みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いらだって…

2016年10月31日 | ヨブ記

ヨブ記 20章

 ドイツ南部シュトゥットガルト近くの、デッギンゲンという町を見おろす山の上で行われた修養会から、車で3時間ほどかけて戻って来ました。写真は山の上から見たデッギンゲンの町です。断崖の上からの眺めはスリリングでした。

 ヨブのことばに、ツォファルはいらだちを隠しません。彼は、ヨブのことばを自分への侮辱だと聞いたのです。ですから、ヨブに対しては、剣のように鋭い攻撃をしています。「ヨブのために…」と始まった対話が、ここでは「ヨブをやっつけろ」と変容しているかのようです。

 自分をいらだたせるヨブを、直接には名指してはいませんが、彼が「悪者」の末路についてあれこれ述べるのはもちろんヨブを指してのことばです。(悪者の)「喜びは短い」、「自分の糞のようにとこしえに滅びる」「夢のように飛び去り…」などということばを連ねて、まるでヨブを脅しているようにも響きます。ヨブはツォファルにとっては悪者なのです。

 また、彼のことばには「財産」「富」「繁栄」「分け前」「相続財産」などのことばも目につきます。飛躍があるかもしれませんが、ヨブの繁栄に常々心の中でうらやましさのような思いを抱いていたのではないだろうかなどと想像してしまいます。

 私たちが人のことをあれこれ話題にする時には、自分でも気づかないうちに自分の心の中の問題や課題を、相手に投影しているということがあるのに気づかされます。

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孤独の中で

2016年10月29日 | ヨブ記

ヨブ記 19章1−20節

 南ドイツシュトゥットガルト近くにある山の上に来ています。途中の紅葉はまさに今が見頃。特にきのうは天候が良く林の広葉樹が陽の光によって金色に輝いていました。この素晴らしい環境で、皆さんとともに三日間みことばと取り組みます。

 19章前半からは、言いようもないヨブの孤独が伝わってきます。三人の友人たちが自分を罪ある者だとして責め続けること、これがどんなにヨブを苦しめたのかは、「もう、十度もあなたがたはわたしに恥ずかしい思いをさせ、恥知らずに私をいじめる」という激しいことばからわかります。「十度も」というのは、実際に10回というよりも、何度も何度もということを表しているのでしょう。

 そして、神の沈黙です。神はいつになったら私に語りかけてくださるのだろう、そうすれば自分の潔白が明らかになるのかと期待していても、神はお語りになりません。新改訳聖書を改めて読むと7節から12節には「神は」ということばが連なっています。それは、「神よおっしゃってください」とのうめきのように響きます。

 さらに14−20節には、「私」ということばが並びます。これはヨブがこの時深い孤独を味わっていたということを示しているように響いてきます。

 親しい者は自分を嫌い、友は自分を責め、そして神は黙っておられる…。このような絶望的な中にも、一条の希望の光が〜誰かの慰めのことばとしてではなく、苦悩の中で聖霊なる神が明らかにしてくださった〜彼の心に差し込もうとしています。

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そんな論法で

2016年10月28日 | ヨブ記

ヨブ記 18章

 ヨブの友人たちによるヨブへのことば、第二ラウンドの二人目はビルダデです。

 彼がヨブの態度やことばにいらだっている様子が「いつ、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず悟れ」ということばから伝わってきます。「悟れ」、「どうして悟らないのか」とは、なかなか承服しない相手を説得するときにはよく使われるフレーズです。「悟れ」という促しは、明らかに語り手にはもうわかっている、どうして聞き手であるあなたにはわからないのかという思いから出たものです。ビルダデは自分が正しくて、ヨブが間違っているという構図でしか、自分とヨブとの関係を見ることができないでいます。

 数日前にも書いたことですが、ビルダデもまた、ヨブのことばによってプライドが傷つけられたと考えていますので、最初にヨブのところに来た時の動機から大きくずれてしまっています。ヨブに悔やみを言い、落ち着かせて回復への道を歩んでもらおうというような思いから、ヨブによって傷ついた自分を保つために、ヨブとのやりとりに何とか決着をつけたいと、向きになっているのです。そして、一方的にヨブが罪人だと決めつけ、脅しにのようなことばを重ねています。ですからヨブは、ビルダデに答えて「そんな論法で私を砕くのか」と言っています(19章〜明日の箇所)。

 それとともに、友人からひどいことを言われることによって、ヨブの神への思いがいよいよ深くなっていくというのもまた、事実です。そのような意味で、友人たちはヨブを神に近づけるという役割を果たしているのです。

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私の望みなるお方

2016年10月27日 | ヨブ記

ヨブ記 17章

 生まれて1ヶ月少しの孫が、RSウィルスというものににかかり、6日間ほど入院しました。調べてみますと、このウィルスは新生児にはなかなか手強そうなものだとありました。幸い、検査の結果も良く、きのう退院できたので安堵しました。

 この子の母親も、生まれて1ヶ月少しで肺炎のために入院し、一晩生死の境をさまよいました。その時に当直医が言ったことばは忘れられません。「今晩一晩持てば…。」今振り返ってみたら、かなり危ないというニュアンスのことばなのですが、その時の私たちには、「一晩持てば何とかなる」という希望を抱くことばに響きました。

 ヨブは「私の望みはどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう」と言っています。これは、彼が絶望していたということではありません。前の章で、天に私の証人がいるとの思いを抱いた彼は、ここでも「私を保証する者をあなたのそばに置いてください」と神に訴えています。このことにだけ、彼は望みを抱いたのです。

 自分は周りにたくさんの頼りになるもの、頼りになる人があるのだと改めて思います。家族、友人、わずかな貯え、自分の健康…。けれども、それらがある時を境に、はぎ取られるようなことが起こったらどうなるのかと考えてしまいました。

 夜通し向かい風に苦しむ弟子たちのところに、主イエスは湖の上を歩いて近づき、「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と声をかけてくださいました。絶望の中で希望を与えることばです。ヨブが「私を保証する者」としたのは、このお方です。

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私の証人

2016年10月26日 | ヨブ記

ヨブ記 16章

 たくさんの林檎をいただきました。当地では、たわわに実っていても見向きもされない林檎の木があります。鳥たちも食べ飽きるだろうなどと、勝手な想像をしています。さて、頂戴した林檎をどのようにして食べましょうか。毎食後林檎を半分ずつ、つまり二人で1個ヨーグルトと混ぜて食べるようにしています。「林檎は医者いらず」と言うのだそうですね。ありがとうございます!

 棘のあることばに、ヨブはエリファズがいら立ち興奮して語っているのを見たのでしょう。エリファズを「煩わしい慰め手」だと答えました。でもヨブは、あなたがたも私と同じ立場なら、きっと同じようにことばを重ねてあなたがたを攻撃しただろうとも言っています。ヨブには、なぜ友人たちがこのようにして自分を責めるようなことばを投げかけるのかがわかるのです。

 7節からは独白です。神へのことばと、独り言のように自分に言い聞かせることばとが入り混じっています。この部分に立ち止ってみますと、ヨブはずいぶんと混乱しているように感じられます。そのような中でもヨブは自分が「潔白」であるとして、神を訴えるのをやめようとしません。けれども、このようにして神を訴えることの危うさのゆえに、彼は肉体の苦しみ以上の苦労を味わっているのです。

 そのようなヨブの心に、自分の潔白を神に証言してくれる証人が天にいると言います。私のために、その方は神にとりなしてくださるとも続けています。驚きます。彼は苦悩の中から天にいて自分と神との間を取り持ってくださる証人がいるとの確信に至ります。

 ヨブは恐れを抱きながらも、いつも天に望みを置くのです。

 

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