みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

満たされる

2024年05月28日 | 出エジプト記

出エジプト記 35章20−35節

 「みことばの光」の編集は、現在8月号を印刷会社に送るための最終段階にあるとともに、9月号の原稿を編集しています。8月号で6月号から読み始めるサムエル記が終わり、9月号ではエペソ人への手紙とイザヤ書を読みます。編集に取り組んでいる時と実際その日に読んでいる時とで、文章の届き方が違うということに、いつも驚いています。

 この箇所には、幕屋とそれに関係のある一つ一つのものを製作するために、イスラエルの民が「主への奉納物」として持参したことが書かれています。

 ここを読んで心に留めたのは、「満たされる」ということです。「みな」「あらゆる」「すべての」「満たされた」などという言葉が何度も用いられます。ここには「やりたい人がやればいい」とか「自分には関係がない」などというような態度は見られません。さらにここには、「進んで」という言葉も目に留まります。「心から進んで」とあります。義務感からではなく、強制されてではないのです。

 主が自分たちとともにお住まいになるところを製作するというのは、すべての民にとっての大きな喜びだったことがこれらのことばから想像できます。

 さて、冒頭に「みことばの光」の編集について書きましたが、幕屋を製作するために奉納物を主に持参する民のような心で取り組んでいるのだろうかと、自問しています。


主が命じられたこと

2024年05月27日 | 出エジプト記

出エジプト記 35章1−19節

 土曜日、インターナショナルスクールの夏祭りに行きました。お昼は各国のスナックが並びました。日本食はおにぎり。すぐに売り切れてしまったようです。コンビニのおにぎりのようなラッピングをどのように開けるかで、あれこれ試行錯誤している方が何人かおられて、ようやく海苔とおにぎりが「合体?」できた時には満面の笑み。私も最初の時のことを思い出しました。

 いよいよ幕屋が建設されます。最初の契約の時は24章に契約締結の記事が、そのあと25−31章に幕屋建設についての指示がありましたが、神とイスラエルの民との契約が更新されたあと、幕屋が実際に作られて行く様子が描かれるのです。

 注目は、幕屋建設に取り掛かる前に、七日目の安息を守るべきことが再々度命じられていることです。幕屋建設の指示において、主の安息を守らなければならないという戒めは最後にありました。31章12−17節で確認できます。幕屋建設に取り組むことにおいては、この戒めは最初にあります。主の安息を守ることは、神の臨在の場である幕屋建設においても守らなければなりません。例外はないのです。この日には火を焚いてもならないとあります。

 神との契約が更新されたイスラエルの民は、安堵し、大きな喜びを経験したことでしょう。そのあとでの幕屋建設です。しかし、その一つ一つはすべて、主が命じられたとおりにしなければならないのです。喜びのあまり、自分たちのしたいようにしてしまうということはここでは許されません。

 大いなる喜びだからこそ、主のわざを行うときだからこそ、主が命じられたとおりにする、これは私たちが「暴走」しないために必要なことなのだと、考えるのです。


私たちの咎と罪

2024年05月25日 | 出エジプト記

出エジプト記 34章1−17節

 バスのストライキは二日間で終了。しかし、近くの地下鉄はまだ工事中で乗れません。あるご家庭での聖書の会に時間の余裕をもって出かけましたら、珍しくすいすいとつながり、なんと開始時刻30分以上前には近くの停留所に着いてしまいました。そこで、最後のトラム(路面電車)に乗らずに、歩いて目的地に…。雨の中でしたが、良い運動になりました。雨に濡れた葉は格別です。

 34章は、神がイスラエルの民との間で再び契約を結ぶ箇所です。「契約の更新」といえば、ある一定の期間当事者同士が契約を誠実に守った結果として交わされるものですが、ここでの「契約更新」はそうではありません。

 イスラエルの民は、アロンが造った金の子牛を拝み、その前で飲めや歌えやの「どんちゃん騒ぎ」をし、契約を破ってしまいました。しかし、モーセの必死のとりなしがあり、主は彼らと再び契約を結ばれるのです。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ」と言われたモーセはどのような思いだっただろうかと想像します。

 6−7節のことばに目を留めます。ご自分がどのようであるのかについて、「主の名の宣言」だとあります。「名」は存在の本質を表しています。これが、聖書にご自分を啓示した神なのです。そしてこの本質は今に至るまで変わることはありません。

 モーセはこの宣言に答え、このことばにひたすらにすがって、「もし私がみこころに適っているのでしたら、主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように」と願います。また彼は、「彼らの…」とはではなく、「私たちの咎と罪を赦し、私たちを…」と祈りました。このことばに、指導者としてのあるべき姿を見ることができるのです。


わたしの臨在がともに

2024年05月24日 | 出エジプト記

出エジプト記 33章

 毎日できるだけ歩くことを心がけていると以前にも書きました。いっしょうけんめい歩いているのですが、それでも余裕の歩きで、すいすい私たちを追い抜いていく方もいます。歩き方の違いもあるでしょうし、歩幅の違いも大きいと思っています。悔しいとは思わないのですが…。

 大きな罪を犯したイスラエルの民のために、モーセは祈り続けます。主は、約束の地に先に住む民を追い払って、イスラエルを住まわせると約束するのですが、「わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない」と言われます。理由は、彼らがあまりにもうなじを固くするので、途中で滅ぼさないようにとのことです。主は彼らを見捨てるどころか、彼らが約束の地に進むことができるためにそのように言われたのです。

 このことばは、民を大きな悲しみに追いやります。そして、彼らは悲しみを自分たちの飾り物を外すということで表しました。4−6節の出来事の順序は考慮すべきかと思うのですが、主は彼らの具体的な行動をご覧になりました。

 7−11節は主とモーセがどれほど親密に交わりを持っていたかを伝えています。そして、出来事は12節以降へと進みます。モーセは、「この民を連れ上れ」と言われた主に食い下がるように祈ります。それは、主ご自身がモーセと、そして民とともに進んでくださるようにとの必死の願いです。

 そして主は、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と言われました。「臨在」と訳されていることばは直訳では「顔」です。主はモーセの必要に、そして民の必要に答えてくださいました。

 ここは、私が主に何を望むべきなのかについて大切なことを伝えています。自分の願いの実現ではなく、主の臨在が常にともにあることだということです。


主は民を打たれた

2024年05月23日 | 出エジプト記

出エジプト記 32章15−35節

 水曜日午前の「オンライン祈祷会」に、日本からの参加者が! その方が学んでいる神学校では、きょうが「祈りの日」とのこと。ちょうど聖書はモーセのとりなしでしたので、素晴らしいタイミングだと思いました。

 主に促(うなが)されて山を下りたモーセが見たのは、ありえない民の姿でした。山の上でモーセは、彼らのため神にとりなしました。その中で彼は、民を「ご自分の民」「ご自身の民」と呼んで彼らを滅ぼさないようにと祈ったのですから、なおさらのことでした。

 誰かのためにいっしょうけんめい努力しているにもかかわらず、その相手のひどいありさまを目撃したら、力が抜けてしまうか、あるいは怒りが生じるのかもしれません。モーセは、十戒が書かれた石の板を投げ捨ててしまいました。

 アロンの言い訳は見苦しいものです。明らかに事実とは違う弁明をしています。25節に「アロンが彼らを放っておいた」ということばに目が留まります。相手が悪を行おうとしているのに、自分の身を守るために、あるいは「波風を立てない」ようにと、放っておくというのは、アロンに限ったことではありません。しかし、そのようなことによって共同体は崩壊に進みます。

 民が笑われているのは、主がそのように観られていることだと理解しているモーセは、このどんちゃん騒ぎの首謀者たちであろう3000人を殺すようにレビ人に命じ、さらに、自分のいのちを賭けて神にとりなしました。この章の終わりに「主は民を打たれた」とあります。モーセは私憤に駆られて衝動的に民を打つように命じたのではないことがここから分かります。

 アロンはどのような思いで一つ一つの出来事を見ていたのでしょう。


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