みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あわれんでください

2023年09月27日 | ヨエル書

ヨエル書 2章

 火曜日は長い旅路でした。イズミールを出てアレキサンドリア・トロアスへ。聖書で「トロアス」として登場する地です。そこでは、パウロ、ルカ、そしてユテコの名前が重なります。そしてローマ時代のトロアスの港の跡を訪ねました。倒れた円柱や建物を構成する石が並の中にある景色は、10年前とほとんど変わりありませんでした。最後はアソスに。第三次伝道旅行の帰路、トロアスから陸路で向かったパウロと、船で向かったルカたちがここで会い、パウロはそこから船でミレトスに向かって行ったと使徒の働きに書いてある場所です。

 ヨエル書2章にタイトルをつけるなら、私は「神のあわれみ」とします。

 1節に「地に住むすべての者は、恐れおののけ。主の日が来るからだ。その日は近い」とあります。ここで恐れおののけと呼びかけられているのは、イスラエルの人々だけではありません。「地に住むすべての者」です。私とは関係がないとは多くの人々の考えだと思います。しかし、主の日が来るのは一部の人々のためではなくて、あらゆる人々と関係のあることなのです。

  そしてここには、「あわれみ」「あわれむ」ということばも見られます。主「の日の」さばきの前に胸を張って「私はだいじょうぶです」「私には関係がありません」と言える人はいません。主の哀れみにすがるほか術はないのです。

 だとしたら、私たちができるのはただ一つ、「主よ、あわれんでください」「主を、こんな私をあわれんでください」と祈ること。あれもしました、これもできましたなどということではないのだと、ここから気づきます。

*写真はアソスの夕景 


わたしの国

2023年09月26日 | ヨエル書

ヨエル書 1章

 月曜日に、トルコのイズミールに飛びました。火曜日から6人で、パウロの伝道の旅とかかわりのあるトルアスやアソス、そしてヨハネの黙示録2−3章に書かれている、アジアの七つの教会跡をたどる、スタディ・ツアーです。

 「みことばの光」は今日からヨエル書を読みます。「ヨエル書を読む前に」には、ヨエルの名前が「主こそ神である」という意味を持つとあります。「主こそ神であり、人は神ではない」という事実を、ヨエルの時代に生きた人々も、そして現代の私たちも受け入れなければならないのだと、身の回りに起こるさまざまな出来事を見る時に、思います。

 1章の初めにはいなごの被害の様子が描かれます。4節のいなごの被害の描き方と3節の「あなたがたの子どもたちに伝え……子どもたちはその子どもたちに……その子どもたちは後の世代に……」という語り方には何か似たものを感じます。伝えるべきメッセージが重要であって、何が何でも世代を超えて伝えなければならないことと、いなごの被害が深刻であって、食い尽くされてしまうということとが対応しているようなのです。

 さらに、いなごの被害は、外敵の侵入を象徴してもいます。6節に「ある国民がわたしの国に攻め上って来た」とあります。「わたしの国」ということばが心に留まります。ここでの「わたし」とは主なる神のこと。イスラエルを神は「わたしの国」と読んでおられるのです。その事実を忘れるのが人間。自分たちの国、自分たちのもの、ではなくて、すべては主のものなのです。

 そして、15節には「主の日は近い」とあります。それは「全能者による破壊の日」だと解かれます。「主の日は近い」はヨエル書のテーマ。その日に備えて人は何を考え、何を為すべきかを、この書から考えていきたいと思います。


愛の挨拶

2023年09月25日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙 13章

 土曜日の夕方に喉の痛みがありましたので、薬を塗って休みました。もしかしたら例の感染症に架かったかもしれないと一瞬不安になりましたので、検査しましたらネガティブでホッとしています。最近マスクを着用している人が以前よりも増えているように思います。私たちも電車やバスに乗る時にはつけることにしました。

 変化に富んだ内容のコリント人への手紙第二も終章。ここにもパウロの厳しいことばが並びます。彼は、コリントへの三度目の訪問を間近にしています。パウロが渾身の思いを込めて書いてきたことに、誠実な態度で受け止めようとしない一部の人たちのことを意識しての厳しいことばです。

 「今度そちらに行った時には、容赦しません」とは、パウロが2章1節で「あなたがたを悲しませる訪問」と呼んでいる二度目の訪問の時に何が起こったのかを想像させます。もしかしたらこの時、罪を犯し続ける人々が心を頑なにし続けるのをパウロは目の当たりにしたのかもしれません。

 この手紙の終わりのパウロの挨拶は、コリントの教会に書けていたものが何であるかを明らかにしています。

 喜び、キリストにある完全、慰め、一つの思い、そして平和です。パウロはこの教会のことをあきらめません。なぜなら、神が愛と平和の神だからです。そして、コリントの教会を愛し、案じているのはパウロだけでなくて「すべての聖徒」だということばは、どんなにか一人一人を励ましたことでしょう。

 祝祷でこの手紙は終わります。礼拝に参加した人々に届けられるこの祈りが、まずは混乱の中にあるコリント教会へのものであったということに、深い感慨を覚えます。


高慢にならないため

2023年09月23日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 12章1−10節

 こちらのスーパーで売られているカボチャは、大きいものから小さいものまで色も多彩です。Hokkaidoという名前のオレンジ色のカボチャが人気ですが、日本風に甘辛にするとちょっとがりがり感が気になります。グリルやスープにするととても美味しいです。それにしてもなぜ、Hokkaidoなのでしょうか。

 パウロがここで書いている「一人の人」とは、自分のこと。2−4節には信じがたい不思議な体験をしたことを語ります。「天に引き上げられた」「だれもできないことを体験した!」というのです。しかし彼はここで、「私は天に引き上げられた」「私は誰もできない体験をした」とは書きません。

 どうしてもったいぶったような書き方をするのか、「それ私だ!」と明らかにすれば、偽教師たちを黙らせることができますし、コリント教会の心を自分のほうに寄せることもできるのに…と思うのに、彼はあえて自分だとは言いません。しかし、5−6節を読むならば、そのような特別な体験をしたのは彼なのだということは明らかです。

 パウロは、偽使徒、偽教師と同じ土俵の上で自分が愚かになりました。しかし彼はここで、誇りとするものがあればあるほど、人は高慢という罪の餌食になることを知っていました。神はパウロを知っておられました。そこでパウロは神から「肉体の一つのとげ」を与えられたのです。

 弱いよりも強いほうがよいという理屈は、この世界の常識として受け入れられていること。しかし、弱さを持っている、いや、神が弱さを賜わっているということによって、自分の在り方が保たれているのだと、ここを読んで考えています。


愚かな者として誇る

2023年09月22日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 11章16−33節

 隣町の家庭集会に、今回もバスと電車、さらにバスに乗り換えて向かいました。余裕のある乗り継ぎ時間だったはずなのですが、最初に乗ったバスの運転手さんが安全運転の方のようで、少しずつ遅れが増していきます。そして、乗り換え駅についたとほぼ同時に電車がホームに入ってきました。間に合ってよかったです。

 コリント教会には、パウロの影響力を奪ってしまおうと目論(もくろ)む偽の使徒が入り込んでいました。そのような者たちは、人々を自分たちに引き寄せようとします。いわゆる権威づけです。一方でパウロは大したことがないと吹き込むのです。そしてやがて彼らは、教会を食い物にします。

 パウロは、教会が偽使徒たちの、その背後にある悪しき者の手に陥らないように必死なのです。それがここで述べる彼の「愚かな者となっての誇り」です。このようなことを誇りたくなどない、しかしここでは自分が愚かなものになって誇るから我慢してほしいと、前置きをしたうえでのことばが続きます。

 ここを読むと、パウロが受けた苦しみの大きさがどれほどのものだったかと胸が詰まる思いです。23節に「彼らはキリストのしもべですか。私は狂喜したように言いますが、私は彼ら以上にそうです」と絞り出すように訴えます。パウロにここまで言わせなければならないコリント教会の情けなさのようなものも20節のことばから伝わってきます。

 偽使徒たちの間違った誇りによって愛する主にある教会がだめになってはならないという必死の思いが、パウロのことばからほとばしりでています。


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