みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の道は平らだ

2020年12月19日 | ホセア書

ホセア書 14章

 朝霧で空けた金曜日でした。当地でもワクチンの接種が27日から始るとのことが連邦保健大臣の記者会見で明らかになりました。この国に住むすべての人が接種対象ですが、供給量に限りがあるので優先順位をつけています。ちなみに、私は優先順位第2グループ。

 姦淫の妻をめとり愛する夫、背を向ける子どもをそれでも愛し戻るように声を掛け続ける親、ホセア書のメッセージは、家族の絆と重ねて神がご自分の民イスラエルを招き続けるものでした。

 最終章でも、主はイスラエルにご自分に立ち返るようにと呼びかけます。しかも主はここで、主に帰って来る時に彼らが何を語るのかのことばさえ、ご自分で用意しておられるのです。そして、4節以降では神のもとに帰って来るイスラエルの背信を癒やし、愛すると約束し、豊かな実りをもたらすとの保証をも与えておられるのです。

 9節のことばに目が留まります。本当の知恵とは神のことばをわが事として、そのことばにしたがって歩むことを言います。箴言のテーマでもある「主を恐れることは知恵のはじめ」ということばが頭に浮かびます。さらに主は、ご自分の道は平らだと言っておられます。イスラエルの民が主に背いたのは、カナンの地に住み、カナンの人々の神々を取り入れたからです。それがカナンに住む者にとって平らな道なのだと、彼らは思ったのです。

 しかし、本当に平らな道は主が備えられた道。目に見えるものによってではなく、神を信頼して進む道は常に平らなのです。

「わたしは目の見えない人に、知らない道を歩ませ、知らない通り道を行かせる。彼らの前で闇を光に、起伏のある地を平らにする。」イザヤ書42章16節


エジプトの地にいたときから

2020年12月18日 | ホセア書

ホセア書 13章

 アドヴェントを過ごしています。この時期、日に一度シュトレンをおやつにいただきます。シュトレンとは粉砂糖に包まれた焼き菓子。大きいのもあれば、小さいのもあります。全体が粉砂糖で覆われていて、白い産着をきた赤ちゃんの形を表すも伝えられています。救い主の誕生にまつわる話ですね。

 ホセア書だけでなく、北王国イスラエルについて聖書が語るときには、エフライムということばも用いられます。エフライムはヨセフの二人の子どもの一人で、兄のマナセの弟でした。エフライムには「実りが多い」という意味があり、事実カナン定住十二部族の中で最も栄えました。

 13章にも、エフライムの繁栄の様子が描かれます。しかし、その繁栄が繁栄をもたらしてくださった神を忘れさせます。何とも皮肉なことです。彼らは自分たちの繁栄が物言わぬ偶像バアルがもたらしたものとして、バアルを礼拝します。

 しかし、繁栄は偶像礼拝を行う動機にはなりません。偶像をあがめる者の空しさは3節に明らかです。ここには「朝もや」、「霧」、「籾殻(もみがら)」、「煙」これらは、やがて消えてなくなるもの、中身がないものです。そしてそれは、彼らが追い求めるバアルが中身がないものであることにも通じます。

 4節の「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である」とのことばに目が留まります。これは朝もやのような偶像などとは全く違うのだという神の主張です。「エフライムよ、わたしはずっとあなたを知り続けている」というのです。

 だからこそ主は、「わたしのほかに救う者はいない」、「あなたの助け手」「死から贖う」とエフライムに言い得るのです。

 「あなたを知っていた」ということばを、主はこの私にも語り続けておられます。


不義は見つからない、のか…

2020年12月17日 | ホセア書

ホセア書 12章

 きのうのお昼は「おやき」。「おやき」というと長野県の郷土料理と聞いていますが、中の餡(具材)にさすがに野沢菜はないので、こちらで手に入るものを工夫して、妻が作りました。おかず系にはひじきや豚肉の刻んだものにニンジン、キャベツなどがはいっていました。そしておやつ系に入っていたのは胡桃入りのあんこ。2つで止めておけばよいのに3つも食べてしまいお腹が空きませんでした。

 本章にはヤコブが登場します。ヤコブは主によってイスラエルという名を付けられ、やがてイスラエルは民族の名前、国の名前として残り続けています。ヤコブはなぜここで出てくるのでしょうか。8節にはホセアの時代のエフライム(イスラエル)のおごりから出ていることばがあります。「確かに私は富んでいる。私には力がある。私のすべての勤労の実があれば、私のうちに、罪となる不義は見つからない」と。このことばに、あのヤコブが重なります。

 創世記28章には、兄をだましたヤコブが伯父ラバんのもとに逃げる途中に「天のはしご」の幻を見たことが、創世記32章には、ヤコブが自分の力で神と格闘したことが書かれています。彼は神の前に誠実な歩みをしていたので神の臨在に触れたのではありませんでした。「そんなヤコブ」に神ご自身が会ってくださいました。

 8節のエフライムのおごりのことばに答えるようにして、神は「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である…」とお語りになります。神への不誠実、不信仰を続けながら、「私のうちに、罪となる不義は見つからない」とうそぶく彼らに、「あなたの神、主である」と声をおかけになるのです。「だからヤコブのように泣いて願え」と招いておられるのです。

 神の前に不義でありながら、自分には不義は見つからないという霊的な鈍さがないのだろうかと考えつつ読みました。


わたしの子

2020年12月16日 | ホセア書

ホセア書 11章

 当地はきょうから、ロックダウンに入りました。人との接触をできるだけ避けて感染のリスクを少なくしていくとのことですが、このような中でも誰かと繋がっているというのは、自分を保つうえで大切なことだと思うのです。

 11章からは、イスラエルを「わたしの子」と呼ぶ父なる神の熱い思いが伝わってきます。2節には「呼べば呼ぶほどますます離れて行き」とあります。親としての切なさを覚えることばです。人の成長についてここから考えました。

 人は赤ちゃんとして生まれ、長い時間をかけて自立への道をたどって行きます。そのためには小さないのちをいつくしむ存在が欠かせません。はじめは誰かに抱かれ背負われなければどこにも行けず、誰かに飲ませ食べさせてもらえなければならなかったのが、やがてハイハイをし、つかまり立ちをし、そしてついに自分の足で歩き出す…。一歩二歩、よちよちと歩けて周囲から大喜びされるのは、この時ぐらいでしょう。そして、子どもはいろいろなものを身につけ、やがて経済的にも自立するのです。

 自立へのプロセスでは、多くの場合親への反発という「現象」が起こります。親の言いなりにはならない、親のおしつけを跳ねのけるというようなことです。そんなときに親は、小さな頃はかわいかったと複雑な思いで振り返るのです。

 育ててもらいながら、育ての親の神に感謝することなく、バアルに走るイスラエル。だからといって、即座に彼らとの関係を絶つ、あるいは彼らを亡きものにしてしまうなどということは決してできない主なる神。この章には愛に応えず他のものへと愛を向けるイスラエルへの怒りとそれでも滅ぼすことはできないという愛とが交錯しています。

 それがご自分のひとり子をこの世界に遣わすことにつながるのです。ですからここには、クリスマスのメッセージが隠れているのだとして、読みました。


二種類の実

2020年12月15日 | ホセア書

ホセア書 10章

 隣町までの買い物を兼ねての歩き、昨日は三度目でした。途中麦畑の中に送電鉄塔がありました。当地では街中でも電柱を見ることはそれほどありません。まして送電鉄塔など…。新鮮な思いでしばし見上げていました。クリスマスツリーに見えなくもありません。

 この章は、イスラエルが豊かな実りをもたらすようになったということから始まります。9章10節に「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見出し」とあるのですが、イスラエルの実りは彼らを見出してくださった主なる神がもたらしたものです。ところが、彼らは豊かな実りに飽き足らずにさらにゆたかな実りを得ようと、祭壇を増やし、石の柱を豊かにしました。つまり、彼らは欲望にかられてさらに偶像に心を寄せていくのです。

 主はそのイスラエルを懲らしめられるのです。

 11節はやがての日に主が何をもたらすのかについての約束です。神がイスラエルとユダに望んでいるのはここに描かれていることなのです。それなのに彼らは、主への礼拝を欲望達成のためにゆがめてしまいました。人の欲望はやっかいなもの。一つの欲望をかなえることができるとそれで満足することなく、より豊かに、より賢く、より大きく、より速く…と走り続けます。

 12節の「誠実の実」と13節の「偽りの実」ということばに目が留まります。主を求めて「誠実の実」を収穫するか、自分たちの側の力(偶像もその一つ)に頼んで「偽りの実」を収穫することの、どちらを自分はしているのだろうかと、心が探られます。


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