みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

もし…なら

2013年07月31日 | 士師記
士師記11章29-40節


 朝歩きの途中、こんなのぼりを発見。Photo
 城下町なので、道が入り組んでおり確かにお客様は迷ってしまうかもしれません。
 時々行く「大衆食堂」から自宅までの約5キロ。信号機のある交差点を通らずに戻れるだろうかとチャレンジしたことがありましたが。城下町特有のクランク道に助けられて、一つも交通信号を通過せずに帰宅できました。何と愚かなチャレンジ…。

 ぶらぶら歩きで道に迷うのは、それはそれで楽しいことかもしれませんが、急いでいるときの迷い道は汗が出ます。

 エフタは、勝ちたい一心で立てた請願のゆえに、自分の首を絞めることになります。
 この箇所を読んで思ったのは、人のことばが勝っているということでした。

 「主の霊がエフタに下った」ことで、エフタはアモン人に勝利できたのです。けれども、彼の目にはアモン人との戦いはとても困難に見えました。そこで、元々主がお喜びにならない人を全焼のいけにえとしてささげるという請願を立てるのです。

 静かに主に信頼して事を行えずに、あれこれ騒いで人を巻き込むという行き方は、自分にもあります。勝ちたい、成功したい、何とか切り抜けたいということが勝ちすぎて、自分がうまくやらなければ…という思いが強すぎて、神をさえ自分と同じレベルに引き下げてしまうようなことがある、と教えられる箇所です。

   


忘れない

2013年07月30日 | 士師記
士師記11章1ー28節


 休みの昨日、映画「風立ちぬ」を観ました。
 随所に「反戦」という監督の強い意思を感じさせる作品。アニメだから伝えられるメッセージがあるのだと思いました。戦後世代なので、戦争体験はありません。物心ついた時は日本が成長期に入ろうとしている頃。「忘れない」というメッセージを届ける人々が少数派になっています。

 エフタも、イスラエルを攻めに来たアモン人も忘れない過去を引きずっています。
 エフタは、自分には何の責任もない生い立ちのことで、つまり「遊女の子」であるということのゆえに、兄弟たちから追われました。3節の「ごろつき」とは同じような境遇の者たちともとれます。傷を負った者たちが自分たちをのけ者にした世の中に対してとんがって生きている様子が伝わってきます。
 
 ところが、自分たちが危ないとなると、自分たちが追い出したエフタに首領になってほしい、アモン人と戦おうと呼びかけるのです。何と虫の良い…。エフタは、かつてのことを忘れたわけではありません。しかし、身勝手に見えるギルアデの長老たちの願いを、彼は受け入れます。主がそのようにされたと信じたからです。

 アモン人もまた、忘れない人々です。
 300年前の話を持ち出して、おまえたちが奪った土地を返せとイスラエルに因縁をつけて戦いをいどむのです。しかし、賢明なエフタは、はぐらかすことなく感情的になることなく、神が自分たちにしてくださったことを説明しました。

 忘れない過去を引きずって不幸にならない、それには「主が…」というキーワードが必要だ、と改めて思うのです。
 
    


見るに忍びなく

2013年07月29日 | 士師記
士師記10章


 使用しているプロバイダのサーバーにログインできないために、金土とブログの更新ができませんでした。すみません。サボっていたわけではありません。
 写真は、「古代蓮の里」で見つけたトンボの赤ちゃん。 Dsc06434

 昨日の日曜日は、東京世田谷の下馬福音教会を訪ねました。7月を「聖書通読月間」として、「みことばの光」を発行している聖書同盟の働きを覚えてくださっています。礼拝をともにした後で、聖書同盟を紹介する時を持ってくださいました。また、お昼をいただきながらどのように「みことばの光」を用いておられるのか、お一人びとりが話してくださいました。

 興味深かったのは、姉妹紙「ジュニアみことばの光」との「マルチ利用」(勝手に名づけました!)。なるほど、とうなずくことをたくさん伺えて、とてもよい時間でした。
 「ジュニアみことばの光」(愛称「じゅにみこ」)も、「みことばの光」と同じ聖書箇所を読みますので、ご家族でよい分かち合いができるのです。お試しください。

 きょうの箇所で心に留めたことばは、「見るに忍びなく」。
 神の御思いが迫ってくる一言でした。罪を繰り返す者たちに差し伸ばされる主の愛を覚えます。イエス・キリストが教えられた「放蕩息子の帰還」の話の中で、ボロボロになって家に戻って来る弟息子を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って抱きしめる父親の姿に重なります。




落とし穴となった

2013年07月25日 | 士師記
士師記8章18-35節


 まずは、ブログの更新が遅くなりましたことをおわびいたします。プロバイダーのサーバーに外部からの不正アクセスが発生したとのことで、今朝はサーバーにアクセスが殺到した模様で、記事の作成ができませんでした。
 写真は、「古代蓮の里」で見かけたオニバスの花です。 Dsc06476


 「主があなたがたを治めます」と言い切るまでは良かったのですが、そのあとがいけません。
 ギデオンは、敵から分捕った耳輪を所望します。ミデヤン人撃破の最大の功労者の願いを聞かないはずがありません。

 ギデオンはたちまち20キロほどの金を自分の手にします。そして、それでエポデを作って自分の町に置いたのです。エポデというと大祭司の服装の一つを思い起こしますが、占い道具の一つだとか、神の像であったとかとも言われています。いずれにしても、ギデオンはエポデを勝利の記念碑のようにしたかったのでしょう。
 しかし、聖書はそれがギデオン一族にとっての落とし穴となったと伝えます。

 すべて順調、うまくいったときこそ、最大の危機だと言われます。心が緩むのです。主がともにおられたので、と言う思いを捨てたわけではありません。けれども、周囲から誉めそやされると、自分もがんばったしなぁと思います。そして、主への従順によって勝ち得た勝利を、20キロの金の記念物にすり替えてしまうのです。

 記念碑は偶像に変質する落とし穴であることが多い、のです。





勝馬に乗る

2013年07月24日 | 士師記
士師記8章1-17節


 天日干しをした梅を瓶(かめ)に入れました。今年も、おいしい梅干しができました。あと二ヶ月もするとおいしくいただけるようになります。書いているうちにも、唾液が口の中に広がってきます。「古代蓮の里」という公園には、蓮の他にいろいろな水生植物があります。スイレンも…。 Dsc06438

 三百人で敵の大軍のおおかたを撃破したギデオン。もちろんそれは、主が敵をギデオンたちに渡されたから成し遂げられた「みわざ」でした。
 ここからは「勝馬に乗る」という、神に信頼しない、し切れない人々の姿が浮かび上がります。
 エフライム人は途中から、ギデオンの呼びかけに答えて参戦しました。勝利してみると、「良かったね」ではなくて、なぜ初めから呼びかけなかったのかとギデオンを非難する始末。この場はギデオンの知恵あることばによって収まりましたが、勝てば何でも言えるのだと思います。

 スコテやペヌエルの人々は、ギデオンたちにパンを分けることを拒みました。ギデオンたちは勝てない、と見て取ったのでしょう。「みことばの光」が解くように、ミデヤン人との抗争地域にある彼らは、もしギデオンたちが負けたら、パンを分け与えたということでミデヤン人たちが何をするかわからないという恐れもあったのでしょう。

 どちらが優勢か、どちらが勝つか、「よし! 勝つほうに賭けよう」という人間の決断のあり方が浮き彫りにされます。主に信頼する側にいつも勝利があるのだとしたら、どちら側に付くかは自明なのですが、なかなか決断できないのです。

     


2011-2024 © Hiroshi Yabuki