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ルカの福音書 1章67−80節
訪ねている町は、世界遺産の城門、皇帝浴場跡に加えて、大聖堂は見応えがあります。お隣の国には列車で数十分。行ってみようと検索すると、三人で運賃が0€と出たので何かの間違いかと調べてみたら、その国の公共交通機関はすべて無料とのこと。驚きました。
今日の箇所は祭司ザカリヤの賛歌で始まります。68節の「ほむべきかな」のラテン語から「ベネディクトゥス」として知られています。後にバプテスマのヨハネと呼ばれるようになるわが子が与えられた時に彼が主をほめたたえた歌ですが、預言でもあります。
この賛歌は大きく二つの部分からなりたり、前半の68−75節は、主がご自分の民を顧みて、預言どおりに「救いの角(つの)」を立てられたと歌います。角は力を象徴することばですから、「力ある救い」という意味です。「ダビデの家に…」と続きますので、それがダビデの子孫として来るメシア、救い主を指すのは明らかです。主は、ご自分の民を顧みてメシアをお遣わしになった、それは救いのためなのだと歌います。
「顧みて」「覚えておられた」ということばに目が留まりました。神が何百年、いやそれをはるかにまさる時間を経て、ご自分の民を忘れないということを知る時、心の中に何とも言えない安心が湧いてきます。「忘れられてしまう」というのは辛いものです。「もし遅くなっても、それを待て。 必ず来る。遅れることはない」という預言者ハバククのことばが浮かびます。
後半の76−79節は生まれてきたわが子ヨハネについての預言のことばでもあります。おいでになる救い主に先立って人々に罪の赦しと救いについての知識を与え、備えさせるという務めをヨハネは生まれる前から神から賜わっていたのです。
この賛歌の全体を貫くことばは救いとあわれみ。どうしようもないところにいるからこその救いであり、どうしようもない者であるゆえの神のあわれみなのです。もちろん私も……。