みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

理想の王

2019年12月31日 | 詩篇

詩編 72篇

 月曜日,近くのショッピングモールに行きましたが,いつにましての大勢の人々。クリスマスの飾りの下で,移動式観覧車に乗る小さな子どもたちの声が楽しそうに響いていました。2019年の最後の日ですね。日本ではクリスマスはとっくに終わって,人が集まる所には正月の飾りがにぎやかなことでしょう。

 詩篇72篇は冒頭は,以前の聖書では「ソロモンによる」と訳されていましたが,今用いている「聖書新改訳2017」は「ソロモンのために」とあります。

 ソロモンを主イエス・キリストは「栄華を極めたソロモン」と言われました。そのように彼は,ダビデの後継者として豊かな知恵を神から賜ったばかりか,豊かな富を自分のものとしたとして知られています。しかし,悲しいことにソロモンは,自分が目に見える豊かさに埋もれるようになるにつれて,神の心から離れてしまいました。

 本篇に繰り返されているのは,理想の王の姿です。このような王であってほしいと民がソロモンのために祈ったとも考えられます。この王は,神の義を賜ってそれを正しく用います。民を公正にさばき,平和をもたらします。苦しむ者や貧しい者たちの側に立ち続けています。そのような国には神の祝福が豊かに注がれ,民は神を恐れ,地も潤されて豊かな実りをもたらすのです。

 果たして,歴史の中でこのような王はいたのだろうかと立ち止まってしまいます。大きな権力を持つ者が,それを自分や自分の気に入った人々のために用いるなどという権力者の姿が目につきます。

 ここに描かれる王の姿と重なるのはイエス・キリストです。この王に仕える幸いを覚えて,新しい年を迎えたいと願いました。


年老いた者の決意

2019年12月30日 | 詩篇

詩篇 71篇

 昨日は、今年最後の日曜日礼拝でした。車を停めた場所の脇に、何と馬たちが…。寒空の中牧草を食んでいました。ああ、やっぱりここは田舎なのだと実感。地下鉄で超高層ビルが建ち並ぶ中心地から20分ちょっとで、こんなところに行けるとは、何と良い所だろうと思ったことです。

 本篇は、年老いた者の決意表明のようです。神への願いを真っ直ぐに述べているとともに、「私は…です」とも繰り返します。特に、「年老いたときも」「私の力が衰え果てても」「年老いて 白髪頭になったとしても」などのことばから、作者は歳を重ねて力が弱くなる中にいたことがわかります。

 すると、彼を快く思わない者たちが「神は彼らを見捨てた」と言い、捕えようとします。力が弱くなる中での危機。ですから彼は「わが神よ、急いで私を助けてください」と危急の願いを神にささげるのです。

 教えられるのは、もう私は歳を取ったから何もできないとは言っていないことです。「私はあなたの力とともに行きます」と決意を明らかにしています。人の力に衰えが見えてきても、神の力が伴うのです。これほど力強いことはありません。

 ですから彼は、神の力とともに行くという事実を確認して、そのことを誰かに伝えたくて仕方がありません。そのように歳を重ねて行きたいと思います。


あなたの御前に

2019年12月28日 | 詩篇

詩篇 69篇

 小さなお友だちとの三日間も過ぎ、再び二人の生活に戻りました。子どもたちのパワーに、こちらも力づけられました。

 本篇は衝撃的に始まります。泥沼の中でもがき、水がのどにまで入ってくるようななかから、ダビデは「私をお救いください」と神に祈ります。聖書が記すダビデの出来事にはそのような記述がありませんので、自分の受けた敵する者からの仕打ちを泥沼に沈められたように描いたのかもしれません。また、記述がなくても実際にそのような経験をしたことがあったのかもしれません。ここはまた、預言者エレミヤの体験とも重なります。⇒エレミヤ書38章6節

 ダビデには敵がいます。彼らは理由なく彼を苦しめるのです。しかし同時にダビデは、正義を振りかざしているのでもありません。自分の愚かさや数々の罪過を神の御前に告白もします。自分の罪を覆い隠さず、あの人、あの人々が悪いのですと彼が神に祈らないことに、彼の真実を見ます。

 彼がここで受けている苦しみは、イエス・キリストが受ける苦しみの預言でもあります。9節のことばは、ヨハネの福音書2章17節に引用されています。イエスがエルサレム神殿でいわゆる「宮きよめ」をなさった時、そのお姿を見た弟子たちは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるこの箇所を思い起こしたと書いてあります。

 もう一つ、心に留めたのは19節の「私に敵する者はみな あなたの御前にいます」ということば。自分一人が神の御前にいるのではなく、自分を迫害する敵も神の御前にいると彼は自分の身に起こる出来事を受け止めています。大切な気づきだと教えられます。


主はみことばを与えてくださる

2019年12月27日 | 詩篇

詩篇 68篇

 訪ねてくださった小さなお友だちと楽しい時を過ごしています。カードゲームでは記憶にいささか自信がない私たちが、子どもたちに迫るほどの成績で、「まだまだだいけるか…」と思うようなことも…。

 本篇を読んでまず思ったのは、動きが見えるような、音が聞こえてくるような詩篇だということでした。

 1節には神が立ち上がり敵がちり失せ…逃げ去るという動き、2節には煙や火の描写、3節の踊りと楽しみ、4節では賛美の中を雲に乗って来られる主を賛美し、御前での踊り、7節には、御民に先だって出て行く神のお姿、シナイでの地の揺れ動き、恵みの激しい雨音など、まだまだ続きます。

 本篇の作者は、出エジプトの出来事を思い起こしながら、神がご自分の民を力強く導かれるお方だと歌っています。11、12節からは、苦境にある者に主がみことばを与えてくださると歌われています。今年もあと数日を数えるだけになりました。さまざまなことが起こる中で何が自分を支えたのだろうかと振り返ってみるならば、たしかに毎日読み続ける聖書のことばが、一日の歩みのための備えとなってことをおぼえます。

 裏返しになっているカードがどんな絵柄だったかをすぐに忘れてしまうような者ですが、忘れても忘れても、読み続けることで、神のことばが私の足のともしび、光となって導いてくださったのだと改めて思います。

  ありがたい一年でした。


諸国の民が

2019年12月26日 | 詩篇

詩篇 67篇

 昨日のクリスマスはどのようにお過ごしになりましたか。私たちは、訪ねてくださった方といっしょに街歩きをしました。いつもとは打って変わっての静かさ。お店もほとんどが閉店。電車やバスもがらがらでみんなはどこに行ってしまったのだろうかと思うほどでした。年に一度のこの時に、家族でいっしょに過ごしておられるのでしょう。

 「みことばの光」、きょうから年末にかけては詩篇を読み進めます。

 この詩篇の作者は、神のご支配がすべての人々に及ぶときに、彼らは真の喜びを経験し、それゆえに神をほめたたえるようになるということを伝えようとしています。ここから思うのは、神がなさることがどのようにして諸国に間で広げられていくのかということです。それは、まずご自分の民として神によって選ばれた者が神の祝福を受けることから始まります。

 この詩篇には、短い中に繰り返し用いられていることばがあります。その一つは「諸国の民」ということばです。3節と5節に同じことばが繰り返され、その間に「国々の民が喜び また喜び歌いますように。それは あなたが公正に 諸国の民をさばき 地の国民を導かれるからです」ということばが置かれます」が挟まれています。

 7節のことばに目が留まります。神の祝福はまず「私たちに」そして、それが広げられていき諸国の民に、やがて地の果てのすべての者が神を恐れるように…なのです。一人の主にある者がどのように生きるのかは、世界の祝福に通じるというのは大げさなことではないと、ここから教えられます。

 


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