みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

仲裁者

2011年09月30日 | ヨブ記
ヨブ記9章21-35節


 木曜日の夜は週に一度の英会話。先生は小学校で英語活動を指導しているSさん。フィリピンの方です。1時間は英語だけを用いなければなりません。それも、彼の身辺に起こったことをペラペラ、ペラペラ…。こちらが割って入らないと、ずっと話が続きます。
 でも、それがなかなかよいのです。いつの間にか聴き取りができるようになり、そうなると話ができるようになるから不思議です。巷でコマーシャルをしている「何とかラーニング」の効果は確かにあるぞ、とうなずけます。
 昨日の話題は、「9月はとても長かった!」です。Sさん曰く。「きっと9月は暑い日が続いて、それから涼しい日が続くので、暑さ、涼しさと二重に経験するので長いんだよ。」(??)。
 きょうで9月が終わります。9月は長く感じましたか、それとも短く感じましたか。

 神が一言もお語りにならないのは、ヨブにとってはつらいことでした。長く感じられたことでしょう。
「私は潔白だ」とは、ごう慢とも取られかねないことばです。しかし、ヨブは神との契約の中で生かされていることを確信しているので、このように言えるのです。しかし、神からの語りかけは依然としてありません。それゆえに、自分の確信は揺れ動き、神は結局のところ潔白な者も悪者も同じように滅ぼされるのではないか、とさえ言うのです。

 しかし、それでもヨブは沈黙し続ける神を信頼します。その中から、仲裁者がいてくれたならば、自分と神との仲立ちをしてくれるお方がいてくれたならば…、との思いに至るのです。
 ここを読むと、私たちには仲裁者がおられるではないか! との感謝がわき起こってきます。イエスさまがおいでになり、イエスさまが私たちのとりなしをしておいでになることが、何とありがたいかと、うれしくなります。

 試みの中にあっても、いやその中にあるからこそ、神に信頼して訴えることをあきらめてはならないのだ、と改めて教えられます。

 
 


隔たりはあまりにも大きい、が…

2011年09月29日 | ヨブ記
ヨブ記9章1-20節


 昨晩の教会の祈祷会。互いの分かち合いの話題はヨブ記のことに。「『遠くの書物』という感じでいたが、読み進めて行けるのでは、と思った」とか「今ヨブ記を読む意味は確かにあると思う」などとの前向きなことばに、ホッと胸をなで下ろしました。

 ビルダデは「神は潔白な人を退けない」とヨブに罪を告白するように迫るのですが、あまりにも軽いことばのように私には感じます。「まことに、そのとおりであることを私は知っている」というヨブのことばには、自分の今の苦しみを一般論で片づけないでほしいとの願いがこもっています。
 自分は潔白である、しかし、偉大な神に私は何も言えないし、偉大な神は私のことばになど耳を傾けてくださらないと、ヨブはさらに苦しむのです。たとい神に身の潔白を訴え、神が聞いてくださったとしても、とてもじゃないが偉大な神の前に言い負かされて、結局は罪ある者とされてしまうだろう、とも嘆いているのです。

 確かに「みことばの光」にあるように、「神と人間との隔たりはあまりにも大きい」のです。それだからこそ、大きな大きな隔てをものとせず、神のひとり子がこの世界においでになったのは息も詰まるほどの出来事だったのだということを、そして新しい契約に生かされている者の幸いを、改めて思いました。

 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5章1節)

 


もし、…

2011年09月28日 | ヨブ記
ヨブ記8章


 「みことばの光」の編集は、きのうが12月号の最終チェック。すでに一度チェックして「だいじょうぶ!」と思っていたのですが、「うーん。この表現はわかりにくい」「前の文章とのつながりがね」など、修正箇所がたくさん出てきました。Macの画面上で修正した後、印刷してみるとさらに修正箇所が…。
 見ているようで案外見ていないものなのですね。Yさん、お疲れさまです。

 ビルダデも、見ているようで実は見ていないのです。
 彼の言うことは一見もっともです。しかし、すでに登場したエリファズと同じように、ヨブの激しい言葉尻をとらえては、「あなたは罪を犯したのだから、神の前に悔い改めなさい」と勧めます。エリファズは自分の神秘体験をもとにヨブをたしなめましたが、ビルダデは先人の知恵を拠り所にします。

 「もし、…なら」ということばの繰り返しが目に留まります。自分はあなたの苦悩の解決法を知っている。「もし、…」を実行してごらんなさい。そうすれば繁栄を取り戻し、笑いがあなたの口から出るようになる…。
 ビルダデは、激しいヨブの苦悩に寄り添いながらも、あくまでも「因果応報」の原理によって診断し処方するのです。

 「もし、…なら」というのもまた、相手を理解しようとしないで事を進めてしまう場合に用いる、私たちの常套手段だと思いました。でも、前提が間違っているのならとんでもない傷を相手に負わせることになってしまうのですね。





私の日々は…

2011年09月27日 | ヨブ記

ヨブ記7章

 月曜日はできるだけ休みをとるようにしています。昨日は久しぶりに孫ちゃんたちを遊ばせに(いや、遊んでもらいにというのが正しいか!)、出かけました。
 ほぼ一ヶ月ぶりの再会なのですが、ちょっと見ない間にずいぶん大きくなっているのでびっくり。お昼ごはんの前にお姉ちゃん(と言ってもまだ2歳になっていないのですが…)とお散歩です。以前だとすぐに抱っこしてほしいと言っていたのが、昨日は力強くどんどん歩きます。歩道にアリを見つけては身を屈め、小さな花を見ては「きれい!」を連発。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいました。
 それに引き換え、「○○フィットネスマシン」での1分間というのは実に長く感じてしまうのですから、不思議なものですねぇ。
 
 神さまは誰にでも一日24時間という平等な時間をくださっているとよく言われますが、その感じ方は様々だと思いますね。楽しい時はあっという間で、つらい時はなかなか時計の針が進まないように感じます。つらくても、その先に希望が見えるのならばなんとか耐えられますが、ヨブの場合には先が見えないのです。
 ですから、ヨブは苦悩の日々が重く長く続くと思いながら、同時にそこに意味を見出すことが出来ずにいるので、むなしく過ぎ去ってしまうとも嘆いているのです。

 そして、ヨブはそのような苦悩の中から神に祈り求めます。こんな日々が続くのならば一刻も早くいのちをとってくださいと…。この言葉尻を捉えて、「なんという不信仰なことを…!」と人を責めてしまう自分の姿も見えてきます。
 でも、これは「神よ。お答えください。お話ししてください。私はなおもあなたに信頼しますから」という、この時のヨブの信仰表現だと思うのです。

 


思い切って私のほうを向いてくれ

2011年09月26日 | ヨブ記
ヨブ記6章14-30節


 節電対策として日曜日就業を行なっていた企業に勤める方とともに、夕方の礼拝をもっていましたが、昨日で一旦終了。はじめは二人だけでの礼拝かと思っていましたが、ほかに何人かの方も加わる日もありました。礼拝後はいっしょに夕食。昨晩は楽しみにおいでになっているもうひとりの方が、ご自分で揚げた天ぷらを差し入れてくださいました。 ごちそうさまでした! 「夕食会」はこれからも続けていくことになりそうです。

 きょうの箇所には、友に裏切られたヨブの落胆の大きさが描かれています。
友人のひとり、エリファズのことばを聞いたヨブは、「今あなたがたは、そのように(雨期だけに水が流れるワジ)なった」と語ります。ヨブの惨状を目の当たりにして、ヨブから何か求められるのではないかと身構えている友の心をも、ヨブは見抜いています。
 
 「まっすぐなことばは何と痛いことか。」
まっすぐなことばとは、相手の苦しみの分けを理解しようとしないでたとえば神のことばを突きつけてくることを指しているのでしょうか。腰が引けているので、「私なら…」(5章8節)ということばで「お茶を濁し」、神についての教えを振りかざして間違った見立てをして、友人たちはヨブの心をぐさりぐさりとえぐっているのです。

 それでもヨブは、友に期待しています。
 「思い切って私のほうを向いてくれ」と叫んでいる人が、私にもいるように思うのですが、「わかりました。そうします」と真正面に向き合うには勇気がいります。





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