の場合はかなりの長さに亙っています。それはおそらく、ダビデの祈りや願いに、長い間神の答えが見られなかったということを示しているのかもしれません。

 「いつまでながめておられるのですか。」
 「黙っていないでください。…遠く離れないでください。」
 「奮い立ってください。目をさましてください。」

 このようなことばを並べてみると、眠っている親を揺り動かして起こそうとしている子どもの情景が浮かびます。もちろん、神は眠っているのでも知らんふりをしているのでもありません。
 あとで振り返るならば、いちばん良かったという時に神の答えがあるということが多いのではないでしょうか。 
 
 その時まで、つぶやき続けることができる恵みを、神から賜っているのはありがたいことです。神に対してなら、どんなことでも、何度でもつぶやき続けられるのです。 

   


あらゆる時に

2013年08月29日 | 詩篇
詩篇34篇


 朝歩き、サラ・ブライトマンの透き通った歌を聴きながら歩いていると、それに合わせるように蝉の鳴き声が…。まったく合わないような両者が共演しているような瞬間が感じられて、とてもおもしろかったです。

 「みことばの光」は詩篇34篇に「恵みの展示場」というタイトルを付けました。
 なるほど、と思います。神の恵みが充分であることを改めて味わいました。

 ここ数週間ほど、予期せぬ自体が次々に起こって、追われるような毎日。ふと気づくとつぶやきやため息が出ています。そのような中で、今朝初めて飛び込んできたみことばが「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」でした。

 そうなのだ! あらゆる時に主をほめたたえる。良い時も悪い時も、神の恵みは私に充分であるのだということを、この一言が教えてくれました。
 敵の手から逃れるために、気が違ったように見せかけほどに追い込まれたダビデのような体験は私にはありません。しかし、端で見てどんなに小さなことであっても、その人にとっては大きな悩みです。

 「主は聞いてくださる」「主は…すべてから彼を救い出される」ということばも、狭く閉じ篭もりかけていた心を大きくしてくれました。
 さあ、きょうという航海に乗り出しましょう。

       


女たち

2013年08月28日 | マルコの福音書
マルコの福音書16章
 
 朝夕は涼しい風が心地よくなりました。寝苦しさがいつの間にかどこかに行ってしまったようです。
今朝も、ひんやりする空気の中を歩き出しました。
 
 マルコの福音書の終章です。多くの写本は8節までで終わっています。おそらく、本来マルコが記したのはここまでだったのでしょう。けれども、8節は「…恐ろしかったからである」と終わります。マルコの福音書は「…恐ろしかったのである」と終わるのです。
 想像ですが、これではあまりにも唐突な終わり方だ、それにこの福音書を読み聞かされてきた人々が、「…恐ろしかったからである」と終わったら、「そのあとは?」ときっと言うに違いありません。そこで、ルカの福音書にあるような、マタイの福音書にあるような復活後のイエスについての「エピソード」が加えられたのかもしれません。

 安息日が終わり、イエスのからだが納められた墓に来たのは女たちでした。
15章40、41節には、この女たちはイエスの十字架を遠くの方から見ていた、いや三人だけでなくてたくさんの女たちがいたということがわかります。さらに、47節にはマグダラのマリヤとヨセの母マリヤはイエスのからだが納められる所をよく見ていたともあります。

 彼女らは、イエスがガリラヤにおられたときから、「いつもつき従って仕えていた」のです。それは、十字架にまで、そして墓にまで…だったということなのですね。この頃の弟子たちの有り様とは好対照だと思います。

 墓に着こうとしていたとき、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と彼女たちが話し合っていたというのが、よく考えるとおもしろいですね。どうしよう、でも何とかなるだろう、とここまで来たのです。主につき従うとはこのようなことなのではないかと、目が開かれる思いがします。

        


決して捨てない

2013年08月27日 | マルコの福音書
マルコの福音書15章33-47節


 2ヶ月前に栃木県益子町に行った時、茶わんと小鉢をろくろで作りました。焼き上がったので取りに来てくださいとの連絡を受け、きのう出かけてきました。でき上がったのを見ると…、少しずつ愛着が湧いてきますから不思議なものですね。神が私たちの陶器師であるとの聖書を思い起こしました。

 イエス・キリストが十字架上でお亡くなりになる場面。改めて、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との十字架上のことばを思いました。神の御子として罪を犯すことなど一つもないゆえに、神に見捨てられるはずが全くないお方が、罪ある者として神に見捨てられたのです。
 
 この場面には、イエスが十字架にかかられたことで、今までとは違う新しい局面がこの世界に開かれたことを象徴する出来事がいくつかあります。
 一つは神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたことです。これは、人が聖なる神の前に立つことができるようになったのを象徴しています。
 さらに、百人隊長の「この方はまことに神の子であった」との一言。イエスの十字架はすべての者のためのものだと言うことを象徴しています。

 私は、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との祈りは、イエスが自分の代わりに神に見捨てられたのだと信じ、自分の主であると信じる者にとっては、そのまま「あなたを見捨てることをしない」というイエスからのメッセージなのだと思えました。

   


2011-2024 © Hiroshi Yabuki