みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

聞いて行う人

2014年03月31日 | マタイの福音書
マタイの福音書7章15-29節


 東京の桜は満開だそうです。当地は7分咲といったところでしょうか。青い空にほぼ白に近い桜色を見ると、ああ、春が来た! と感動します。
 きょうは多くの事業所の年度の終わり。この記事も新しく始まる障害ある人のグループホームで書いています。明日がオープン。7人の新しい家族が誕生します。さて、どんなふうに毎日が進むのかが楽しみでもあり、ドキドキでもあります。

 「山上の説教」を終えるにあたり、主イエスは岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人にたとえて、ここで主が語られたことを聞くだけではなくて、聞いて行うよう促しています。神のことばは誰にでも語られます。聞こうと思うならば誰もがみことばを聞くことができるのです。

 分かれ目は、聞いたことを行うか行わないか。
 かたちとしては良いことを成し遂げたとしても、いつの間にか自己満足が心を満たします。神の子どもが持つものではない喜びが心を占めてしまうからです。そのようなことから自分の心を守るためには、みことばを聞くこと、聞いたことを行おうとする姿勢を保ち続けることなのだということに気づきます。
     


あなたの宝を

2014年03月29日 | マタイの福音書
マタイの福音書6章19-34節


 花の開花写真。ついでにもう一つ。レンギョウでしょうか。Img_1650

 消費税増税前とのことで、少しでも節約しようとお店は買いだめを奨め、消費者はそれに乗っかります。私などは、なったならなったで買わなければいいという考えですが、先日ホームセンターに行った折りに、徳用洗たく洗剤を2つ購入。家に持ち帰ったら、何といつの間にか徳用洗たく洗剤が8つになっていました。これはりっぱな買いだめ。自分の主張はどこにいったの? と責めています(そんなに深刻にではありませんが…)。

 主イエスは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とおっしゃいました。自分の心はどこを向いているのか、何を求めているのかに注意しようではないか、と問われる一言です。

 「みことばの光」が書くように、いのちとからだを与えてくださった神が私の必要を知らないはずはないし、必要ならばすべてを備えてくださると心を定めたら、懸念や不安のほとんどはどこかに行ってしまいますね。

 よい週末、そして日曜日をお迎えください。
     


天のお父さま

2014年03月28日 | マタイの福音書
マタイの福音書6章1-8節

 
 開花したのは桜だけではありませんでした。こんな花も…。Photo
 写真をきのうの家庭集会で見せましたら、ある方が即座に「ああ、ミツマタよ」とおっしゃいます。ミツマタは、枝が必ず三つに分岐するのでそう呼ぶのだそうですね。これで私の貧弱な花知識が、ちょっとだけ増しました。
 ミツマタは、和紙の原料でもあるのですね。冬の間、枯れたようになっていたミツマタが、どのように光と温度を感じて花を咲かせるのか、とても興味があります。

 「天のお父さま」と呼びかけて祈ることのできる素晴らしさを、きょうの箇所を呼んで覚えました。「ああ、自分は神さまの子どもなのだ」という感動を、「天のお父さま」と祈るたびに覚えているか、とも問われます。祈るときの定型句とだけしていないだろうかと…。

 近くに住む一歳半の孫は、絵本を読んでもらいたいときにはトコトコとその絵本を持ってきて「じいちゃん」と言います。「よし、読んであげましょう」と私が答えると、ひざの上にちょこんと乗って読んでもらう準備をします。
 「じいちゃん」と呼ばれると、うれしくて何でも答えようという気持ちになるのが不思議です。

 「天のお父さん」と呼びかけると、神さまは「どれどれ…」と身をかがめて聴いてくださる、こんなにも素晴らしい関係の中に自分はいるのです。
   


隠れた所で見ておられる

2014年03月27日 | マタイの福音書
マタイの福音書6章1-8節


 当地でも桜が開花しました。きょうの朝歩きでの一コマ。Photo

 きょうからは手袋なしでも快適に歩くことができるようになりました。

 人の目を気にしないでいられたらどんなに楽だろうかと思いますが、そうはいきません。
 「だれも自分をじろじろと見てはいないから」と言い聞かせますが、それでもどこかに出かけるときにはそれなりに服装などに気を遣います。外見ばかりでなく、ことばや振る舞いが他人にどう思われるかも気になることかもしれません。

 「みことばの光」が書くように、愛の実践、祈り、断食などの鍛練が人前にどうかという動機でするのだとしたら、信仰の歩みは、人がどう見るかどう思うかという価値観で左右されているということになります。
 それを避けるためには、「隠れた所で見ておられるあなたの父」を覚えることだと、主は教えておられます。

 きのうは建築を終えたグループホームの完了検査の日。
 調えた書類を提出し、担当の方が一字一句チェックしていくという緊張の時間でした。朝からバタバタして、グループホームに向かう途中、車の中で祈りました。「あなたがご覧になり、すべてをご支配くださるように…」と。いくつかの指摘を受けましたが、検査は終了。隠れた所で見ておられる私の神に感謝をささげました。
   


完全をめざす者たち

2014年03月26日 | マタイの福音書
マタイの福音書5章43-48節


 孫を連れて公園を歩きますと、すれ違う方がニコニコと話しかけてきます。名前も知らないどなたかと、孫のしぐさを通して小さなコミュニケーションが生まれます。ああ、人はつながっているのだと思います。
 満員電車に乗って、ちょっとからだを動かすと「チッ」との舌打ちが…。自分の領域を確保するためにだれもが必死です。密着しているのに、知らない人との間に見えない垣根を互いに巡らしています。人と人とがつながるのは難しいと思うときです。

 家族だから、親しい間柄だからといって、良い関係が保てるなどということはありません。いいや、かえって抜き差しならない状態に…というのは、近いからこそ起こるのかもしれません。

 律法学者たちが自分たちが守りやすいように「隣人とはこの人たちのこと」「敵とはこの人たちのこと」と範囲を決めていたのは、人を愛することがどれほど難しいかを物語っています。「ああ、自分はあの人を愛せない」といつも自分を責めていたのでは病気になってしまいますから、「あの人は愛さなくてもいいんだ。いや、憎んでもいい。敵だから…」とすることで、その人の心の平安は保てます。

 しかし、主イエスはそんな私たちに挑戦しておられます。
 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と。
 すぐに、できない自分に直面します。「心の貧しい者」「悲しむ者」です。しかしそれこそ、自分で! なんとか! ではなくて、神のわざがこのような者のうちに始まる瞬間です。
     


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