みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の御名をほめたたえよ

2022年08月31日 | 詩篇

詩篇 135篇

 いろいろあった8月も、今日が最後の日。当地でも子どもたちの新学期(新学年)がもうすぐです。何となく気持が乗らないという気持のお子さんもいるのかもしれませんね。今年はどのような夏でしたか。

 135篇の主題は、「ハレルヤ」とその御名をほめたたえる主は、私にとって、私たちにとってどのようなお方かということです。

 この詩全体を「眺めて」目につくのは、「ほめたたえよ」ということばが多いこと。「ハレルヤ」も「主をたたえよ」という意味ですので、最初から最後まで主をほめたたえよとの呼びかけが連なるのです。

 しかし、主がどのようなお方かを知らなければほめたたえることなどできません。この詩の作者は、その理由を並べます。「まことにいつくしみ深い」、「御名は実に麗しい」、「イスラエルを選ばれた」、「大いなる方」、「望むところをことごとく行われる」、自然を治められる、ご自分の民イスラエルををエジプトから約束の地へと導かれた、そして約束の地を与えられた…と歌います。

 けれども、私たちにとって、私にとって何か良いことがあったので主をほめたたえるのではないとも考えました。神は神だから、神に造られた私たちは「ハレルヤ」とほめたたえるのです。そして、ほめたたえる私たちは、主が私にとってどのようなお方かを知ろうとします。いや、知りたいです。


祝福はこのように

2022年08月30日 | 詩篇

詩篇 133−134篇

 昨日いただいた手作りの抹茶大福を、牛乳とともにいただきました。お茶で…とも思ったのですが、あんパンと牛乳が合うことから、試してみました。予想どおり! ごちそうさまでした。

 日曜日に続き、2つの詩篇をいっしょに読みます。

 133篇は声を出して読むと、嬉しくなります。「なんという…、なんという…」ということばの繰り返しが、喜び、嬉しさを増します。「見よ。なんという幸せ」ということばは、「ヒネ マ トブ」というヘブライ語。このことばを繰り返すダンスの映像を見ることができますので、お試しください。

 134篇は、主をほめたたえよという呼びかけです。そして「都上りの歌」はこれが最後。これらが巡礼の折りに歌われたと考えならば、締めくくりに「見よ なんという幸せ…兄弟たちが一つになって ともに生きることは」と喜び、「さあ、主をほめたたえよ」と呼びかけ合うのは、巡礼の目的地エルサレム、シオンに着いた人々の、偽りのない気持です。

 しかし「一つになって、ともに生きること」、「さあ 主をほめたたえよ」と呼びかけ合えることは、神からの祝福なのだということを忘れてはなりません。その祝福がどれほどのものかは、大祭司アロンの頭からひげに、そして衣の端へと滴り落ちる油に、さらにヘルモンからシオンの山々に下りる露に譬えられるほど豊かなもの。

 イエス・キリストによって「兄弟たち」とされ「主のしもべたち」とされた教会は、この祝福であふれたところ。そのようでありたいと、心から願います。

 

 133節の1節は、今年の私たちの教会の年間主題聖句の一つです。


見ることができなくても…

2022年08月29日 | 詩篇

詩篇 132篇

 地域の「ワイン祭り」ゆえに、日曜日の礼拝を礼拝堂下の集会室で行いました。でも、プロジェクターの光量も十分で、使い勝手の良い場所だと思います。コロナ前はこの部屋で礼拝していたのですが…。

 本篇は「主よ ダビデのために 彼のすべての苦しみを思い出してください」という祈り、訴えで始まります。ダビデの苦しみとは何でしょうか。2−7節は、ダビデが神の箱(契約の箱)を安置しようとしている時のことを思い出します。

 8−10節はダビデの子ソロモンが建てた神殿の奉献式での祈りのことばを思い出させます。神殿はダビデが建てたいと願ったものです。11−12節は、ダビデの身から出る子どもたちへの約束であり、ソロモンを初めとするイスラエルの諸王を思わせます。しかし、ここにある約束はソロモン以後のイスラエルの歴史を確認するなら、実現することはなかったのです。

 13節以降は、神殿の奉献式でのソロモンの祈りへの神の答えを思い起こさせます。しかし、その時の神殿はバビロンによって滅ぼされ、その後建てられ、さらに大きなものとなった神殿もローマ軍の攻撃によって崩壊し、今はありません。

 ダビデの苦しみとは、彼の熱意や彼への約束が自分がこの世にいる間には実現しなかったゆえのものであるかもしれません。けれども私たちは、本篇でのダビデへの約束はダビデの時からおよそ1000年後に間違いなく実現したことを知っています。神の約束を信じる者は、もしかしたら、いや多くの場合、その実現を自分で見たり手にしたりできないのかもしれません。しかし、それもよいこと、なのです。

 神が約束されたものは実現するのだというメッセージを、この詩篇から得られるのはありがたいことです。


「一つに…」というとりなし

2022年08月27日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 17章20−26節

 久しぶりの雨です。でも、もう少し…と思うような降り方でした。土曜日は期待できそうですが。

 「大祭司の祈り」と呼ばれている主イエスの後半部分。20節には、弟子たちのためだけでなく、彼らが宣べ伝える福音によってイエスを信じる人々のためのとりなしでもあることが分かります。

 そしてイエスのとりなしは、イエスを信じる者たちを一つにしてくださいとの願いでした。「私たちは一つ」というスローガン的なことばはあります。「全党一丸となって」、「政府一丸となって…」などという言葉もたびたび聞かれます。

 しかし、これを聞く側が何となく白けた気持になるのはなぜでしょうか。「一つになる」、「一丸となる」ということばが、実際にそんなことはできないだろう…と、どこかで受け止めているからかもしれません。

 主イエスが弟子たちのために、そして教会のために祈っている「一つになるように」という願いには、驚くべきかたちがあります。22節です。「わたしたちが一つであるように」とイエスは祈っておられます。イエスの弟子たちが一つであることのモデルは、三位一体の神の関係にあるのだということなのです。

 それはみなが同じ顔をして、同じ服を着て、何を聞かれても同じことを語って…という「一つ」ではありません。一人のお方を主と見上げることから来る「一つ」です。

 イエスは、私のために、私たちのために、このことを祈っておられます。


ついて行く者を支える

2022年08月26日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 17章1−19節

 残暑の厳しい当地ですが、朝の涼しさを心地よく感じています。「9ユーロチケット」もあと数日になりましたので、どこかに行ってみようかな、とも思っています。

 本章は、イエスが弟子たちのためにとりなす祈りで占められています。しかし、本日の「みことばの光」が解くように、ここに記されている祈りは、私たちのための祈りでもあるのです。

 1節の「イエスは目を天に向けて言われた」ということばが目に留まります。祈りは「目を天に向けてなされるもの」です。私は祈る時どちらかというと頭を下に向けることが多いのですが、上を見上げて祈ることの大切さをここから教えられます。

 昨日は、「みことばの光」の新しい5年サイクルの打ち合わせをデザイナーの方としたのですが、解説があるいわゆる本文のレイアウトが少し変わります。新しいレイアウトは今までよりも初めに「上を見る」ことになります。

 話が逸れましたが、イエスの祈りには弟子たちの課題といいますか、欠点に触れるということがありません。いやむしろ、「彼らはあなたのみことばを守りました」とさえ祈っているのです。私もそうですが、人はあれこれと自分が足りない者であること、失敗を重ねてしまうことを嘆きます。もしもそのようなことにだけ目が向くのだとしたら、それこそうつむいてだけいることになります。

 弟子たちもそうでした。しかしイエスは弟子たちをそのようにはご覧になりません。「あなたのみことばを守りました」と祈るのです。この祈りには、預言的な意味合いも含まれているのかもしれないとさえ思いました。

 イエスについて行こうとする者は、自分の才覚でそれをなしえることはできません。とりなしてくださる方によって、このようなとりなしによって支えられているのです。


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