みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神が味方であれば

2019年12月21日 | ナホム書

ナホム書 3章

 昨日の朝の空の美しさは息をのむほどでした。茜色が黒い雲を染めるように広がっていきます。また、その景色が刻一刻と変わっていくのです。写真に収めましたが、表現するのは難しい…。「朝焼けは雨」、そのとおりの天候になりました。

 日本語の旧約聖書の終りの部分にまとめられている、いわゆる「小預言書」の一つ一つはそれぞれ個性的です。その中で、「ナホム書といったら神のアッシリアへのさばきのメッセージ」と覚えることができるでしょう。3章から成る「ナホム書」を読み、神のアッシリアへの怒りとそれゆえのさばきの厳しさに、圧倒されるような思いになります。少しは慰めのことばをかけてくれても…という気にさえなりますが、それは人間的思いなのでしょう。そうではなく、人の罪とは神の前にこれほどのものなのだということを心に刻むべきなのです。

 5節の「見よ、わたしはおまえを敵とする」という神のことばを心に留めます。神を敵とするというのはこのようなことなのです。そして、パウロのことばを思い浮かべます。「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ人への手紙8章31節)

 きょうの「みことばの光」には、「神は御子を十字架に架け、地の中(よみの腹)に呑み込ませてまでも、私たちを救おうとされた」とあります。アッシリアのニネベといえば、同じ小預言書の「ヨナ書」を思い浮かべます。神はヨナを魚の腹の中に三日三晩飲み込ませたあとで、ニネベに遣わされました。ニネベを救うためにヨナを遣わした神は、私たちを救うためにご自分の一人子を遣わされたのです。

 きれいな飾りで埋め尽くされたクリスマスマルクト、でも、クリスマスはそのようなもので彩るようなものではないのだとも考えるのです。

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敵とするな

2019年12月20日 | ナホム書

ナホム書

 電車に乗り、発車するとすぐに大切な忘れ物をしたことに気づきました。次の駅で降り、一駅を急ぎ足で戻り、また出直し。そのために、約束の時間に10分遅れてしまいました。「電車の一駅を歩きで?」と思われる方に…。数百メートルの距離なので歩いたほうがよいと判断したのですが、電車に乗ったほうがわずかながら早く戻ることができたようです。

 何ごとかが起こったとき、次に何をするのかを即断しなければならないことがあります。歩いて戻るか、電車を待つのか…と。昨日経験したようなことならば10分の遅れで済みますが、その時の判断次第で大きな転機をもたらすような場合もあります。

 ナホム書2章には、大国アッシリアに対するすさまじいばかりの神からの攻撃が描かれています。アッシリアの力や栄華は、まるで水が流れるようにして、失われていきます。弱小な相手を踏みにじっていた高慢の鼻はへし折られ、勇気あふれた者たちの顔を恐怖でおびえている…というような景色が広がっています。

 何がこれほどの恐怖をアッシリアにもたらしたのか、それは権力を持つゆえの神への高ぶりです。誰一人として、どの国であっても力を用いる立場にいる者は、神がそれらを正しく用いるようにと与えられたということを忘れてはならないのだと、ナホム書を読みつつ何度も考えるのです。高ぶる者は必ず神によって折られるということを、教えられます。

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良い知らせを伝える人の足

2019年12月19日 | ナホム書

ナホム書 1章

 クリスマス礼拝やお祝いの会の案内を貼ってくださっていた韓国食料品店に買い物を兼ねてお礼に伺いました。店主の方のアイディアで、レジの上にみことばと教会名を刷ったカードを置いてくださるようになりました。一つの容器に、韓国語の聖句カードと日本語の聖句カードが入っています。

 ナホム書は、「ニネベについての宣告」から始まります。ニネベというと預言者ヨナを思い浮かべる方もおられることでしょう。ニネベは長い間中東世界を支配していた大国アッシリアの都です。特に紀元前700年代後半には、北と南とに分かれていたイスラエルを脅かし、ついには北王国イスラエルを滅ぼし、南王国ユダにも攻め入ってエルサレムを落とそうとまでしました。「みことばの光」の「ナホム書を読む前に」には、アッシリアが圧倒的な暴力によって征服した人々を支配していたとあります。

 ナホム書1章には、神がアッシリアを激しい憤りで砕くということが語られます。その激しい描写は読む者をおののかせるほどです。2節には復讐ということばが三度用いられています。復讐とは、自分が何らかの害を被った時に、その害の原因となった相手に対して害を与え返すということです。神はここで、アッシリアに復讐すると言うのです。神はアッシリアからどのような害を被ったのでしょうか。ご自分が選んだ民がアッシリアによる暴力的な支配を受け、あわや! というところまで追いやられたことです。

 15節の「見よ。良い知らせを伝える人の足が、平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある」ということばが目に留まります。伝令がアッシリアの敗北を告げに各地に急ぎます。「もう駄目だ」とあきらめかけている人々のところにも、良い知らせが届こうとしているのです。もう少しで吉報が届く、ほら、そこまで来ている。耳を澄ませよ、足跡が聞こえないだろうか…。そのような光景が目に浮かべます。

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あなたに立ち向かう

2014年12月20日 | ナホム書

ナホム書 2章

 何回かに分けて、クリスマスカードを投函し終えました。郵便局の方が気が利く方で、外国行きの郵便物には「国際文通週間」の記念切手がよいでしょうと提案してくれました。「へぇ、国際文通週間ってまだあったんだ!」とびっくり。中学生の頃に、切手を集めて将来高くなったら打って儲けようなどということを考えたこともあったので、「国際文通週間」というと価値の高い切手の一つで覚えていたのです。

 ちなみに、今年の110円切手の図柄は歌川広重による「東海道五拾三次之内浜松」とのことでした。FacebookやTwitter、LINEなどであっという間にことばが届き返って来る今、「文通」ということばが生きていることも驚きです。

 手紙のやり取りって、メールのやり取りにないよさがあると思うのです。こちらが書いた手紙が数日で届き、また数日かかって返事が届くとしたら、少なくとも一週間はかかります。急ぎでなければ、そんなやり取りもいいと思います。

 ナホム書2章には、力を誇り周辺諸国を押さえつけていたアッシリヤを主が滅ぼしてしまうとの預言があります。「みことばの光」」が書くように、軍事用語を多用してアッシリヤのニネベが攻略される様が描かれます。

 心に留めたのは「見よ。私はあなたに立ち向かう」という13節のことば。神を敵に回すことの恐ろしさを伝えているとともに、神が私の味方ならばこんなにも心強いことはないと、一つの聖句を思い起こしました。

 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」

                       ローマ人への手紙8章31節」

 

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苦難の日のとりで

2014年12月19日 | ナホム書

ナホム書 1章

 あちこちからクリスマスカードが届きます。ドイツにお住まいの方からのカードには、チョコレートがいっしょに送られてきました。ごちそうさまです! かかわりを持つ障がい者の支援施設「行田のぞみ園」でも、この歳末にたくさんのご注文をいただいています。ほんとうにありがとうございました。

 「みことばの光」の「ナホム書を読む前に」にありますが、「ニネベに対する宣告」と始まるこの書は、ニネベに語っているというよりも、ニネベによって存亡の危機を体験した南王国ユダに語っています。

 ニネベとはアッシリヤの首都。アッシリヤは紀元前12世紀から7世紀の中東世界において力を持っていた大国。特に紀元前8世紀には、北王国イスラエルを滅ぼし、南王国ユダにも攻め込んでエルサレムはあわや崩壊かというまでの危機に陥れました。

 2節から8節には、主がどのようなお方なのかを知ることができます。罪に対して激しく憤りお怒りになる一方で、いつくしみ深いお方だとしても描かれています。

 心に留めたのは、「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである」とのことば。敵がどんなに強大でとてもこちら側の手に負えないとしたら、万事休すです。ところが、この章にはたとい敵がアッシリヤであったとしても、主が自分たちのとりでなのだ、だからアッシリヤもやがて主がおさばきになることが明らかにされています。

 手に負えそうもないことをたくさん抱え込むときがあります。何と力なく、心が貧しいのだろうかと嘆くことも度々です。けれども、やはり主が私たちの苦難の日のとりでだということゆえに、落ち込んだままでしょんぼりという状態だとしても、望みがあるということを知らされます。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki