みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

感謝のいけにえ

2024年04月27日 | 詩篇

詩篇 50篇

 浴室のシャワーの出が悪くなったので、ホームセンターでシャワーヘッドを買ってきました。いざ取りつけとなったのですが、ホースの継ぎ手部分が劣化していて、これも買い替えなければならないことが判明。もう一度店に行きます。

 50篇は、神がご自分を審判者だと宣言しておられる詩篇です。初めの段落にある動詞に目を留めてみましょう。1節には「語り…呼び集められる」、2節には「光を放たれる」、3節には「来られる。黙ってはおられない」、そして4節には「呼び集められる」と並びます。

 なぜ神は呼び集めるのか、また来るのか。それは審判者としてさばくためなのです。その背景には、神は黙っている、神が来ることなどないとうそぶいている者たちの存在があります。

 神はまず、いけにえを携え献げる者たちをさばかれます。彼らの献げものを主は受け入れると言っておられます。そのうえで、彼らに「感謝のいけにえを神に献げよ」と言っておられるのです。このことばは23節にも見られます。14節と15節は別のものではありません。もしかしたら、15節だけを読んでいるのではないかと考えました。神への感謝をどこかに追いやってはいないだろうかと…。

 「感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ」という詩篇100篇のことばが心に浮かびます。そのようにして、日曜日には感謝のいけにえを神にささげる礼拝でありたいと願うのです。 


たった一つの望み

2024年04月26日 | 詩篇

詩篇 49篇

 聖書を一緒に読むためにおいでになった方が、バスがストライキで運休なので遠回りで帰ると言っておられました。当地では、ストライキや工事のための公共交通機関の運休がよくあります。

 詩篇49篇は、死が誰にでも平等に訪れることについて考えさせます。

 まず1節が心に響きます。「耳を傾けよ」との呼びかけです。何に耳を傾けるのかというと、詩人がこれから述べることについて、つまり死についてなのです。人はだれもが、豊かな者も貧しい者も、知恵のある者も愚かな者も、力のある者もない者も、死に向かって生きています。

 大切な家族でも、世にあって尊い働きをした人であっても、誰もその人を死から贖い出すことはできません。まさに、8節にあるように「永久にあきらめなくてはならない」のです。人はいつかは死ぬのだ、いつかは分かれが来るというあきらめが大切だということになります。

 もしも、「いや、私だけはそうではない。私の栄華はいつまでも続く」と思い続けるような人がいたら、その人は大変な思い違いをしているのです。その点で、人間はほかの生き物と何ら変わるところはありません。

 詩人は、たった一つの望みがあると歌います。15節です。それは神ご自身が私のたましいを贖い出してくださるという望みです。この希望は神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって現実のものになりました。

 最後の「悟ることがなければ」というのは、人はだれもが死ぬのだということについての悟りだけでなく、神がイエス・キリストによって私を贖い出してくださるということについての悟りも含まれている、と私は読みました。


良くない

2024年04月25日 | 出エジプト記

出エジプト記 18章

 相変わらず気温の低い日が続いていますが、天候は晴れで空がとても美しいです。月曜日に飛行機が大きく見える所に行きました。けれども、その日は残念なことに風向きの関係で離陸の飛行機を見ることに…。着陸が良いのだそうです。

 アマレクとの戦いに勝利したと聞いてイテロは、近くまで来ていたモーセを訪ねました。モーセの妻ツィポラはイテロの娘。彼女がいつごろ父のところに行ったのかは分かりません。どのような事情なのかも書かれてはいません。ある人は、おそらく安全のためにミディアンに送り返されたのではないかと考えます。

 イテロが来た目的について、三つのことが考えられます。まずツィポラと息子たちをモーセのところに戻すこと、二つ目は主なる神を礼拝すること、三つ目はモーセに助言することです。もっとも、三つ目については初めからそのような意図があったのではないようです。

 17節に目が留まります。神から特別な使命とそのための賜物をいただいているモーセに、「あなたがしていることは良くありません」と言うのは簡単なことではありません。しゅうとであるがゆえにできたのかもしれませんし、まさにこのようなタイミングでイテロが訪ねたといえます。

 イテロが具体的に勧告しているのを想像すると、彼はモーセのようにミディアン人の中での指導的な立場にいたことが分かります。また、モーセたちの様子をよく観察していたことも分かります。

 モーセがイテロの助言を受け入れたということも、心にとどめたいこと。いっしょうけんめい何かに取り組んでいる時、人は誰かから何かを言われるとそれを受け入れるのは困難だと思うのです。しかし、主が自分のためにイテロを遣わされたと、モーセは考えたのではないでしょうか。小さいことにも大きいことにも、そこには神の御手があるのです。


どうすればよいのでしょう

2024年04月24日 | 出エジプト記

出エジプト記 17章

 火曜日午後、礼拝を一緒にしている方を訪ねました。いつもなら自動車で25分ぐらいの所なのですが、今回は電車とバスを乗り継いでの訪問。珍しく電車もバスも遅れることなく、スムーズな乗り継ぎでしたが、やはり時間はかかります。公共交通機関を利用して礼拝に来られる方の苦労を、少しだけ味わわせていただきました。

 エジプトを出てからの荒野の旅は、最初から困難の連続です。この章の前半には水が欠乏したために、リーダーモーセに食ってかかる民の様子が描かれています。4節のモーセの主への叫びでは、民が自分を石で殺そうとしていると訴えています。

 エジプトへの数々のわざわい、過越、さらに海の水を分けての脱出など、民は神のなさる一つ一つのことを心に焼き付けたので、何が起こっても神に信頼して泰然としていられる、ということではなかったのです。

 …と、このようなことを書いている私自身も、神の大いなるみわざを経験させてくださったのだから、あとは何が起こってもだいじょうぶだと落ちついているわけではありません。たびたび恐れますし、眠れなくなることもあります。

 ここで民はモーセに文句を言いますが、モーセは主に訴えています。誰に自分のことを訴えるのかは、大きな違いがあります。

 神は目に見えないお方なので、頼りにならないという人もいます。でも、そうではないのです。神に訴える道を持つ人こそ本当の強さを持っているのです。恐れても、不安を抱いても、モーセのように「どうすればよいのでしょう」と主に訴える者でありたいです。


試みる命令

2024年04月23日 | 出エジプト記

出エジプト記 16章13−36節

 月曜日は「みことばの光」の執筆者の皆さんとともに、研修の時間を持ちました。「木を見て森を見る」というテーマで講師が発題され、それに参加者が応答するというかたちで行われました。聖書の世界観について考える幸いな時でした。

 食べ物がないという民の不平を神は聞いて、「夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ちたりる」と約束されました。そして、約束は早速実行されたのです。

 夕方にうずらが飛んできました。彼らはそれを食したのです。朝露が消えると、そこには白いものがありました。それが神が約束されたパンです。31節に、イスラエルの民はそれをマナと名づけたとあります。同じ節には味が説明されていて「蜜を入れた薄焼きパンのよう」とあります。以前の新改訳は「蜜を入れたせんべいのよう」とあり、新共同訳聖書は「蜜の入ったウェハースのような味」、協会共同訳は「蜜の入った薄焼きパンのような味」と訳しているのはおもしろいですね。

 ここでは、19−20節と、26−27節に目が留まりました。民の一部はモーセの命令に聞き従いませんでした。自分の欲望、自分の考えをモーセを通して届けられる神の命令よりも優先させる時の、典型的な結果を見る思いがしました。

 自分のほうがよく分かっている、自分の考えが優れているとの錯覚が、時に神に従うことを妨げます。「神の操り人形」ではないから束縛されたくないという思う者もいます。荒野はそのような人の思いが探られる場所なのです。私たちの約束の地への旅においても、そのようなことがしばしばです。


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