みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

それでも、主は

2011年12月31日 | 詩篇
詩篇106篇24-48節


 一昨日から、孫たちが「滞在」しています。2歳と1歳の二人は、じいちゃんとばあちゃんにとっては「生きたお人形」のよう。何でも言うことを聞いてしまいます(相当な…ですね)。お陰で、たくさん肩車をしてグルグル部屋の中を歩き回ったりで、有酸素運動で汗をかくこともできました。
 子どもの、特に乳幼児の成長は目を見張るほどです。去年の今ごろは歩き始めてふらふらしていた上の孫が今では元気に走り回り、上手に日本語を話すのですから…。散歩していたら清掃車を発見。さらっと「ごみしゅうしゅうしゃ」と言うのでこれまたびっくり。
 
 詩篇106篇後半を読むと、人間は同じ過ちを繰り返して進歩がないものだと考えました。この箇所では出エジプトの旅の後半からカナン定住までの彼らの罪。
 24、25節から「さげすみ」「信ぜず」「つぶやき」「聞かなかった」という四つの動詞を拾うだけでも、いかに罪に走りやすい者か、と思うのです。
 昨日も書いたように、この詩をうたった人々は、「私たちはもうこんなおばかな先祖たちの愚は繰り返しません。神の戒めに生き、神を敬い、信頼し、賛美し、神のことばに耳を傾けているからです」と言っているのではありません。
 
 47節の「私たちをお救いください」との願いは、むかしも今も変わらない罪人の祈りなのです。そしてこの祈りは、相手が罪を犯そうが、怒らせるようなことをしようが、変わらずにご自分の契約を思い起こしてあわれまれる主の、ご真実に基づいているのです。

 一年間、「みことばの光」をそしてこのブログをご愛読いただきありがとうございます。
 主にあって、よき新年をお迎えください。
 




そこで…、しかし…

2011年12月30日 | 詩篇
詩篇106篇1-23節


 昨日、新築の長女宅を訪ねました。
 いやぁ、住宅の設備はずいぶんと進歩しているものですね。驚いたのはトイレ。部屋に入るとひとりでに蓋が開きます。聞いてはいましたが「これがそれか」などと、心の中で訳のわからない代名詞を連発する自分がいました。
 お掃除は円形の「お掃除ロボット」が、勝手にやってくれるとのこと。「ますます家事をしなくなるではないか」などと、これまた心の中でつぶやくのでした。もちろん、口に出しては言えませんが…。

 住宅の設備やコミュニケーションの道具、その他様々なものが、格段の進歩を遂げていますが、変わらないのは人間の心。
 「みことばの光」にあるように、詩篇106篇は「民の罪と神の怒りとあわれみの回顧と賛美」という主題。詩人はここで、先祖たちの罪を非難して「先祖たちはだめだったなぁ。でも、私たちは彼らとは違う」と言っているのではありません。「私たちは先祖たちと同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った」(6節)と告白しています。

 ブログのタイトルは12、13節から採りました。
 あれほどまでにすばらしいことをなさった神を賛美した、その舌の根も乾かないうちに、「すぐに、みわざを忘れ」てしまったのです。「そこで…、しかし…」の繰り返しは、モーセの時代から今に至るまで変わらないのではないでしょうか。

 それとともに、チャレンジを感じたのがモーセが「御前の破れに立」ったということです。
 ここに、信仰者の役割があるのですね。放っておいたら自らも「そこで…、しかし…」を繰り返すような者なのですが、すばらしい主イエスの十字架の贖いによって罪を赦され、このような務めを得ているのです。

 早朝の祈祷会もきょうで今年は終わり。
 「きょうまで守られ」という聖歌をともに賛美して、この務めにほんのわずかでも加えさせていただいた神に、感謝しました。
 いっしょに祈る人が加えられるように、期待して神に祈ります。






主が覚えておられたから

2011年12月29日 | 詩篇
詩篇105篇25-45節


 昨夜は、通っている教会での年末祈祷会。出席者がそれぞれ、いつもよりも少し長く一年を振り返りました。いろいろなことが、この国にも、地域にも、教会にも、それぞれの家庭にもあったのだということを、話を聞きながら考えていました。キリスト者は、一つ一つの出来事を「よかった」とか「悪かった」と括ってしまうのではなくて、出来事の意味を、神からのメッセージを汲み取ろうとして話すのだということを、今さらながら思ったことです。
 
 詩篇105篇後半は、出エジプトの出来事の回顧です。
 心に留まったのは二つのことば。
 一つは「主は人々の心を変えて、御民を憎ませ、彼らに主のしもべたちを、ずるくあしらわせた。」私たちの想像を超えた神の偉大さを思うとともに、自分の身の回りに起こる出来事のすべてに、私たちは納得のいく答えやうなずきを持てないことがあるのだ、ということを改めて考えるのです。

 もう一つは、「これは主が、そのしもべアブラハムへの聖なることばを、覚えておられたからである」とのことば。 「みことばの光」には、「このことばは本篇の中心思想であろう」とあります。この詩篇には、神がご自分の民をエジプトから出るようにし、約束の地に至るまで必要を満たしてくださったことがうたわれます。

 この一年を振り返ろうとする今、あっちにぶつかったりこっちにふらふらしているような者を、それでも顧みてくださったという忍耐の神が、自分に何をなさったのかを数えて、感謝したいと思います。




 


とこしえに覚えておられる

2011年12月28日 | 詩篇
詩篇105篇1-24節


 年末年始は、普段なかなか会えない友からの便りが届く時期でもあります。
 クリスマスカードを出し終えたと思ったら、次は年賀状。「一本化」しようかと考えた時もありましたが、何となくズルズルと両面作戦をしています。
 たくさんのカードを出すのは、もしかしたらたくさんのカードを送ってもらいたいと、どこかで思っているのかも知れません。自分のことがあの人にもこの人にも覚えられている、忘れられてはいないのだとの確認の時期が、年末年始かも知れません。

 そのようなことを考えたのは、8節の「主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる」とのことば。
「(この詩篇を)歌う者たちが、自分たちの神をどんなに熱く思い、恵まれ、感謝しているのかが伝わって来る」と「みことばの光」にあります。この詩篇を声高らかに歌いながら、人々は高揚感に包まれ、神を賛美せずにはいられなかったのはなかっただろうか、と想像しています。
 
 それは必ずしも、自分たちにとって「うまく行った」ということで、神を賛美し感謝しているのではないのですね。
 アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフ…。だれもがしくじりを重ねました。それでも、彼らとの契約に主はあくまでも忠実でいてくださったということが、ポイントなのです。

 うまく行ったことも、しくじったことも含めて、2011年を振り返って「ああ、確かに主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる」と賛美と感謝、そして悔い改めの時を年末に持てたら、と思います。







生きているかぎり

2011年12月27日 | 詩篇
詩篇104篇19-35節


 詩篇104篇20節を読んで、ある中学生キャンプを思い出しました。
 そのキャンプでは、キャンプ場を出て山の中で一晩を過ごす「ソロ」というプログラムがありました。場所は日光霧降高原。キャンパー、スタッフも離れ離れになってシュラフに包まれて眠るのですが、日光といえば猿。
 就寝の時が来て辺りが静かになると、キーキーと猿の鳴き声が聞こえてきます。遠くで聞こえたかと思うと、ずいぶん近くでも鳴いています。
 次の朝みんなで集まったときにそれぞれが「怖かった」とか「鳴き声がうるさかった」などと感想を言い合っていました。その時思ったのは、人間の弱さとか小ささ。それとともに、不安なときに神に信頼して過ごすということでした。
 「ナイトズー」とか「ナイトサファリ」などという企画を立てる動物園もあるほどですので、夜に活発に行動する動物も多いのですね。

 24節に「地はあなたの造られたもので満ちています」とあります。
 昨日も書いたように、漫然と生きていると気づかない生き物の神秘は私たちの周りの至る所に満ちているのだと思います。そして、大きなものから小さなものまで、1つひとつのいのちが神によって与えられ支えられ、そして摂られていくのだと思うと、神をほめたたえ恐れるという思いが沸き起こってきます。

 主が創造されたものに囲まれて毎日を生かされていたら、「私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう」と歌わざるを得ないのですね。

 一晩とはいいませんが、この時期あったか装備をして寝袋にくるまり、夜空を見上げて数時間を過ごすのも、おすすめです。







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