みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

生きている間は

2020年07月09日 | 列王記第二

列王記第二 12章

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。」 12章2節 

 梅雨末期の日本で、豪雨により大きな被害が出ていると報じられています。お住まいの所はいかがでしょうか。

 祭司エホヤダと妻のエホシェバによって隠され、7歳でユダの王となったヨアシュ。彼の治世は40年に及びました。ここで目に留まるのは、ヨアシュ王が祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも主の目にかなうことを行ったということです。彼はエホヤダの後ろ盾で、ユダの王にふさわしく国を治め、神に仕えたのです。

 しかし、エホヤダが亡くなると彼は変質します。ヨアシュ王については、歴代誌第二24章にも記されているのですが、そこを読みますと、エホヤダの死後、ユダの長老たちが彼を伏し拝んだとあります。これが彼が神を離れることに通じたのかもしれません。後ろ盾がいる間は神への信仰が保たれているけれども、取り去られると信仰もどこかに行ってしまったというのです。

 人の成長のことを思いました。小さいうちは、親や親代わりの存在がどうしても必要です。教えられ、まねをして成長していきます。そして、いつか子どもは親から離れていきます。自立ですね。ヨアシュはどうだったのでしょう。エホヤダが導いてくれた一つ一つのことが本当の意味で身についてはいなかったのでしょうか。

 ヨアシュにとってエホヤダは父親代わり。エホヤダの教えることに素直に耳を傾け、行おうとして歩んだことでしょうが、彼は自分で考えてみたのでしょうか。本当に自分が従うべきが、エホヤダではなくて主なる神であるということを学ぶことはなかったのかもしれません。

 エホヤダの息子ゼカリヤは、態度を変えたヨアシュを戒めるのですが、ヨアシュはゼカリヤを殺します。この後ヨアシュの人生は暗転していきます。

 自分は誰に繋がり誰に聴くのだろうか…。

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隠された王

2020年07月08日 | 列王記第二

列王記第二 11章

「ヨアシュは七歳で王となった。」 11章21節

 自宅から30分も走らないで、城郭の残る町へ。高級住宅地とのことですが、なるほど…と思わせるお店も散在しました。山上の城跡まで歩きましたが、眺望は抜群。およそ5時間の小旅行です。

 神が選ばれたエフーによって北王国イスラエルのアハブ家の者たちも、バアルの信奉者たちも一掃されたのですが、イゼベルによって持ち込まれた悪は、政略結婚によって南王国ユダに深刻な影響を与えていました。

 アタルヤは、北王国のアハブ王の父オムリの孫娘。8章25節以降には彼女がユダの王アハズヤと結婚したとあります。その結果、アハズヤ王は「アハブの家の道に歩み、アハブの家に倣って主の目の前に悪であることを行った。彼自身、アハブ家の婿だった」となります。

 しかし、アハズヤもエフーに殺されてしまいます。その時アタルヤは、すぐに王の一族全員を滅ぼすのです。このようなことは歴史の中でよくあること。けれども、ダビデ王家にただ一人残った赤ちゃんがひそかに隠されたのです。隠したのはなんと、アタルヤの夫ヨラムの娘、つまりアタルヤの義子にあたるエホシェバ。

 神はエホシェバと夫である祭司エホヤダを用いて、ご自分の約束を守られたのです。隠されたヨアシュは、ダビデ王家のともしびでした。「主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである、」8章19節

 折々の判断、行動が神のわざにつながるのです。

*エホシェバの家族関係について、最初の文書に誤りがありましたので訂正しました。また、本日の「みことばの光」21ページ1行目を次のように訂正いたします。

(誤)アタルヤの異母姉妹エホシェバは

(正)ヨラム王の娘、すなわちアハズヤの異母妹エホシェバは、

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引っ掛かりをおぼえること

2020年07月07日 | 列王記第二

列王記第二 10章18−36節

「へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ書6章8節

 サクランボのジャムがたくさんできました。二人では食べ切れません。さて、どうしましょう。

 10章後半は、アハブ家を絶滅させたたエフーによる次の行動から始まります。アハブの妻イゼベルが持ち込んだバアル崇拝の根絶です。この出来事を読むと、エフーは力任せで荒々しいだけでなく、知恵も持ち合わせていたのだということが分かります。

 それにしても、アハブ家を滅ぼし、バアルの崇拝者たちを皆殺しにするというのを読むと、エフーがすることは衝撃なことばかり。周囲に驚きや恐れをもたらすには十分です。裏を返せば、それだけ北王国イスラエルは危機的だったということなのです。

 30節には、主がエフーのしたことを認めて、四代目まで彼の子孫が王座に着くという約束をお与えになりました。「みことばの光」も触れていますが、一方で主は、エフーのイズレエルで流血ゆえにエフーの家を罰すると預言者ホセアによって語っておられます。⇒ホセア書1章4節

 エフーのことを読んでどこか心に引っ掛かりを覚えるのはなぜでしょうか。29節の「ただしエフーは」や31節の「しかしエフーは」とあります。彼は確かに神に用いられました。そして成し遂げたのです。しかし、神がその人を用いるからといって、その人が神の心にかなった者だとは限らないのだということを、エフーの姿から問われています。

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見せる熱心

2020年07月06日 | 列王記第二

列王記第二 10章1−17節

「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい。」 10章16節

 日曜日の礼拝には、久しぶりに実際に会う方も参加していました。礼拝は神さまに会うところと言われています。そのとおりですが、親しい方といっしょに礼拝ができるのも素晴らしい喜びだと、改めて思いました。

 北王国のヨラム王、ヨラムの義兄弟の南王国のアハズヤ王、そしてヨラムのはハイゼベルを殺したエフーの勢いは止りません。主君亡きあとの北王国の指導者たちにアハブの70人の子どもたちを殺させます。

 エフーの思いは、自分はアハブ家を絶やせという主の命令に従っているとのことでした。それは民に彼が伝えたことばに表れています。エフーのやり方は、乱暴すぎてヒューマニズムからはかけ離れています。しかし同時に、神に背く罪の報酬とはこのように厳しいものなのだということにも思いが至ります。

 気になるのはエフーのことば。「主に対する私の熱心さを見なさい。」主への熱心は誰かに見せるものなのだろうかと、どうしても思うのです。主に忠実であろうとして熱心であることそのものが大切になってしまい、肝心なものが脇に置かれるというようなことです。

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主の民イスラエルの王

2020年07月04日 | 列王記第二

列王記第二 9章1−16節

「わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。」 9章6節

 しばらくの間「リモート」で聖書を学んでいた方が昨日は訪ねてくださり、いっしょに聖書を読みました。改めて、実際に会えるのは嬉しいことだと思いました。日本では東京を中心に感染者が増えているとのこと、先が見通せない中での生活がしばらくの間続きます。

 9章に登場するのはエフー。エフーは北王国イスラエルでヨラム王の下にある軍隊の隊長。ここを読むたびに、なぜ神はエフーのような荒々しい人物をアハブ家を断つために選び用いるのだろうか、品行方正で正義感に満ちたヒーローをなぜ立てないのだろうかという疑問が湧いてきます。

 考えうることの一つは、アハブイゼベル夫妻がイスラエルにもたらした悪を主が忌み嫌い、放っておくことができないとして、この二人を倒すためにふさわしいとしてエフーをお選びになったということでしょうか。アハブ家がイスラエルを偶像礼拝に引きずり込み、そればかりか縁戚関係を足がかりにして南王国ユダをも巻き込もうとしていることを、そしてそれゆえに苦しむことが必定のご自分の民をあわれみ、救うために、エフーは立てられたのです。

 エリシャから遣わされて、王となるべくエフーに油を注ぎ、エフーがなすべきことを告げた若者は、自分の務めを果たすと逃げ帰りました。言うべきことを言ったらそこから逃げていくという様子はユーモラスでさえありますが、これをきっかけにエフーは立ち上がります。

 神が選び用いられる人は良い人、正しい人だけではないというのは、聖書の他の箇所にもあります。神の大きさ、私たちが理解できないほどの知恵の深さをここから覚えます。だからと言って選ばれた者は、自分を誇ることはできません。

 神のお役に立つから自分は偉い、などというのはとんでもない錯覚だと気づかされるのです。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki