みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主を愛さない者は…

2023年08月02日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 16章13−24節

 きれいな青空が広がったかと思うと、すぐに黒雲が覆い激しい雨が、しかしまた青空から太陽が……。そんなことが繰り返された火曜日でした。外出には傘が手放せません。そんな夏ですが、昨日は「みことばの光」11月号の編集を日本との間で行いました。

 頻繁にSNSが飛び交う今、伝えることを次々に送ることができます。しかし、つい50年ほど前は、手紙をポストに入れて返事が来るまでに少なくとも1週間は待つ必要がありました。ましてやパウロの時代、手紙は誰かに届けてもらっていました。手紙の最後に何を書くか……、パウロの頭の中にはおそらく、書いておくべきこと、伝えるべきことが次々に浮かんできたのではないかと、この部分を読んで思いました。

 ここには命令、挨拶、そして祝福の祈りと続きます。厳しいことを書いてきたパウロ、しかしそれもコリントの教会を心から愛するゆえのことでした。

 14節の「一切のことを、愛をもって行いなさい」は、コリント教会に何よりも必要なことなのだと言うことの確認の命令、勧めです。「何がなくても……!」というコマーシャルがありました。コリント教会は「いろいろあっても……!」だったのです。

22節の「主を愛さない者はみな、のろわれよ」にもはっとさせられます。13章の「愛がなければ」を心に刻んでほしいとの願いがこのことばに込められています。教会の力とは何だろうかと、考えさせられます。


お許しになるなら

2023年08月01日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 16章1−12節

 今日から8月。「みことばの光」の表紙も変わりました。今月は一つを除いてすべてが直立しているデザイン。デザイナーさんからいただくたびに勝手に想像して楽しんでいるのですが、暑い日本の夏、もたれかかられると暑苦しいので、互いに適度な距離をとっているように見えました。適度な距離感、大切ですね。最後の一つは夏バテでしょうか?

 コリント人への手紙第一も最後の章を読みます。

 前半はエルサレム教会への支援献金のことです。これは、エルサレムの貧しい兄弟たちのためにアジアやギリシアの諸教会が献げるものであり、パウロは自分がコリントに行ってからあわてることのないよう、予め集めておくようにと指示しています。このことについては、第二の手紙8−9章でも触れています。

 献金は豊かだからするもの、できるものではないのですね。パウロのことばが心に浮かびます。

 「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富みとなりました。」(Ⅱコリント8章2節)

 後半はパウロのこれからの計画についてです。彼はコリントを訪ねたいと願っていました。しかし、すぐには行けない事情もありました。エペソに滞在しなければならなかったのです。それは福音を宣べ伝えるためでした。人はいろいろな計画を立て、予定を組みます。しかし、信仰者にとって何よりも優先すべきは神のお考え。7節に「主がお許しになるなら」とあります。 自分の最良の計画も、主がお許しになるならば…なのです。


確かな励まし

2023年07月31日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章50−58節

 日曜日の昼時、「夏休みユースの会」がありました。みんなが揃うまでゲームを…と、いくつかのボードゲームを楽しみました。そのあとでお昼ご飯。持ち寄ったものをいただきました。手巻き寿司各種、鳥唐揚げ、赤飯、お好み焼き、そしてデザートはブラウニー、飲み物はジュースや紅茶。企画し、準備してくださった方のご苦労に神が応えて祝福してくださいますように…。でも、ボードゲームって面白いですね!

 キリストの復活が、キリスト者や教会に、いやこの世界にどのような大きな意味をもたらすのかをパウロは書いてきました。ここはその締めくくりです。

 締めくくりにふさわしく、すべての人を縛っていた死がついに敗北する時が来ると、パウロはいくぶん興奮した調子で書いています。

 57節の「私たちの主イエス・キリストによって」ということばが目に留まります。私たちが…ではなく、私たちによってではないのです。キリストの復活によって、私たちを苦しめ続けている死が、死をもたらす罪がついに敗北する、弱い私たちがなんと勝利する日が間違いなく来るのです。

 その確かな希望に基づいて、パウロはコリント教会に、いや、すべてのキリスト者に書いています。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」このことばに何度励まされ、支えられてきたことでしょう。

 「いったい何をしているのだろうか」と自分で自分を責めるようなとき、「無駄だった」と落ち込むようなとき、やっとのことでこの聖句にたどり着きました。それはただの慰めではなく、キリストが復活したという事実に基づいた励ましなのです。


初穂であるキリスト

2023年07月29日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章20−34節

 この夏も、日本からわが家に孫が二人滞在することになり、昨日無事に着きました。子どもだけの旅なので入国審査の折りに提出する書類、そして出口で私たちが待っているとのメモも持たせました。案の定入国審査官から確認の電話があり、無事に迎えることができました!

 ここでは、「初穂」ということばが使われています。出エジプト記23章19節には、「あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない」とあります。

 ここでパウロは、キリストが復活されたことを「初穂」と表現しています。キリストの復活が「初穂」だとしたら、キリストを信じる者たちの復活が間違いなくあるのです。それが「来臨の時」に起こるとパウロは続けます。そして彼は、「それから終わりが来ます」言います。

 キリストの復活は、そのあとの歴史で必ず起こることの「初穂」なのですから、ここでパウロが明らかにしている一つ一つのは間違いなく起こるのです。「終わり」ということばからは悲観的な未来を描きやすいのですが、そうではありません。初穂であられるキリストが、王として治める時を指しているからです。そして「神が、すべてにおいてすべてになられる」のです。

 26節に目が留まります。死は私たち誰もが直面するものです。愛する家族も死を免れません。いや、ほかならぬ私も死を免れることはできません。人間の前に立ちはだかる死という厚い壁。しかし、やがてその壁は崩れ去るのです。キリストの復活は死が滅ぼされることは確実だと、約束しています。

 「神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前の者が過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21章4節

 


決定的な「もし」

2023年07月28日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章12−19節

 しばらく眠っていたミラーレス一眼レフカメラを使い出しました。ずいぶん前のもので解像度も高くありませんが、マニュアルモードにすると思ってもみなかった画になります。

 コリントの教会に「改めて福音を知らせ」ているパウロ。福音とは…について、彼は「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです」と書きました。

 12節から58節までで、パウロはキリストが復活されたことに焦点を絞って書いています。教会の基礎は福音、そして福音がほんとうに力があるのは、キリストがよみがえられたという事実があることだと話を進めていきます。どんなに聖書を巧みに教えることができても、どんなに豊かな賜物があったとしても、キリストの復活を信じることをしなかったら、宣教は空しく、信仰も空しいとパウロはことばを変えて強調しています。

 15節から、マタイが記した出来事を思いました。マタイの福音書28章11−15節です。祭司長たちは墓が空っぽだと報告に来た兵士たちを買収して、「弟子たちが……われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った」と言わせたのです。このでっち上げはユダヤ人の間に広まっているとマタイは記しています。

 パウロは言います。人は果たして嘘のためにいのちを懸けられるだろうかと…。パウロも、そして使徒たちの多くはイエスが復活したことを、福音を伝えたためにいのちを落とします。彼らの姿もまた、イエスの復活が紛れもない事実だということの証しなのです。


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