みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主を前に、主が右に

2018年04月25日 | 詩篇

詩篇 16篇

 ひんやりとした空気が、先週の暑さにほてった身体を休ませてくれるような火曜日でした。当地は花粉の真っ盛り。路上駐車の愛車の屋根にもフロントガラスにもびっしり。わが家の天窓にも…。天窓三枚を掃除しました。

 この詩篇からは幸いな喜びが伝わってきます。しかし、その喜びは問題の何もない平穏無事の中にあるからということではありません。彼の喜びの鍵は、自分の思いどおりになるとか、手に入れたいものを手にするとか、成功するとかいうことにはなくて、神に身を避け、神を主とし、神を自分の前にしていることにあるのです。

 8節の「私はいつも、主を前にしています」ということばに目が留まります。このことばは以前の翻訳聖書では「私はいつも、私の前に主を置いた」でした。ことばの感じ方ですが、「主を前にしています」ということばは、自分の前に主がおられるという思いをより強くおぼえます。難しいことばを使うと「神の臨在の前にある」ということでしょうか。神に聞き、神に従いますという姿勢がこのことばに現れているように響きます。

 またダビデは、「主が私の右におられる」とも歌います。日本語でも「右腕」とは頼りになるとの意味ですが、ここでダビデは、主は自分を助けてくださるお方だとの信仰を明らかにしているのです。

 誰を、何を自分の前にしているのか、誰を、何を頼りにしているのだろうかと、本篇は問いかけています。ダビデのあふれるほどの喜びを知る時に、答えは出ています。

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聖なる山に住む人は…

2018年04月24日 | 詩篇

詩篇 15篇

 先日スマホの充電コネクタを修理してもらった所で、電池を交換してもらいました。Webページで確認すると、スマホの電池は1年で交換するようにと勧められています。購入して3年になろうとしていますから、道理で電池の減りが早いはずです。メーカーの店舗を訪ねたらまず予約が必要とのこと。しかも、預けてから四、五日かかると言われました。その時に思い出したのはあの店。値段も安く、この前と同じように1時間で新しい電池との交換完了です。

 スマホは電池を交換できますが、私たちの心はそうはいきません。「心を入れ替えて…」「膿を出し切り…」などと言いますが、そんなことは困難、というよりも無理。

 ダビデの「主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか」との問いかけの答えが2節以降です。けれども、ここに書かれている「答え」を落ち度なく行える人は、きょうの「みことばの光」が書くように、誰一人いないのです。

 しかし、そのような私たちに希望の光が差し込みます。信仰によって神の子どもとして迎えられることによって、こんな者でも聖なる山に住むことが許されるのです。天地がひっくり返るような恵みです。

 ずっと以前土曜日夕方6時から放映していた「大草原の小さな家」の中に、オルソンさんの奥さんと娘のネリーがローラたち家族に意地悪をするという話がありました。人の良いオルソンさんはそんな妻や娘の態度をとがめ立てできず、そっとローラたちに優しくするのです。けれども、結局オルソン夫人の策略は失敗。次の日曜日の教会の礼拝で、読まれた聖書が本篇でした。私にとっては、忘れられない詩篇15篇です。

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神は必ず顧みて

2018年04月23日 | 創世記

創世記 50章

 礼拝後のお茶の時間。会話の中で、二ヶ月半当地に滞在された方が私たちが存じ上げている方の親戚であったことがわかり、驚きました。こんなところでつながっているなんて!

 1月から読み進めてきた創世記はきょうが終章。ここには、盛大なヤコブの葬儀の様子と、父ヤコブ亡き後の兄弟の真の和合、そしてヨセフの死のことが書かれています。

 父や母の死というものは、兄弟たちの間に様々な動きを引き起こします。ましてや、ヤコブの兄弟たちの間には、自分たちがひどい目に遭わせたヨセフに世話になってエジプトにいるということからも、複雑な思いが交錯していたのではないでしょうか。確かに互いに抱き合って、ヨセフの赦しを得たのです。しかし、兄たちの胸中にはヨセフとのことで未解決なものが残されていたのです。

 17節のことばは嘘ではないと私は思います。自分が去った後のことを案じて、父ヤコブが実際にそのように言ったということはありえることです。それに対して、ヨセフは泣きます。なぜ泣いたのかについてはいろいろな憶測がありますが、兄たちがそこまで思い詰めていることを哀れに思ったのか、兄弟の思いを受けての感動の涙なのか、はっきりはわかりません。しかしヨセフの、兄たちへの思いやりに満ちたことばが兄弟の絆を深めることになったのは確かでしょう。

 これまでのヨセフのことばから思うのは、自分が受けたどんなにひどい仕打ちも神を主語として受け止めているということです。それは、死を目前にしたヨセフのことばにも表れています。

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ヤコブの神の祝福

2018年04月21日 | 創世記

創世記 48章

 死を迎えようとしたヤコブを、ヨセフとヨセフの息子たちが訪ねます。その時、ヤコブは力を振り絞って床の上に座ったとありますので、ヤコブがどれほど弱っていたのかがわかります。

 ヤコブは、まずエジプトの祭司の娘との間に生まれたヨセフの子どもたちを自分の子とします。「ルベンやシメオンのように」ということばには、分け隔てをしないで他の兄弟、孫たちと同じように、との意味が込められています。やがてイスラエルがエジプトを出てカナンに定住する際には、マナセとエフライムはそれぞれ相続地を割り当てられることになります。

 15,16節はヤコブの祝福の祈りです。「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ」との呼びかけのことばが心に留まります。彼は自分を迷いやすい羊だとしています。確かに、ヤコブの147年は、よく用いられることばで言えば波瀾万丈の人生。彼は死を目前にして自己満足に浸ることなく、自分を羊、主は「ずっと私の羊飼いであられた」と振り返るのです。

 マナセとエフライム頭の上に置く手は、決して取り違えではなくてヤコブが神からの促しを受けてのことでした。このことにも、神の選びの不思議さのようなものをおぼえます。考えてみると、アブラハムの祝福を受け継いだのは先に生まれたイシュマエルではなくてイサクでしたし、イサクからの祝福を得たのは兄のエサウではなくて弟のヤコブでした。そしてここでも…。

 自分が今このようにあることを振り返るならば、神の選びの不思議を思わざるをえません。

 

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祝福するヤコブ

2018年04月20日 | 創世記

創世記 47章

 住んでいるアパートの屋根を新しくすることになり、大家さんと業者の方が屋根裏に…。私が仕事をしている部屋に屋根裏へのはしごが通じています。「工事が終わると夏は快適になりますよ」と大家さんは言っておられましたが、さて…?

 創世記47章は、前半にファラオとヤコブの家族との面会、後半には飢饉に際して発揮されたヨセフの知恵について書いています。ヨセフは、ファラオと家族が会うためにも周到な準備をしました。まず兄弟五人をファラオの前に連れて行きます、五人は、ヨセフが予め教えたことばで、ファラオの質問に答えます。これによって、家族はエジプトでもっとも良い地に住むことができるようになりました。

 次にヨセフは、父ヤコブを連れて来ます。ここでヤコブがファラオを祝福するということに目が留まります。はじめに祝福し、立ち去る前にも祝福します。立場から言えば、ファラオはエジプトの最高権力者で一方のヤコブはカナンの地からやって来た寄留者です。

 しかし、この場面では立場が逆のようにも見えるのです。130歳の年長者だから、ヤコブは若いファラオを祝福するということなのでしょうか。全能の神によって祝福の基としての使命をえたアブラハムの子孫として、ヤコブはここでファライを祝福していると考えられます。

 それは、イエス・キリストによってアブラハムの子どもとされた神の民が、この世界に何をもたらすためにいるのだろうかということを、表わしているように思えるのです。

[お詫びと訂正]4月20日の「みことばの光」誌、47頁4、5行目の文章に誤りがありました。お詫びし、次のように訂正いたします。

[誤]ヤコブの「しあわせ」は息子たちにも及んだ。彼らはエジプトで住む場所を備えてくれたヨセフに感謝し、パロの奴隷となると言った(25)。

[正]ヤコブの「しあわせ」は息子たちにも及んだ。

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2011-2018© Hiroshi Yabuki