みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

良い知らせを伝える人の足

2019年11月15日 | イザヤ書

イザヤ書 52章

 7節の「良い知らせ」ということばに目が留まります。

 女性にたとえられているエルサレムが、かせを振りほどいて美しい衣をまとうようにとの呼びかけのことばからこの章は始まります。イザヤの時代にはアッシリアがエルサレムを攻略しようとして包囲し、その後バビロンがエルサレムを攻めて滅ぼし、多くの人々を捕囚します。けれども、神がご自分の民をただで買い戻してくださり、「ここにわたしがいる」と神が告げることが預言されています。

 そして、「あなたの神は王であられる」という知らせを携えて、伝令がシオンに言うのです。これは、バビロン捕囚からの解放を思い起こさせます。パウロは7節のことばを引用してイエス・キリストの救いを宣べ伝える人がいなければ、どうして福音を聞くことができるだろうかと訴えています。そこには、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」とあります(ローマ10章15節)。

 そしてこの章の後半には、誰によってどのようにして良い知らせがもたらされるのかが記されます。それは、主のしもべの想像もつかないような姿によるのです。

 メールボックスには、たくさんの知らせが届きます。ホテル10%割引、航空券のキャンペーン、聖書関連の本がお買い得、ポイントアップ、新しいコンピュータがお買い得…。けれども、何といっても「あなたの神は王であられる」「キリストはあなたを救ってくださる」という罪と死から解放されるという知らせにまさる「良い知らせ」はほかにありません。

 振り返ってみると、私も良い知らせを伝える人がいたので今があります。そして今度は、良い知らせを伝えるために出て行く足になるようにと呼びかけられています。

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わたしの義、わたしの救い

2019年11月14日 | イザヤ書

イザヤ書 51章

 スイスからの帰路は急行列車の旅。黒い森を流れる川沿いに北上しました。けれども夜で周囲は何も見えません。客車列車で、出発の時はスイス鉄道の機関車が牽引していましたが、乗換駅に到着して確認すると、機関車がオーストリア鉄道のものに変わっていました。??

 1節の「義を追い求める者」に始まり、5、6、8節の「わたしの義」、7節の「義を知る者たちよ」と、8節までには義ということばが繰り返し出てきます。これらがどのことばと対になっているのかを見てみますと、1節は「主を尋ね求める者」、3回用いられている「わたしの義」は「わたしの救い」、そして、7節の「義を知る者たちよ」という呼びかけのことばは「心にわたしの教えを持つ者よ」ということばとペアになっていることに気づきます。

 この章の初めの呼びかけのことばは、神がご自分の民としてお選びになったイスラエルだけでなく、神がお造りになったすべての人々が何を追い求めるのかをはっきり伝えています。自分は何を追い求めているのだろうかと問うべき、大切なことばです。

 「わたしの義」ということばに心が留まります。追い求めるべきは「自分の義」ではなくて、「神の義」なのです。自分の義を追い求める者には救いはなく、「神の義」を追い求めるもの、つまり、主を尋ね求め、神のことば、神の教えに聞こうとする者には、神からの救いが届けられるというのです。

 西でも東でも、上に立つ人々による、「エッ」というような行動が報じられています。窮状を切り抜けようと何とかして自分の潔白、自分の正しさを主張し、そのためにはあらゆる手段を講じる姿がそこにはあります。グレイであっても白だと言い切り、そのためにはその場しのぎの嘘をさえ用います。けれども、このようなことは著名な人々だけの問題ではありません。

 自分の罪や非を神の前に認めたとき、「わたしの義は近く、わたしの救いは現れた」ということばは、その人のところに届けられるのだと教えていただきました。

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燃えさしを持つ者の真の闇

2019年11月13日 | イザヤ書

イザヤ書 50章

 雪景色の東スイスを案内していただきました。「みことばの光」10月号以降の表紙2ページを飾る写真の場所。標高900メートルを越えた辺りから景色が変わります。創造の神の色づかいを何と表現したらいいのでしょう。
 
 本章は三つの部分に分けることができます。


 まずは1−3節。ここでは、イスラエルの民の不平に対して、主が「そうではない」と反論しておられます。彼らの不平とは、神は自分たちの母を追い出したということです。彼らの頼りだったエルサレムを母に例え、母なるエルサレムが崩壊しバビロンに連れ去られたことを言っているのでしょう。しかし、主は、「そうではない」と言われます。「わたしのところに来なかったではないか」「わたしが呼んでも答えなかったではないか」と。
 とても身勝手で不信仰な彼らの様子は、私たちと決して無関係ではありません。

 次に4−9節。ここにはメシアである主のしもべのことばがあります。心に留めるのは、弟子の舌と弟子として聞く耳ということば。これは、主のしもべが語ることにおいても、聞き従うことにおいても主の弟子としてふさわしかったということです。彼はただ神のことばを語り、彼は神のことばに従って虐げや侮辱を忍びました。新約聖書を読む者はここに、キリストのお姿を重ねます。そして、キリストの弟子としての自分がどうなのかと心を探られます。神に従う者には侮辱ということはないという7節の確信に勇気を得ます。

 終わりの2節は主のしもべに聞き従えとの促しです。真の光である主のしもべに従う者と、そうでない者との結末の違いが確認できます。燃えさしを持つ者の真の闇を恐れつつ…。

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あなたを忘れない

2019年11月12日 | イザヤ書

イザヤ書 49章

 鉄道旅をしました。多くのループ線(高低差の激しい場所を上り下りするために螺旋状に配置した線路の形)があり、深い谷を渡るための高い石橋があり、トンネルがありと、魅力満載の区間でした。トンネルを抜けるとそこは銀世界。秋の終りと冬を一日で体験できました。充分な「鉄分補給」ができました。

 「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた』と」ということばが、本章のほぼ中ほどの14節に置かれています。このことばは、預言者イザヤの時から100年少しあとに起きたバビロン捕囚、エルサレム破壊を経験した民の嘆きのように響いてきます。神によって選ばれたのだから、エルサレムは守られ打ち破られることはないと思って安心していた彼らは、自分たちが神に背いたことからなのだというのはどこかに置き忘れて、主は私を見捨てた、忘れたと嘆くのです。

 その前の13節まででは、主のしもべ(メシヤ)が来てご自分の民をお救いになるとの約束があります。けれども、その約束などどこかに吹き飛んでしまうようなことが起こるのです、それが起こったときに、彼らは必ずこのように言うことも主はすでに知っておられたのです。

 15章以下では、「見捨てた、忘れた」と嘆く彼らに、「決して忘れてはいない、忘れることはない」と神が慰めておられるのです。この章では、神が彼らを母の胎にいる時から知っていたと、そして母親がわが子を忘れないように、いや、たとい母親が忘れるようなことがあったとしても、わたしは決してあなたを忘れないとおっしゃるのです。

 自分を知ってほしい、注目してほしいと、いろいろなツールが使われています。「いいね」などのクリック数が多いと安心したり、少ないとがっかりしたりするということもあるでしょう。「あなたを忘れない」「知っている、あなたのすべてを…」とおっしゃる神がおられるという事実に、慰めや支えを得ています。

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わたしに聞け

2019年11月11日 | イザヤ書

イザヤ書 48章

 土曜日からスイスを訪ねています。いつもは自動車なのですが、今回は鉄道、そして最後にちょっとバスに乗り継ぎの旅。自宅からは5回乗り継いで無事に目的の地に到着。途中「黒い森鉄道」と呼ばれる路線を通りましたが、なんと雪景色でした。

 この章は、「これを聞け」ということばから始まります。3節には「わたしは…聞かせた」とあり、5節にも「聞かせた」、さらに6節に「あなたは聞いた」、「聞かせる」と続き、8節では「あなたは聞いたことがなく」、12節には「わたしに聞け」と促され、14節に「みな集まって聞け」、16節に「これを聞け」などと連なっています。これらこのことばから考えるなら、イスラエルの民は神からのことばを聞く機会を得ていたのに、まるで聞いていないかのようだったということが伝わってきます。

 「聞いた」とか「聞かなかった」ということでトラブルになることがあります。ちゃんと伝えたのに、関心がそこになければ聞かなかったということになります。おびただしい情報が押し寄せ、多くの人の耳にはワイヤレスイヤホンが差し込まれていて、ご自分の好きな音楽をどこにいても聴くことができます。ラジオの前に行かなければ、プレーヤーがなければ音楽を聴くことができないというのは遠い昔だったような気がします。

 しかし、何を聞くのか聞かないのかは、生死を分けるほどの場合があります。そして、神がこれほどまでご自分の民に「聞くこと」を確認しているのは、神のことばを聞くことが生きるか死ぬか、勝つか負けるかを決める重要な分かれ目だったからです。その分かれ目に聞いているのかとの問いかけを覚えます。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki