みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あわれみと救いと

2025年01月08日 | ルカの福音書

2025年1月8日より、新しいブログを開設しました。下記のリンク先アドレスをクリックしてお読みください。よろしくお願いいたします。

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ルカの福音書 1章67−80節

 訪ねている町は、世界遺産の城門、皇帝浴場跡に加えて、大聖堂は見応えがあります。お隣の国には列車で数十分。行ってみようと検索すると、三人で運賃が0€と出たので何かの間違いかと調べてみたら、その国の公共交通機関はすべて無料とのこと。驚きました。

 今日の箇所は祭司ザカリヤの賛歌で始まります。68節の「ほむべきかな」のラテン語から「ベネディクトゥス」として知られています。後にバプテスマのヨハネと呼ばれるようになるわが子が与えられた時に彼が主をほめたたえた歌ですが、預言でもあります。

 この賛歌は大きく二つの部分からなりたり、前半の68−75節は、主がご自分の民を顧みて、預言どおりに「救いの角(つの)」を立てられたと歌います。角は力を象徴することばですから、「力ある救い」という意味です。「ダビデの家に…」と続きますので、それがダビデの子孫として来るメシア、救い主を指すのは明らかです。主は、ご自分の民を顧みてメシアをお遣わしになった、それは救いのためなのだと歌います。

 「顧みて」「覚えておられた」ということばに目が留まりました。神が何百年、いやそれをはるかにまさる時間を経て、ご自分の民を忘れないということを知る時、心の中に何とも言えない安心が湧いてきます。「忘れられてしまう」というのは辛いものです。「もし遅くなっても、それを待て。 必ず来る。遅れることはない」という預言者ハバククのことばが浮かびます。

 後半の76−79節は生まれてきたわが子ヨハネについての預言のことばでもあります。おいでになる救い主に先立って人々に罪の赦しと救いについての知識を与え、備えさせるという務めをヨハネは生まれる前から神から賜わっていたのです。

 この賛歌の全体を貫くことばは救いとあわれみ。どうしようもないところにいるからこその救いであり、どうしようもない者であるゆえの神のあわれみなのです。もちろん私も……。


沈黙が解けて

2025年01月07日 | ルカの福音書

ルカの福音書 1章57-66節

 月曜日からトリーアを訪ねています。ローマ時代の門などが形をとどめている町で、ケルンやマインツと並ぶ、ドイツ三大聖堂(ドーム)の一つがここにあります。クリスマス休みも終わり、人出が少なくてゆったりと流れる時間を持つことができました。

 今日の箇所では、ザカリヤとエリサベツ夫妻に男の子が与えられ、その子の名前をどうするかについての出来事が記されています。


 すでに神の使いはこの老夫妻に、生まれてくる子につけるべき名前を伝えていました。しかし、それは当時人々が大切にし、当然生まれてくる子どもにつなげていくための名前とは違っていたのです。ヨハネにとって、これは大きなチャレンジでした。そして彼は、神の使いが告げたとおりのことをしました。

 64節に目が留まります。長い間物を言うことができなかったザカリヤが、口が開けて真っ先に語ったのは、神をほめたたえることだったというのです。毎日たくさんのことばを心に浮かんでは口にする私たち。その中でどれだけが神をほめたたえているのかと改めて考えると、貧しさを覚えざるをえません。長い間の沈黙の末に出て北ことばが神への賛美であったということは、ザカリヤは沈黙の間ずっと、神をほめたたえていたのだと思うのです。

 「わがたましいよ 主をほめたたえよ」との詩篇103篇のことばが心に浮かびます。


ともに主をほめたたえる

2025年01月06日 | ルカの福音書

ルカの福音書 1章39ー56節

 日曜日の朝は雪景色で明けました。私たちは午後から礼拝を行っているのですが、昨日は大勢の方が参加されました。特にお借りしている教会のメンバーの方が三名礼拝に出てくださいました。通訳によってドイツ語でのメッセージが届けられて感謝でした。
 
 マリアとエリサベツとはありえない方法で子を与えられるということでは、同じ境遇にありました。しかも親類でしたので、互いに経験を分かち合うということができました。いや、二人にはこの時、分かち合う必要があったのです。このことは、双方に対する神の温かな配慮だったのではないでしょうか。

 しかし、これはただの面会とは違っていました。互いに喜び、あるいは特異な体験を分かち合うのではなく(そのような時はあったでしょうが…)、聖霊のお働きを二人は自分たちが分かるように経験したのです。それによって、ただの面会ではなく、それを導かれた神に彼女たちの心をともに向ける時となりました。ここから、キリスト者同士の交わりとは何だろうかと、立ち止まってみたいと思いました。

 エリサベツの挨拶を受けて、マリアの口から出てきたのは神への賛美でした。「マリアの賛歌」として知られているそれは、一人の女性の個人的な体験で終始するものではなくて、神がこの世界で何をなさろうとしているのかを歌う、力強いことばのつながりでした。彼女の賛美が聖霊の導きによるものだったからです。

 信仰者の交わりが、誰かを非難したりおとしめたりするために用いられることなく、ともに主がなさった大いなることを分かち合い、ほめたたえ合うものでありますように。

*写真はストラスブール大聖堂内で


口がきけなくなったこと

2025年01月04日 | ルカの福音書

ルカの福音書 1章1−25節

 いつもなら日帰りでの往復のストラスブール、今回は前日に着いてゆっくりと街歩きを楽しむことができました。衣服も売っているスーパーでは冬物セールが行われていて、お買い得。

 本日から4月まで、「みことばの光」では、ルカの福音書をレビ記や詩篇とともに読み進めていきます。ルカは書き出しの部分で、(イエスが)私たちの間で成し遂げられた事柄について、「尊敬するテオフィロ様」に書いています。テオフィロは、ローマの高官の一人。彼はすでにイエスについての教えを受けていたことが分かります。

 一人の人のために、ルカはイエスの公生涯を「ルカの福音書」として記し、イエスの昇天後の後の弟子たちの働きを「使徒の働き」として記しました。一人のためにこれほどのものを書くということから、テオフィロが偉いとかということではなくて、神が一人の人をどれほど大切にしておられるか、ということに着いて考えさせられます。

 5節以降からいわゆる「本篇」が始まります。ルカはイエスの誕生のために神がさまざまな人々を選び用いられたことを書いていきます。ここに描かれているのは祭司ザカリヤと妻のエリサベツです。神に長い間仕えて来た年老いた祭司夫妻に、神はイエスのために道を備える働きをするヨハネを与えます。

 突然の御使いからのメッセージは、当然ザカリヤを驚かせました。そして彼は自分たちへの神のことばを信じることができず、口がきけなくなります。神はザカリヤに良い時をお与えになったのではないかと思ったのですが、皆さんはいかがでしょうか。


恵まれた人生

2025年01月03日 | 詩篇

詩篇 70篇

 昨日、このブログを運営している企業へのサイバー攻撃でしばらくの間、閲覧も編集もできない状態が続きました。日本ではすでに復旧してご覧になることができるのですが、当地ではなお不可能です。日本の携帯電話会社のローミングを用いるとアクセスできるので、最小限の費用で済むように、文章を整えてからアップロードしています。ご不便をおかけします。

 年末から年始にかけて詩篇を読んでいます。68―69篇に比べ、70篇は短いのだと、改めて思いました。

 「急いでください」という始まりと終わりのことばに包まれるような構造の本篇は、ダビデが自分をすぐに助けに来てくださるように、「神よ」「主よ」と叫び求めています。

 その間にダビデは、自分以外のことについて二つのことを主に願っています。前半は、ダビデの敵たちについての願いです。ダビデは彼らが恥を見、卑しめられるように、自分のところから立ち去るようにと願っています。この願いから、ダビデがこの時どんなに大きな危機の中にいたのかが分かります。
 
 後半の願いは、主を慕い求める人々についての願いです。その人々が主にあって楽しみ、喜びますようにと願っています。

 ここを読んで、自分の周りにはいろいろな人がいるということに気づかされます。ダビデのように自分のいのちを狙っている人があるいはいるかもしれません。一方でいっしょに神を喜び、神をほめたたえる人もいます。その人々の中に生きる私は、「急いで私を助けてください」と祈ることのできる神を持つのです。

 こんなに恵まれた人生はありません。


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