みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主は知っておられる

2024年11月06日 | イザヤ書

イザヤ書 37章21−38節

 ほぼ一週間の滞在を終えて、本日は帰宅します。今回の帰国はとても中身の濃いものとなりました。月曜日の献堂式は、懐かしい方々と再開する時でもありました。火曜日に訪ねてくださった方に、当地のローカルフーズの一つ、「ゼリーフライ」なるものをご馳走しました。ごちそうと言っても二個で220円でしたが…。揚げたてできたてのそれは、とても美味でした。

 祈るヒゼキヤ王に、神は答えをくださいました。 

 その答えとは、アッシリアの王センナケリブに与えられ、ヒゼキヤ王に与えられ、さらに都エルサレムについてのものでした。

 アッシリアについては、「どんなにおまえが世界最強だと豪語しても、それはすべてわたしの手のうちにある」と神はお語りになりました。28節に「おまえが座るのも、出て行くのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている」とあります。それはアッシリアにとっては恐ろしいことでした。

 このことばを読みつつ、詩篇139篇のはじめを思いました。「主よ あなたは私を探り 知っておられます。 」ダビデにとって主が自分のことをよく知っておられるというのは、むしろ心強いことでした。神が私のどちら側にいるのか、どちら側にいてほしいのかと考えます。

 ヒゼキヤ王へのことばは、慰めと希望に満ちたものでした。今は食べるのにも苦労するが、それもやがて終わりを告げ豊かな実りを見る時が来ると、主は約束しておられます。今どんなに辛いところにいたとしても、主とともに歩もうとする者は絶望がありません。ここでのヒゼキヤへの約束は、私への約束でもあります。

 都エルサレムはアッシリアによっては決して破滅することがない、むしろこの章の終わりの部分では、エルサレムを包囲していたアッシリア軍が突如崩壊し、センナケリブはニネベに帰ります。さらに彼は、息子たちによって殺されてしまうことが明らかにされます。

 主が自分を知っておられるというのは、喜びなのでしょうか。それとも恐ろしいことなのでしょうか。


事実を訴える

2024年11月05日 | イザヤ書

イザヤ書 37章1−20節

 多くの方々が出席しての献堂式。そしてオルガン奉献の祈り。この会堂でバッハのトッカータとフーガニ短調を聴くことができたのは夢のようです。解体組み立てをしてくださったオルガンビルダーの方が、オルガンがあるということはオルガン奏者を育てるという務めもあると話しておられました。

 ここには、アッシリアがエルサレムを包囲する中、ヒゼキヤ王がとった行動が明らかにされています。

 一つは、主の宮に入ったことです。、大きな悲しみと不安の中にあるヒゼキヤにとって、これが何よりも先に行うべきことでした。はじめに行くべきところを誤るなら、自分が望んだほうヘと動くことはありません。

 二つ目は、預言者イザヤに助言を求めたことです。ヒゼキヤにとってイザヤは大切な助言者。それはイザヤが自分の知識や提案ではなく、神のことばを常々語っており、ヒゼキヤの良きアドバイザーだったからです。

 事実、イザヤはヒゼキヤからの使いに、すぐに答えます。「恐れるな」と…。この時のヒゼキヤにとって、イザヤからの、いや神からのこのことばは、大きな支えになりました。

 三つ目は、ヒゼキヤが神に祈ったことです。その祈りは、主を罵倒するアッシリアの親書を神の前で読むことから、つまり起こっている事実を訴えることから始まりました。さらに、主をあがめ、主が自分たちを救ってくださったならば、地のすべての王も主こそ神であることを知るというものです。

 彼は神のみわざを期待し、神がご自分の栄光を現されることをひたすらねがっているのです。さて、自分はいつも何を祈っているのでしょうか。


何よりも先に神に祈る

2024年11月04日 | イザヤ書

イザヤ書 36章

 日曜日は新しい会堂での礼拝。賛美の声が、特に子どもたちの声が会堂に響き渡ると、なぜか涙が…。月曜日はたくさんのお客様を迎えて献堂式が行われます。

 イザヤ書36−37章に記されていることは、列王記第二18章13節から19章とほぼ同じ内容です。それは、アッシリアの大軍がエルサレムを包囲するというユダの大きな危機に際して、時のヒゼキヤ王が何をしたのか、預言者イザヤはどのような役目を果たしたのか、そして主なる神はどのようにしてこの危機からエルサレムを守られたのかということです。

 ヒゼキヤ王を、列王記第二18章5節は次のように紹介します。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」しかし、このヒゼキヤ王の治政下にこれまでになかったような、国の存亡がかかるような大事が起こってしまうのです。

 アッシリア王センナケリブはすでに攻め取ったラキシュから、配下ラブ・シャケをエルサレムに送ります。ラブ・シャケは巧みなことばで、エルサレムの人々の心を揺さぶります。彼は何を語ったのでしょう。

 エジプトなど他に拠(よ)り頼んでも意味がない、イスラエルの神、主に拠り頼んでも役に立たない、ユダにはアッシリアと戦える力はない、そもそも主がユダを滅ぼせと命じている、ヒゼキヤは王として失格、アッシリアに降伏するならば幸せが訪れる、これまでアッシリアと戦って勝った国はない。

 セールスで言えば、必ず購入してもらうための口上を並び立てているような印象もあります。

 21節に目を留めたいと思います。「人々は黙って、彼(ラブ・シャケ)に一言も答えなかった。『彼に答えるな』というのが、王の命令だったからである。」

 ここでの人々の沈黙は、恐れてことばも出なかったということではありません。民は王の命令を守っていたのです。王のもとで彼らがまとまっていたことが伝わってきます。

 この場合、ヒゼキヤ王に戦力的な勝ち目はありませんでした。しかし、彼はあらゆるこの世界に対して圧倒的に勝利される神を信頼していたのです。ですから、彼がまず行ったのは、主の宮に入りました。何よりも先に神に祈ったのです。

 何よりも先に神に祈る、これを今日一日の行動の基本としたいと考えました。


沈黙はあなたへの賛美

2024年11月02日 | 詩篇

詩篇 65篇

 久しぶりに賑やかな都会を歩きました。変わらずに同じ場所に書店があり、デパートがあると懐かしさをおぼえますが、大きな変化に戸惑う所もありました。

 本篇は「神よ 御前には静けさがあり、シオンには賛美があります」で始まります。ある英訳の聖書はここを「沈黙はあなたへの賛美、シオンに住まう神よ、そして服従でもあります」と訳します。かなり訳者の解釈が込められているとは思いますが、神の御前での「静けさ」「沈黙」とはどのようなことなのだろうかと考えるきっかけになると思います。

 ダビデが沈黙について深く考えることに至るのは、主が自分の数々の咎を、神への背きを赦してくださるからです。

 ダビデも含めて、だれ一人神の前に胸を張って、「私はあなたのみこころにかなう義人です」と言うことはできません。それは本当の意味で私たちの心を騒がせる事実なのですが、それに気づくことはまれです。

 人が、静けさや沈黙よりも賑やかさを求めるのは、御前に立たないでいようという思いに基づくのではないだろうかと、ここから考えました。ここでの沈黙、静けさは赦された者に神が与えられた贈り物のように読みました。

 その静けさを持つことができる者の幸いは4節で高らかに歌われています。そして、5節以降に目につくのは「あなたは…」ということば。神のみわざの豊かさや細やかさを、ダビデは喜びとともに歌い上げています。

 この週末に、「あなたは…」と、神が自分になさっておられることを静けさの中で考え、主への賛美、感謝として何をことばで届けましょうか。


ことばは武器に…

2024年11月01日 | 詩篇

詩篇 64篇

 昨日は孫を幼稚園に迎えに行きました。先生や保護者から「戻っておられるのですね」と挨拶されたのでびっくり。どうやら、孫がみんなに「ビッグニュース」を知らせたようなのです。何となく照れくさいような、嬉しいような…。

 ダビデはこの時、敵に脅かされていました。彼らの武器は舌です。3節に「苦いことばの矢を放っています」とありますので、巧妙に仕組まれたことばの罠でダビデをおとしめようとしています。5節の「彼らは悪事に凝っています」も心に留まります。ことばで悪をたくらみ、ダビデをやっつけることに凝っているのです。厄介な相手です。

 4節に「全き人」とあります。さらに10節には「正しい人」、「心の直ぐな人」とあります。これらのことばを用いて、ダビデは自分を完全だと自慢しているのではありません。これらのことばは、神と間にあるべき交わり、繋(つな)がりがあるということなのです。

 さて、敵の企てはうまく行った、ように見えました。

 ところが、神はダビデとの契約のゆえに、敵の手からダビデを守られるのです。その方法は、矢を射かけること。それは、3節と4節にある敵がダビデを攻撃する手法と同じでした。

 ダビデの敵は、「自らの舌につまず」いたのです。ことば巧みな人は、そのことばによって自滅することもあるというのは、このようなことなのかとあれこれ考えました。

 ことばで神の前に罪を犯すことがありませんように。


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