イザヤ書 37章21−38節
ほぼ一週間の滞在を終えて、本日は帰宅します。今回の帰国はとても中身の濃いものとなりました。月曜日の献堂式は、懐かしい方々と再開する時でもありました。火曜日に訪ねてくださった方に、当地のローカルフーズの一つ、「ゼリーフライ」なるものをご馳走しました。ごちそうと言っても二個で220円でしたが…。揚げたてできたてのそれは、とても美味でした。
祈るヒゼキヤ王に、神は答えをくださいました。
その答えとは、アッシリアの王センナケリブに与えられ、ヒゼキヤ王に与えられ、さらに都エルサレムについてのものでした。
アッシリアについては、「どんなにおまえが世界最強だと豪語しても、それはすべてわたしの手のうちにある」と神はお語りになりました。28節に「おまえが座るのも、出て行くのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている」とあります。それはアッシリアにとっては恐ろしいことでした。
このことばを読みつつ、詩篇139篇のはじめを思いました。「主よ あなたは私を探り 知っておられます。 」ダビデにとって主が自分のことをよく知っておられるというのは、むしろ心強いことでした。神が私のどちら側にいるのか、どちら側にいてほしいのかと考えます。
ヒゼキヤ王へのことばは、慰めと希望に満ちたものでした。今は食べるのにも苦労するが、それもやがて終わりを告げ豊かな実りを見る時が来ると、主は約束しておられます。今どんなに辛いところにいたとしても、主とともに歩もうとする者は絶望がありません。ここでのヒゼキヤへの約束は、私への約束でもあります。
都エルサレムはアッシリアによっては決して破滅することがない、むしろこの章の終わりの部分では、エルサレムを包囲していたアッシリア軍が突如崩壊し、センナケリブはニネベに帰ります。さらに彼は、息子たちによって殺されてしまうことが明らかにされます。
主が自分を知っておられるというのは、喜びなのでしょうか。それとも恐ろしいことなのでしょうか。